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   私はハンカチをとり出して、 

      純自の石英砂をすくった。:…

         私はもう一度、田沢湖の過去の姿を再現させてみようと田心った。

            湖の四季を追ってさまよった純・心な少年の日に帰り-…。

                                      千葉治平

 

第9章 幻の鳴き砂を求めて

「日本列島には、ほぼ一直線上にミュージカル・サソドが存在するというが、日本は島国だ。いたるところに白砂青松の砂浜がある。ほかにもミュージカル.サソドが見つかる可能性はないのか?」と間う読者が多いことと思う。話の順序が逆になったが、はじめから一直線たど眼申になく、自砂と聞けば手あたり次第、出かけていって調べてみた。そして、ひとつ、ひとつ幻の白砂青松を地図から消去していった。この消去法による裏づけ捜査の結諭として、最後にやっばり謎の一直線が残った。以下は幻の白い砂浜遍歴記である。ただし、かなり歩いたつもりだが、東北の日本海岸と、九州南部はまだである。見落としたところも多い。人為的な自然環境の変化のために、現在では見つからないところもあろう。山形県飯豊山麓のように、太古の浜辺がどこかに埋まっている可能性もある。夢はまだ残されている。


9.1. 田沢湖・白妙(しろたえ)の砂

 秋田県仙北郡の田沢湖は最大深度四二五メートル、日本一深い湖として知られている。明治四二年にこの湖を訪ねた歌人、伊藤左千夫(一八六四-一九;一)
(1)は「懐砂之賦」という、気になる題の一文を草している。う.こうるわたぐい「羽後の田澤湖は、又桂湖の梧あり、水の深きと其色の麗しきとは世に類なきしゆくけいところ、國人は、神のいます湖水と唱へ、深く粛敬して種々の神話を榑ふ、湖とわかわ畔に一美姫あり、辰子と云ふ、美容の永久に愛るなきを湖神に祈りしが、祈願うらほこらこれの容易に遂げ難きを恨み、遂に湖心に投して死せり、國人祠を建てて之を祭る。}」こ其祠猶今に存す、予一日救に遊び、美姫の神話を聞て、哀隣禁すること能わず、いささ即短歌十二章を賦して柳か其の霊を弔ふ。世の中にあやしく深き遠底の瑠璃の水底に姫は沈めり(以下略)」題は届原の「懐砂賦」からとったもので、砂には直接関係たいと解説書にはあるが、やはり砂が気になって地図を調べ、湖畔に白浜という地名をみっけた。八月末(一九七九)、水泳シーズソの湖畔を訪ねた。しかしそこにはイメージに描いていた神秘の湖の面影たどどこにもなく、平凡な観光地風景が展開していた。「白浜」付近は湖岸道路工事の土砂が混じって、実にきたない。だが妙にきらりと輝く砂粒が混じっていた。参考のため一握の砂をもちかえったが、ここから思いがけない展開があった。(2)翌週、三条河原町の書店の地方出版物コiナーで偶然、千葉治平氏の著書を手にし、そこに「田沢湖の白砂しの文字を見つけたのである。それは、ミュージカル・サソドとは無関係だったが、失われゆく白砂について深く考えさせられた。
