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『鳴き砂幻想2』第2章
古代の怪異--シナイの山の揺れしとき

霊州に鳴沙あり

    人馬の行きかう砂に声ありと

      ・・・・・・・・・・・・・

       この砂、干糖の如し 

         天気晴朗のとき 自ら砂鳴く

            謝在杭

シナイの山の揺れしとき

  モーゼに率いられて、エジブトを脱出したイスラニルの民たちは、三カ月めにシナイの山に到着し ,ここで神の十誠を授かった。『旧約聖書』の「出エジプト記」第十九章にはこう書いてある。「三日目の朝となって、かみなりと、いなずまと厚い雲とが、山の上にあり、ラッバの音が、はなはだ高く響いたので、宿営におる民はみな震えた。モーゼが民を神に会わせるために、宿営から導き出したので、彼らは山のふもとに立った。シナイ山は全山煙った。主が火のなかにあって、その上に降られたからである。その煙は、かまどの煙のように立ち上り、全山はげしく震えた。ラッパの音が、いよいよ高くなったとき、モーゼは語り、神は、かみなりをもって、彼に答えられた」

  このシナイの山とはいったいどこなのか。伝説的な場所として、一応、ジェベル・ムーサ(ムーサ山)とされているが、聖書考古学者の間でも議論が多く一定していない(文献1,2)。

 たとえば次のような火山説がある。「火山活動を暗示する用語により、神の啓示を述べている。このことから、ある学者たちは、シナイ山が噴火中の火山であったと結論し、火山岩が存在するアカバ湾の東の、北西アラピアに位置づけた。しかしそこはシナイ半島の外部にあるだけでは なく、エジプトから遠すぎる。シナィ山は、シナィ半島内の伝説的た場所、ジェベル・ムーサの近辺に位置づけるべきであり、噴火中の火山と雷鳴による神顕現の描写は、最初の伝承に対する加工として物語の中に取り入れられたと考えるほうがよさそうである」

 聖書学者のこの見解を念頭におきながら、もう一度、前記『出エジプト記』の記述を見直してみると、どうも納得のいかたい点が出てくる。山が震え、ラッパの音がし、かみなりが鳴る。この三つをどう結びつけるのか?ところが、こういう現象は、これから先、順を追って述べるように、砂漢をさまよう人々には、あまねく知られていた大自然の怪異現象であった。われわれが火山や雷に驚異を感じると同じように、古代人にとっては神顕現の描写には適切なものであった。いろいろた書物に同じようた話が出てくるのである。

図2-1 シナイ半島-鐘の山(Jebel Nagous)は『出エジプト記のイスラエルびとが歩いた道』


鐘の山・ジェベル・ナクー

  古くから、シナイ半島のムーサ山付近を旅した人々の間に、不思議た話が伝えられていた。鐘が鳴る山があるというのである。アル・ツールの近くにあるただの砂山だが、ときに大きな音を発する。そこに住むアラブ人たちは、地中に埋もれた修道院があって、僧侶が修道士たちを呼び集めるために鐘(ナクー)を鳴らしているのだと信じてきた。その山の名を「鐘の山(ジェペル.ナクー)」という。  
 19世紀の初頭、いく人かの科学者たちがこの場所を訪れ、その正体を解明しようとした。その記録によると(文献3,4)、この付近には低い砂岩の丘陵が走っている(この砂岩が砂のルーツなのだが)。高さ30メートルほどの、岸に臨む瞼しい上り坂があり、ここで、ときおり、すごい音が聞こえる。ロシャの博物学者ゼーツェソ(1767-1882)は1810年にここを訪ね、次のように述べた。

  「その音は、初めはアイオリアソ・ハープ(注1)の調べに似ており、次には中空の独楽(こま)の音に変り、最後には非常に高い音になって大地が鳴動する。その音はギリシャの修道院で鐘の代りにつかわれる楽器の音に似ている」