しらはま「田沢湖の砂浜は、昔から白浜といって名所になっていた。浅瀬がたいというこの湖に、例外的にただ一箇所、遠浅の砂浜があって、それが石英砂だった。はんしよう斑晶石英という岩石が永い間に風雨によって分解し、細かい徴粒子にたって湖岸に堆積したのだという。白浜は渚から湖水にかげて、その石英砂が敷きつめちようめいられ、静かに光って、湖水の澄明さは一層ひきたてられた。白浜の岸近くに一なぎさゆうき軒の古い旅宿があって、風呂場が汀に建っていた。歌人、結城哀草果氏は次のように歌った。おけ田沢湖の水わかしたる風呂桶にしろたえいさご白妙の砂あまたしづみぬ」私は田沢湖からたにげなくもち帰った一握の砂を、あらためて顕微鏡で眺めてみた。砂粒には泥がこびりついているが、たしかに美しい砂粒である。研究室の砂洗浄機にかけて何日間も洗浄を続けてみると、カットグラスのように美しらたえいさごしい砂粒が現われた。「これこそ田沢湖の白妙の砂にちがいたい」。ひと粒、ひと粒、ピソセットで拾い出した。それは遺跡から白砂を復元する仕事であった。このことを著者の千葉治平さんに報告したところ、たいへん喜んでいただいた。この美しい白砂が一面にひろがっていた田沢湖を、私はイメージに描けないが、千葉さんは、渇水期に露出した湖底の一部で、白砂を偶然発見したときのようすを、こう書いておられる。「私はハソカチをとり出して、純白の石英砂をすくった。涙があふれて仕方なかった。……私はもう一度、田沢湖の過去の姿を再現させてみようと思った。湖の四季を追ってさまよった純心な少年の日に帰り、あの青い湖水の波と戯れ
てみようと思った。しかし一度汚れた砂浜は、二度と昔に帰らないしかつての田沢湖は、湖の周辺に欝蒼と樹木が茂り、湖に注ぐ大小六〇本の沢}」-こんから、漆々と漢流が流れ込んで、世界に誇る透明度を保ち、湖水は濃藍色だったという。ところが昭和一四年、発電所建設のために湖の東を流れる玉川の水を引き込んだ。この水は渋黒沢.玉川温泉の、ぺーハー一・一という強酸性の毒水を含んでいたので、田沢湖の水は濃藍色から、現在の瑠璃色に変わった。この自然破壌にともたって田沢湖はどう変わったのであろうか。往時の田沢湖を知る千葉さんの記録を読むと、身の毛もよだつ思いがする。それはあらまし次の通りである。うきみほこらさかき湖の北岸、相内潟に浮木明神という小さた祠があり、ここには御神体の逆木すぎ杉とよばれる巨木が沈んでいた。発電所が完成して水位が変動しはしめたとき、突如、浮木明神が水面に浮かんで漂流し、「七日七夜湖を七回りする」という伝説通り、「神秘の軌跡を描いて、永遠に水底へ姿を没した」。これは田沢湖の死を告げる象徴的事件のひとつであったと。きしりますもっとなまたましい事件は、木の尻鱒の死減である。乳白色の地肌で鱗がなく、網にかかって引き上げられ空気に触れるとたちまち黒ずんだ色に変色し、これが薪の燃えさしに似ているところから、木の尻鱒の名があった。太古、川伝いにのばってきた鮭鱒が、田沢湖の形成により陸封され、海に帰れたくなって、特異な進化をとげたものといわれた。当時、田沢湖の魚族を研究しておられた大島正満博士は、こう書かれている。くにます「古くは木の尻鱒の名で知られていた学界の稀種、国鱒も、やがては地球上か
らその姿をかき消してしまうであろう。恐らく学者以外には実体を見た人が無あゆかろうと思う湖産の小鮎も、学界に見参することを許されたいで、闇から闇へ葬り去られてしまうのであろう。長の年月、大自然がはぐくみ育てた、またと得がたい宝を、惜しげもなく棄て去らねばならぬ時世にめぐりあわせたことを嘆くのは非か」