  この不思議な音の原因について、ゼーツェソは、乾いた砂が岩の表面できしるためであろうと考えた。1818年にはグレイという旅行者もこの音を聞いたが、彼は近くに温泉があるから、なにか火山性のものだろうと考えた。さらに1823年にはエーレソベルク()教授が仲間をつれてこの地を訪れ、くわしい観察をした。彼はその丘の下から頂上まで登ってみたところ、一足ごとに音を発した。また多量の砂を斜面に沿って落下させると、初めは静かな音だが、次第に高い音になり、最後には、遠くで大砲を撃っているような、驚くべき大きい音になる。この音はまた、その砂丘を横切って動物が走るときにも起こるし、また風が激しく吹いて砂を動かしても同じ音が出る。なお、ここの砂は透明な石英であったとつけ加えている。その後も多くの人々がこの地を訪ね、不思議な音の原因とその様相が次第に解明されていった。その場所といい、その音の驚くべき大きさといい、まさに「出エジプト記」の記述にピッタリであることがますます探検者たちの興味をそそったのである。詳細は次章で述べることにして、その前に、中央アジアの砂漢には、他にもよく似た現象が古くから知られていたことを紹介することにしよう。

恩魔の谷…レグ・ルワン

 マンデヴィルの『東方旅行記』(文献5)は14世紀の有名な東洋周遊旅行案内記であ。半架空的旅行記だが、これが西欧人を東洋への幻想に駆りたて、東洋旅行全盛時代を拓いた。そのなかに、こんな話が出ている。

 「危険な谷間の悪魔の首。ープレスター・ジョンの王国から少しさきのピソン河よりのところには、世にもふしぎなことがある。というのも、ふたつの山にはさまれて、全長4マイルもある渓谷があり、ある人々は魔法の谷と呼び、また中には、悪魔の谷とか、危険な谷とか呼ぶものもいる。この谷間で、しば一ば夜昼の別なく、奇怪な、ぞっとするような騒ぎ声が聞える。時には、大官連の饗宴でも催されているかのように、ラッパや大小の太鼓の響きのようた音が耳に入る。この渓谷には、かっても常にそうであったが、今でも悪魔がうようよしているのである。だから土地の人々は、地獄への入口だという」

 この怖ろしい話は実に迫力に富み、この旅行記のなかでも最も面白いところ.ひとっとされている。だがマソデヴィルは自分では旅行せず、いろいろな旅行記をまとめて、まるで見てきたようた架空の読物を書いた人である(文献6)。「悪魔の谷問」の種本は、14世紀初めに書かれたオドリコ(12651331)の東洋旅行記』(文献7)であった。こちらはさすがに確かた書きっぷりである。.

「私が快楽の河の河上にある渓谷を進んでいったとき、多くの死骸を見たのである。私はまた種々の音楽を耳にしたが、特に不思議に奏せられていた太鼓の響きと騒音とは、非常に大きくて、最大の恐怖が襲いかかった。この渓谷は、7、8マイルはあり、もし誰かがこの中に落ちこめぱ、決して出られず、直ちに死んでしまうだろう。そのようた危険な渓谷であっても、私はこれを究めるために中にはいる決心をした。そこで、見た者でなければ信じられぬと思われるほど多数の死骸を見たのだった。私はそれをさけたがら、ついに渓谷の他の端に出た。そして一っの砂山に上り、あたりを見廻したが何も見えず、ただ不思議に鳴らされている太鼓の音を聞くのみだった」

 この話について、訳者は次のような注釈をつけている。「オドリコの記述は実際の体験によったものにちがいない。彼がある種のほんとうの恐怖を経験したことは明白で、ユール(オドリコ研究者)の言によれば、この渓谷は、たぶんオドリコがチベヅトヘむかう途中に横断したヒンズークシ地方、アフガニスタンの首都カブールの北方40マイルのところにあるレグ・ルワン(Reg-Rawan)のことで、また、喜びの河はパソシール(Panschir)河のことであろうという」

  ところで問題の不思議た音について、訳者は「中央アジアの沙漢における流砂の移動か、風のざわめきかによるものであろう」と書いているが、はたしてそうであろうか。その解答は、いまから100年前、すでにニューヨーク科学アカデミーで報告されていた。それに.よると、レグ・ルワンは1837年にアレキサンダー・バーンズ卿が訪れ、前記シナイ半島の鐘の山と同じ砂の山であることを確かめているのである。

 

砂漠の怪異

  シナイ半島の「鐘の山」、アフガニスタンの「悪魔の谷」、そのどちらも正体は砂だった。それならば砂また砂の沙漢には、ほかにも同じょうた現象があるにちがいないo『千一夜物語』は、アラピア砂漢に住む古い時代の人々の体験が、あるいは誇張され、あるいは潤色されて、またときには著しく変形されて伝えられている。私は不思議な音を発する現象の片鱗を求めて『千一夜物語』を読み耽り、第492夜に次のような一節を見つけることができた(文献8)。

 「こうして山々を越え、あまたの砂漢を渡って旅しておりますと、大空高く砂塵がもうもうと渦巻き昇るのを目撃しました。それで、その砂漢の方向へ進んでいったブルーキーヤーは、叫喚や剣戟相打っ響き、すざまじいどよめきなどを耳にしました。…-かの絶叫の聞こえてくる方を望み見ますと、今しも騎馬の二大群が互いに相戦っている最中であり、双方の流し合う鮮血は川をなすがごとき有様でした。また互に発する怒号はあたかも雷鳴のごとくでした」。たしかに潤色されてはいるが、そのルーツが砂漢の怪異にあることは確かである。7世紀前葉に17年の歳月を費やし、仏法を究めるために長安から印度へ沙漠横断の旅をした唐僧、玄奘法師(602-664)も、タクラマカソ砂漢横断のとき、同じような怪異を記録している(文献9)。

 「大流沙-尼や域より東行して大流沙に入る。砂は流れただよい、集まるも散るも風のままで、人は通っても足跡は残らず、そのまま道に迷ってしまうものが多い。四方見渡す限り茫々として、目指す方を知るよしもない。かくて往来するには、遺骸を集めて目印とするのである。水草は乏しく熱風は頻繁に起こる。風が吹きはじめると、人畜共に目がくらみ、迷い、病気となり、時には歌声を聞いたり、或いは泣き叫ぶ声を聞き、聴きとれている間に、何所に来たのかも分からなくなる。このようにしてしばしば命をなくしてしまうものがあるのも、つまりは化物の仕業である。(大流沙を)行くこと400余里、都貨らの故地に至る」

 玄装がたどりついたトカラの位置は、東経83度53分、北緯37度50分と推定されている。タクラマカン砂漢のまんなかである。

 13世紀に、玄装の帰路に近いコースを通ったマルコ・ポー口(1254-1324)もまた、楼蘭から敦煌へ向かう砂漢の旅で不思議な体験をした(文献10)。「夜間、この砂漢を横断している際、たまたま眠りこんでしまったとか、あるいはほかの理由によって仲間から遅れたり取り残されたりして、何とか一行に追い付こうとしているような時、多数の精霊が彼に向かって仲間のような声で話しかけて来たり、時には彼の名前を呼んだりする。すると旅人は往々これに惑わされて、あらぬ方向に誘い込まれ、二度と姿を見せなくたってしまう。このようにして、命を落したり、行方不明になった旅行者は決して少なくない。しかもこれら精霊たちの声は、なにも夜間にのみとは限らないで、昼間でも聞こえてくるし、時によると種々な楽器の音、とりわけ太鼓の音を耳にするような場合もある。このために砂漢横断の旅行者たちは、精霊に惑わされないようにとの用心から、夜になると馬の首にも鈴を釣り下げる」

 

 敦煌の鳴沙山

 敦煌(トンホワン)は、NHKのシルクロード特集などで、最近はわが国でも広く知られ、観光旅行で訪ねる人々も多くなった。中国.甘粛省北西部の町で、西にタクラマカン砂漢をひかえ、西方からの旅行者にとっては中国への入口にあたるオアシスであり、古来、シルクロードの要衝として栄えた。唐代以後はしばしば沙州の主都であった。現在の敦煌県域の南東約30キロに、鳴沙山と呼ぶ岩山があり、ここに仏教の大石窟寺群・莫高窟の千仏洞があることも広く知られているが、鳴沙の山とは何か。これについてNHK編の『敦煌への道』(文献11)には次のように書かれている。