9.2. お前は死ね

むかし、田沢湖の近くに、辰子という美しい娘が、母と二人で住んでいた。辰子は自分の美しさを永久に失いたくたいと思い、観音様に願をかけた。満願いわなの夜、お告げに従ってひそかに山を越え、山で岩魚を焼いて食べたところ、はげしく喉がかわいてきた。辰子は谷問の湧き水を飲んだが、飲めども飲めども渇きはやまず、ついに雷雨を呼び、山津波を起こして、大きた湖水をつくり、見るも恐ろしい大蛇に化身して水の底へ沈んだ。辰子の母は、娘が人問界に帰れぬ身とたった口惜しさに、燃えさかる木の尻どうこくを湖水に投げつけて働果した。この木の尻が鱒になったと伝説にいう。現在の田沢湖は、一周ドライブウェイが完成し、湖畔には近代的建物が出現して、一大レジャiセソターとしての観光開発が急速に進んでいる。静かな湖畔の森のかげからかつこうもう起きちゃいかがと郭公が鳴くこんな風景はどこにもない。むかし「お国のために発電所が必要だからお前は死ね」といわれ、大蛇に化身した辰子姫も、木の尻鱒も、田沢湖の白砂も、従容として死んでいった。でもその死は無駄だった。1980年代になると、今度はエネルギー危機だ。原発をつくるんだ。お前は死ね」と、日本の各地で白砂青松の浜辺が死んでゆく。日本人のかけがえのない心のふるさとを永遠に失うことと、原発と、どう対比すればよいのだろうか。

 

9.3. 吉里吉里国訪問

岩手県上閉伊郡大槌町吉里吉里。かなり詳しい地図でなければ出ていない陸中海岸のひなびた村落が、ベスト・セラー、井上ひさし著『吉里吉里人』で一躍有名になった。その本の93ぺージにこう書いてある。

 「砂浜を歩きますと、きりきりと砂が軋みますでしょう。そこでアイヌ人たち、は砂浜のことをきりきりと呼ぶようになったのだそうですね。ですから東北の海や川の近くには吉里吉里ないしは木里木里という地名が沢山ございますよ」

 フィクショソだから気にすることもないのだが、この話は、地名学上、以前から議論されているところだ。「金田一京助博士は沙浜を歩く時の擬音語であるといわれたが、キリキリはアイヌ語では白砂の義でもある」(『国語学論考』1962(文献5)『宮古地名物語』には、「気仙沼湾の大島のクグナリ浜(十八鳴浜)も砂浜を歩くとク・クという音を発するので九+九=十八に因み十八の文字を用いたという。キリキリの用字法は九十九里浜が白m浜の義(100一1-99)であることに類似している。

 フィクションのうちはいいが、地名辞典に出るようになると、これは少々問題だ。砂がキリキリ音を発するとなれば、少なくともスキーキング・サンドでなければならない。

 フィクツヨソの新独立国、吉里吉里訪問の好奇心から、1982年4月に訪ねてみた。太平洋に面して弁天浜があり、南端は漁港、それから北に向かい海水浴場が広がっている。浜砂は後背地の岩石が風化してできた土砂から洗い出されるので、不透明の石英砂を主とし、鋭角状の粒子でミユージカルはおろか、軋り音を出すスキーキング・サンドでもなかった。国語学者がひねりだした、気まぐれな文にひっかかったおかげで、私はめずらしい国を訪問する口実ができたのは結構なことであった。

9.4. 風船爆弾の砂

 勿来(なこそ)から九十九里浜にかけての海岸は、太平洋戦争末期(文献6)に風船爆弾発射基地が設けられ、アメリカ本土を攻撃した。

 基地は九十九里浜の一宮海岸、茨城の大津、および福島県の勿来におかれた。この風船は和紙をこんにゃく糊で張り合せてつくった。こんにゃく糊をぬった和紙は水素を透過しない性質があるから水素気球がつくれる。これに爆弾を積んで空高くあげると、日本上空一万メートルに存在する時速

300キロのジェット気流にのり、太平洋を越えてアメリカ本土へ到達する。太平洋を横断する間に、水素が少しずつもれて浮力が減少するから、それに見合う重さだけあらかじめ積んでおいた砂を投下して高度を調節する。砂は低温、低圧下で特性が変化しないので零下55度、175ミリバールという異常な条件下でも、正確な計量が可能であった。砂時計の原理の巧みな応用である。