 「敦煌の街をぬけると一望千里の砂丘が連なっている。砂丘の主峯は背が鋭い稜角をなし、強い風が吹くと砂が飛ばされて大きなうなり声をあげるという。鳴沙山と呼ばれるのはそのためである」

 鳴沙の名称の由来について誤まった説明がたされているのだ。陳舜臣『敦煌の旅』(文献12)の記述もまた、はなはだ曖昧である。「鳴沙山とは、なにやらおだやかならぬ名称ではありませんか。砂が泣くのです。夜泣きというのです。砂はなぜ泣くのでしょうか。そのふもとにポプラの林の多い鳴沙山は、別名を沙角山、あるいは神沙山といいます。どの名にも沙の字がついているのです。砂とは切っても切れたい縁があることは、その名前でもわかるでしょう。冬から夏にかけてはー股々として声あり、雷の如し1といわれています。おそらく風のいたずらでしょうか。砂が犬きな音をたて20キロもはなれた敦煌城内でもきこえるというのです。その鳴沙山の南北1600メートルにわたる崖面に、二段、三段あるいは四段に石窟が掘られています。それはおびただしい数です。

    吉祥天胸もゆたかに炎踏み

      手のひらに砂鳴る音や蓮の花」

 これも音の正体が風だと書いている。そこへゆくと、正確な記述で知られる松岡譲氏(文献13)が、清代の地理書で、各国の探検家がたよりにしたという徐松撰『西域水道記』を引用されているのはさすがである。

 「鳴沙山の東南に水の赤い党河があり、山は東西40里にある。その山はまた一名、沙角山とも神沙山ともいわれ、沙を積んでこれをなす。峯らん危峭、岩にそぴゆ。四面皆沙ろう、背刀刃の如く、人これに登ればすなわち鳴り、足に随って頽落(たいらく)す。しかも時立って風が吹けばまた旧に復してしまうという、不思議な山で、そこから鳴沙山という名が出ていることがわかる。この山の東麓に雷音寺あり、山によって宇をなす」

これを読むと、音が出るのは砂が落ちるときであり、これはさきに述べたジェベル・ナクーや、レグ・ルワンとまったく共通の現象だということが明らかになる。そこで、さらに古文書を漁ってみたところ、唐代、880年頃の文書『敦煌録』(文献14)にもっとくわしい記述がみつかった。日く、「鳴沙山、州を去ること十里、其の山は東西八十里、南北四十里、高さ五百尺。悉く純沙聚起。この山、神異ありて峯は削成せるが如し。その間に井あり。沙それを蔽う能わず。盛夏に自鳴す。人馬これを践めば声数十里を振わす。風俗の端午の日、域申の予女皆高峰に踏り一斉に麟下せば、その沙の声耽えて雷のしようがく如し。暁に至ってこれを看れば、峭鰐は旧の如し」。この文書は探検家スタインが敦煌石室から持ち出し、ロンドンヘ運んだという敦煌文書(大英博物館写本)である。

 この文書をミュージカル.サンドの文献として、イギリスに紹介したのはオフォード(文献15)であった。 スタイン自身も、その探検記(文献16)のなかで、鳴沙山についての体験を書いている。

 「砂の山をかけ上った。と、なるほど砂は足下に崩れ落ち、遠くで車がゴロゴロ鳴るような音をたてた」

 このほかにも、古い中国の文書のなかには鳴沙山の記録がいくつかある。宋、元の時代に書かれた『事文類聚』には「陝西の鳴沙山は砂州の南なり。その砂、あるいは人足に随いて墜れば、宿を経て山上に還る」とあり、足で落としても、一夜のうちに山の上へもどるという。夜になると風向きが変わってもどるのだが、このことは次章でくわしく述べる。また『五雑俎』たどの著書で、わが国でもよく知られている明代の謝肇せい(在杭)は、治山治水技術の総元締だった関係で、申国全土を歩き、地誌も書いている。それによると、

 「霊州に鳴沙あり。この地、人馬の行通う沙に声ありと。鳴沙川は砂州城南に有り。この沙、干糖(乾燥した砂糖)の如し。天気晴朗のとき、自から砂鳴る。その音、城内に聞ゆ。その沙、人の足に随って落ちて、一夜に。また山にのぼる」
 さらに調べればいくらでもみっかるようで、「爪州南方十里の鳴沙山にて精霊の声」(文献17)とか、蘇履吉の連作の詩「敦煌八景」のなかに「沙嶺晴鳴」とあるなど(文献18)、あまねく知られた現象
であったことがうかがわれる。

 砂が鳴くから鳴沙山と名づけられ、その麓には、砂が雷鳴のような音を発す(19)るので大雷音寺が建立された。『西遊記』(文献19)に.は、たびたび大雷音寺が出てくる。たとえば三蔵が老婆から聞く言葉に、「西方の仏さまは大雷音寺におられ、天竺国のなか、ここから十萬八千里の道のりですぞ」とある。『西遊記』はフィクションだから、天竺国(インド)のことにされている。仏教の聖地だったのである。『旧約聖書』ではシナイ山、仏教は鳴沙山といずれも砂が鳴く現象にゆかり深いことは、いかにも不思議な一致である。だがなぜか、最近のシルクロード・ブームでは、鳴沙山や大雷音寺の怪異が、まったく話題に上らない。鳴沙山は沈黙しているのであろうか。1981年に同地へ旅した友人に(半田力雄氏、愛知県在住)、その確認を依頼した。彼は鳴沙山の頂上へ登り、頂上付近の砂を採取してきてくれた。彼は「現地で砂が鳴く気配はまったくなかったし、現地の人々も、風が峯を切るときに鳴るから鳴沙山と呼ぶのだと説明した」という。

 自然の変貌か、それとも開発のためか、理由は知るよしもないが、鳴沙は著しく汚れてしまったようだ。彼が採取してくれた砂は、はっきりその事実を示していた。砂粒は著しく円磨された石英砂であって(10章の写真1015参照)、しかも表面は、よく洗浄してみると鏡の面のように光り輝いていた。なぜ砂漢の砂がこのようた表面になるのかについては、10章で説明する。この砂粒を見て、私は鳴沙山の怪異が、まちがいなくミュージカル・サンドまたはブーミング・サソドと呼ばれる、特異な砂に起因するものだと確信できるようになった。
『新西遊記』(20)ところで、唐僧・玄装の旅したコiスを地図の上でたどってみて、私は驚く
禍バ誠桁肘吋外
図2-2玄奨法師西域赤唐僧玄楽は大きた音を議な砂山(ブーミング・ヒル)の近くをいくている。べき事実に気づいた。彼は鳴沙山をはじめ、さきに述べた「悪魔の谷」レグ一ルワソ、次章で述べるソ連・カザフ共和国のアクム・カルカソ砂丘と、いずれも大きた音を出す砂山の近くを通っている。そしてタクラマカソ砂漢では、前述の恐怖を体験したわけだ。「仏法を求めるのは、表向きの理由であった。玄笑は白砂の怪異に好奇心を燃やして、ブーミソグ・サソドの探検をやったんだ」と考えてみるのもおもしろい。もうひとつ、『新西遊記』にこんた話をつけ加えるのはいかがであろうか。じゆず「南無阿弥陀仏、大雷音寺はまったくありがたいお寺じゃ」と数珠をつまぐりながら、三蔵はお経をあげていた。孫悟空はたいくつでたまらたい。そっと寺を抜け出して、鳴沙山へかけ登った。彼が蹴下した砂が大雷音をまき起こし、鳴沙の山は揺れた。三蔵は立腹して「この悪猿め、無礼なことをいたす。うるさいではないか」と大声で叫んだが、大雷音にかき消されて悟空の耳には達しきん,」じゆたい。「悟空のやつ、気が違ったぞ」。三蔵は緊籍呪を念じた。「お師匠さま、頭が痛い、もうやめてください。うるさいのは、この砂のやつですよ」。