 放った風船のうち、一割はアメリカ本土に到達し、アメリカ側で確認された数285個。日本人の奇抜で神秘的なアイディアは、当時のアメリカ人を驚かした。積んでいった砂はアメリカの地質学者によって鑑定され、発射基地がつきとめられてB29戦略爆撃機による報復爆撃を受けた。積んでいった砂は勿来海岸の砂であった。

 風船爆弾の砂とはいったいどんな砂なのだろうか。1979年1月、いわき市教育委員会の大塚一二氏らの協力を得て、調査した。いわき市から勿来にかけて図9-3に示した箇所を歩いてみた。いずれも無色透明の、細かい石英砂を主体とし、これに黒くて、いっそう細かい砂鉄が点在している。めずらしい砂だから風船爆弾の発射基地がつきとめられたのも当然という気がする。宮城県.鼎が浦高校地学クラブは、豊間町兎渡路(とどろ)浜(豊間海岸の南に続く海岸)の砂に発音特性を発見したと報告し(文献7)ている。たしかに足先で強く砂をこすると、クーッと明瞭な音が出る。ことに鵜の天然棲息地として知られている照島は、北寄の断崖の下に、幅数10メートル、長さ数百メートルの砂浜があり、発音状態はよかった。これは、ミュージカル・サソドなのか、それともスキーキング.サンドなのか。厳密た区別はない
が、大きな圧力をかけなければ鳴かないし、砂部粒の形状や発生する音は周波数が高く、十八鳴浜や琴引浜、琴ケ浜などのミュージカルサンドとは著しい相違が見られる。そこでこれを区別してスキーキング・サソドと呼ぶことにした。

 小名浜は工場廃水や生活廃水による汚染がひどく、浜の侵食も激しく、現地では発音特性はまったくない。しかし洗浄すれば回復した。

 勿来海岸は海水浴場になって汚れが著しく、発音特性はなかった。なお勿来の南隣で、茨城県側の鵜の子崎と、九の崎の間にある五浦は、勿来とはちがう砂粒が堆積し、粒もあらく、それに、璃璃や放散虫化石を含むめずらしい砂で、スキーキソグ・サンドの特性をもっているのは興味ぶかい。

9.5 犬吠崎

 ハワイにはパーキソグ・サソド(犬が吠える砂)があるという。犬吠という地名は、もしかしたら……?。あり得ない夢だが、古い観光案内に「犬吠崎と海鹿島の間に、緑の松林を背景に、美しい砂浜が弧を描いている」とあるので訪ねてみた。現在では景観が変わって殺風景な「君が浜」である。犬吠崎の海べりの遊歩道を歩くと、砂岩と頁岩が層状に堆積した砂岩頁岩互層がみられる。またここはリップル・マーク(漣痕)や、炭化した化石でもよく知られている。波によって砂岩から洗い出された石英粒が、露出した頁岩の上に堆積したのが君が浜である。こういう地質の場所にはミュージカル・サンドが存在する可能性がある。たしかに、勿来から房総にかけての海岸砂のなかでは、石英砂の含有量がいちばん多い(文献8)。あとは岩石片、長石、有色鉱物、浜砂鉄である。石英粒は明らかに ミュージカル サンドの特性をもっているので、洗浄すればわずかに発音特性がみられた。利根川改修工事や護岸工事の影響がなかった当時はミュージカル サンドであったかも知れない。

9.6 九十九里浜


図9-4 九十九里浜と房総半島

 北の刑部岬から、南の太東岬まで南北に約60キロも続く巨大な浜辺、九十九里浜。『上総国志』に「東総の地、海洋に面し、水天一碧荘々乎として際限なく」と表現されているこの砂浜には、たえず太平洋の荒波がぶつかって、砂はきれいに洗われている。ミュージカル・サソドが見つかってもよさそうだ。もうひとつ、こんな可能性もある。「宮城県の九九鳴浜や十八鳴浜はク、ク、と音を発するのでその名がついたとすれば、九十九里浜は、九里九里、または九と九からその名がついたのではなかろうか」。

 さらに耳よりな事実もある。太東岬の近くには、鳴山という地名があることを新帯国太郎先生は気にしていたし、現在の成東町には鳴浜という地名もあった。鳴浜は九十九里浜の臨海村落で、岡、新田、納屋の三集落からなる半農半漁の村落だったが、1955年に緑海村(りょっくかい)と鳴浜村(ならはま)の一部を編入して成東町になり、残りの鳴浜村は片貝(かたかい)町と豊海(とよみ)を合併して九十九里町になった。現地を訪ねてみると、鳴浜中学校だの、鳴浜農協などの名が残り、タクシーに「鳴浜」といえば、すぐその辺りの浜辺へ案内してくれた。だが期待に反して、発音特性はまったくない。砂が鳴る浜ではなく、浜鳴り、海鳴りが地名の由来なのだ。鳴浜への道中でその解答を見出すことができた。成東町歴史民俗資料館には歌人伊藤左千夫の資料がある。彼には小説もあるが「九十九里浜の壮大さを讃えるために意気ごんで、小説の進行を忘れているのではないか」と批評されるほどに、あちこちで九十九里浜の描写にぺージを割いている。たとえば小説『分家』にこう書いている。
「九十九里の波の音は、今日は南の方向に聞える。千重(ちえ)も五百重(いほへ)も鳴りかさなる多くの響きを、ひとまとめにした、非常に底力の強いどよみは、青い天と此とはの世のものと、春との親しみをたたえている。此の国のためには、永久(とは)に不断な大音楽であるところの、九十九里の波の音は、長閑かに穏やかな其美音を伝えて、昼となく、夜となく、雨の日も風の日も、夜の枕の夢の間にも、人の心を揺すぶりなだめて止まないのである」

 資料館の隣にある左千夫の生家に入って耳をすますと、なるほど、浜鳴りが聞えていた。地名辞典によると、九十九里浜については二つの説が出ている。「九十九とは白の意なり。なんとなれば百ひく一は白なるが故なり」。もうひとつは、「源頼朝公が旧度法で六町を一里に数え、一里ごとに矢をたてて測量したところ、九十九本目に矢がつきた」。

 鳴浜のほか、白子、一宮、鳴山でも砂を採取した。一宮海岸あたりから南へ向かうにつれて、砂は黒い色の古銅輝石や砂鉄が多くなり、鳴山では、真っ黒な砂浜になる。これらの砂は洗浄すればかろうじてスキーキソグ・サソドの特性を示すが、鳴山の地名とはとうてい結びつかない。

 

9.7 房総半島

 九十九里浜に続く房総半島沿岸にも、観光案内を見ると白砂の浜が多いことになている。

 1923年につくられた、加藤まさを作詞、童謡「月の砂漠」は御宿(おんじゅく)の砂浜からの連想だと伝えられている。現在は中央海水浴場に酪駝にのった王子と王女の像がある。だがここの砂には不思議なくらい、石英砂がほとんど含まれず、大部分が貝殻の破片であった。海浜の汚染で死んだ貝たちの遺骸の山なのだ。

 海驢(あしか)ショーで知られた鴨川シーワールドの案内書には白砂の美しい東条海岸」とある。だがここにも白砂などまったく存在せず、黒い雑石と貝殻片であった。貝の遺骸から出る白い微粉が、黒い雑石にこびりついて、一見、白く見えているのである。

 このようにして房総の旅は失望の連続だった。半島の最南端、海女(あま)と灯台で知られた観光の町、安房白浜はどうだろうか。それに続く平砂浦は……と、かけめぐったが、いずれも大同小異、雑石と貝殻片。これは当然のことで、この地方の後背地は、軟らかい蛋白質凝灰質泥岩である。透明石英砂があるはずがたかったのである。内房はいうまでもなく、海の汚れがひどく、それに埋め立てられて砂浜など見る影もない。