富士の鳴沙

 書物の上では、わが国でも鳴沙山のことが知られていた。安永、天明年間(18世紀)の書『笈挨随筆(きゅうあいずいひつ)』(文献21)に、前記、謝在杭の一節が引用されている。ところが「本朝、富士山の砂走の砂に同じ」とつけ加えられているところを見ると、内容についてはまったくわからずに文字の上だけで解釈されていたらしい。

 さらに享和二年(1802)刊の『鄰女晤言(りんじょごげん)』には「不二の鳴さ」と題する一文があって、日本の富士山にも鳴沙があったのかなと思わせる。「不二の鳴さ(なるさ)-俊成卿の"ふじのなるさとよまれたるを、長明無名抄、顕昭袖中抄にそしれり。万葉にふじの高根のなるさはのこととある。さはのはの字を略して、鳴さとよみ給へりや。俊成卿の心はしらねど、鳴沙の字、唐の書(前記、『事文類聚』のこと)にあるを、ふじの山にとりよせてよみ給ふやともおぼし。不二の山も俗諺に、ふじの砂、麓に落れば、その夜の中に、いただきへかへるといへり。これはなる沙の事も砂の山上へかへる事も相似たり。また、都良香(古今集の作家)の富士山の記に云う。"山の腰以下には小松を生ずるも、山腹以上にはまた生ずる木なく、白砂山をなす。それに攀じ登る者は、山腹の下に止まる。上に達するを得ず。白砂が流下するをもってなり"とあり。これらをおもはへてよまれたるべし」

 これは『萬葉集』(十四)に

 

さぬらくは 玉の緒はかりこふらは

   富土の高根のなるさはのごと

とあるのを解釈したものらしいが、鳴澤は、富土山頂の西にーある大澤で、常に大石が転落するから名づけられた。どうもこんがらかっているようだ。

参考文献リスト

1. ライト薯,山本七平訳『概言党聖書考古学』

2. R.E.クレメンツ著,時田光彦訳『ケンブリッジ旧約聖書注解』(新教出版社,1961)

3.       Edinburgh. Phil. Jour., [Jan] 74-75; [Apr.] 256-267 (1830) "On a peculiar Noise heared at Nakuh, on Mount Sinai."

4.     Bolton, H.C. : Trans. New York Acad. Sci., 3, 97-99 (1884)

5. マンデヴィル著,大場正史訳『東方旅行記』東洋文庫19(平凡杜,1964)

6. 石田幹之助著r欧人の支那研究』(共立杜書店,1932)

7. オドリコ著,家人敏光訳『東洋旅行記』(桃源杜,1979)  

8. 『アラビアンナイト』(東洋文庫,平凡社1971)

9. 大谷真成訳『大唐西域記』(平凡社,1971)

10. マルコ・ポーロ著,愛宕松男訳『東方見聞録』(東洋文庫,平凡社1970

11. 石嘉福,*健吾著『敦煌への道』(日本放送出版協会,1978)

12. 陳舜臣著『敦煌の旅』(平凡社,1976)

13. 松岡譲著『敦煌物語』(平凡社,1943)

14. 『敦煌録』(大日本仏教全書 遊方伝叢書第四所収

15. Offord,J.:Nature,95,[2368]65-66(1915)"Musical sand in CHina"

16.  スタイン著,沢崎順之助訳『中央亜細亜踏査記』(白水社,1966)

17. 歐陽修撰r新五代史』四夷付録,引晋天福間高*使『于*記』(『講座敦煌』2巻(犬東出版杜,1980)

18 『敦煌県志』(1831年成立)中国方志叢書華北地方,第351号(成文出版杜,1970年台北覆印)(『講座敦煌』1巻より)
19 太田辰夫,鳥屠久靖訳r西遊記』上,下巻(平凡杜,1972)。岩波文摩版では第2巻
20. 慧立,彦*著長沢和俊訳『玄奘法師西域紀行』(桃源社,1965)

21. 百井塘雨著『笈埃随筆』(『日本随筆大成』2期12巻所収

22. 『鄰女晤言』(『日本随筆大成』2期12巻所収

注1 イオルスの竪琴とも呼ばれ、羊の腸線を反響箱に張った楽器で、風が吹くにつれてその圧力で鳴りだすという。

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