写真9-5 御宿に写真9-5御宿にある月の砂漠の壕ここにも白砂はなかった

9.8 新島の白砂

 伊豆七島は大島、利島(としま)、新島(にいじま)、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島の七つの島をさすが、このうち新島、式根島、神津島は流紋岩質で白砂の砂浜がある。地質的に玄武岩質の他の島と異なっている。ことに新島は、美濃部前都知事が「伊豆の島々のうちでも、新島は一段と優れて美しい。青い海、白い砂浜、みどりの松に覆われた丘、新島の美しさはこの世のものとも思われない。東京都のこの上ない誇りだといっても、いいすぎではない」と激讃したことで知られている。


写真9.6 長栄寺にある流人墓地には118基の小さな墓石がならんでいる。酒の樽や賭博のサイコロと壺形のものもある。敷き詰められた白砂が目にしみる。

 

 1981年の夏は、伊豆諸島の天候不順で訪問の機会が見出せなかったが、8月末、台風の進路が急に変わって、絶好の条件になった。これを逃してはチヤソスがない。突然思い立ってその晩、竹芝桟橋発の「かとれあ丸」にのった。海水浴のシーズソは終わり、同乗の客はほとんどサーフィソの連中だった。翌日早朝新島の黒根港につく。台風一過の快晴である。

図9-7 新島の位置図9-6 新島と式根島


「夏休みが終わって、お客さんg引き上げたあとは気がぬけたようですよ。昨日まで、ここには機動隊が常駐していました。暴走族があばれましてね。今年は雨続きで、やっと晴れ上がったというのに、店じまいとはね」と民宿ではぼやいていた。でも私にとっては幸運、静かな新島をレンタサイクルで砂浜めぐりときめこんだ。島の西側は前浜と和田浜、東側は長さ約3キロの長い砂浜で、背後は砂丘砂層である。最近、どの砂浜も侵食がはげしく、一年間に一メートル以上も後退するという。1965年頃の前浜は、護岸壁から波打ち際まで32メートルもあったというが、現在では護岸壁に迫っている。いまは禁止されているが、一九六八-七一の四年間、工業用珪砂の採取が行なわれたことも、大きく影響した。

新島はまさに白砂の島である。日本中どこの海岸へいっても、ついに見ることのできなかった本当の白砂にめぐりあえた気持ちであった。とくに珍しかったのはこの白砂が信仰に結びついていることだ。婦人は毎朝、墓参りするのがこの島の伝統だった。お嫁入り道具のなかに「だんとう桶」といって、墓へ水を運ぶ桶が含まれていたという。いまでも墓地は実にきれいに清掃され、一面に白砂が敷きつめてあって、毎年新しい砂にとりかえる。

 ところで新島の白砂は純度の高い石英砂であるが、火山性のため気泡が含まれ耐火性がひくい。これが発音特性を示すかどうか興味あるところだが、洗浄すると、浜砂も、砂丘の砂も、スキーキソグ・サンドになった。ただし現地では発音しない。火山灰の微粉が多いためである。なお念のため隣の式根島の石白川海岸も調べたが、新島とほぼ同質だった。

9.9 白浜


図9-7 二つの白浜

 伊豆半島から、駿河湾、遠州灘沿岸をへて、紀伊半島までの間、砂浜は多いが、ミュージカル・サンドが発見される可能性は、まずないと考えられる。海波がおだやかなためだ。天龍川や木曽川は砂を運び出して砂丘をつくっているが、題10章で述べるように、細かい砂を円磨する作用はない。浜松の近くに「佐鳴(さなる)湖」がある。「砂鳴る」と読めば気になるが、他人の空似である。砂が白いことでは、「南紀白浜」が知られている。ここでは白良(しらら)浜が最も大きく有名だが、付近に大きなホテルが立ちならび、浜は道路によって分断され、往時の壮大さも美しさも、完全に失われてしまった。白良浜は鋭角状の透明石英砂から成り、浜の清掃も観光的にはゆきとどいて、一見美しいが、顕微鏡で調べるとがっかりする。明らかに生活廃水の汚れがこびりついているからだ。廃水処理が不完全なまま放流され、それがこの浜特有のくすんだ白色の原因になっている。かつては透明石英砂が、文字通り白浜を形成していたのだが。最近、白浜にある京都大学付属臨海実験所構内で(縄文晩期から弥生中期にかけての遺跡が発掘された。砂浜にある遺跡なので、現地を訪ね、砂の試料をもらって、洗浄してみた。透明石英砂については粒度も形状もほとんど変わらないが、異石混入がまったくなく、当時の美しい浜を想像する手がかりが得られた。(その後第10章でのべる洗浄機械で完全な鳴き砂が得られることを確かめ、現在仁摩町の仁摩サンドミュージアムで展示している)。(なお南紀白浜はその後オーストラリアのパースから年間1万トンもの砂を運んで砂を補給し続けているから、いまや砂は白いが鳴き砂ではなく、まさにオーストラリアン ビーチである。)
「白浜」の名は方々にある。伊勢志摩の御座白浜と国府白浜を参考のため調査したが、いずれも海水浴場で、シーズン前には掘り返してビーチクリーニングをしているため、自然の状態にはない。南紀白浜に比べると、砂の質は著しく悪く、透明石英砂はほとんどみられず、やや赤褐色、不透明の石英砂からなり、貝殻片が非常に多い。ことに国府白浜は異石混入も目立つ。知多半島は内湾のため汚れが著しくなり、いずれの浜も半透明の鋭角状石英砂である。

9.10 讃岐国・八幡琴引宮縁起

 香川県観音寺市、有明海岸沿いの琴弾公園には砂浜に描かれた巨大な砂絵の寛永通宝がある。東西122メートル、南北90メートルの長円形だが、東方にある標高59メートルの琴弾山頂から眺めて、まるく見えるようにとの配慮である。この砂絵の由来は古く、寛永10年(1633)、丸亀藩主来遊の際の一興につくったのがはじめというが、この消えやすい砂絵を、毎年修復して300何10年もの間、受け継がれてきたのは謎とされている。この砂絵はほんとうに昔から受け継がれてきたのだろうかと疑念をいだいた(文献13)私は、資料をくわしく調べてみたが、その通りなので驚いた。あの戦時中も厳然と存在したので、1945年6月、米軍機二機が超低空で偵察し、その航空写真が最近、米軍から提出された。不可解な秘密基地に見えたらしい。ところで、この砂絵を眺めるために登る琴弾山には琴弾八幡宮がある。琴と聞けば「もしかして、この砂絵の砂浜は、琴の音を奏でたのでは・・・・?」と考えてみたくなる。

 観音寺市役所商工観光課の香川和昭さんの協力を得て資料を調べた。

 応永23年(1416)に書かれた『讃岐國七宝山八幡琴引宮縁起』によると「大玉3年(703)秋8月、3日の間、昼も夜も西方の空が自然に鳴動し、黒雲が覆ってって日月の光を見なかったが、ようやく光明がさしたので、人々は山頂、西国の方を見た。すると海辺に一艘の舟が浮かび、そこから琴の音が聞えてくる。その音は高くして妙。我は八幡大菩薩なり、宇佐より来るという云々」

 なんと琴の音が聞こえたとある。近くには九十九城跡もある。ますますあやしい。私は急ぎ現地を訪ねてみた。
砂絵の近くへゆくと、私の背丈を超える深さの砂溝があるだけで、見当もつかないが、山頂から見れば、見事な砂絵になっている。さて砂だが、瀬戸内海の汚染の影響で泥まみれ、砂粒も不透明な石英砂が多い。このままではとうてい琴の音は出ない。琴弾山は花崗岩であり、表層が風化している。これが海に流れ出たのが浜砂であるが、現在の浜砂は比較的新しく流入した砂が主体をなし、円磨されていない。1000年以上も昔にはどうだったのか。琴弾山はいまのように関発によって荒れていなかったから、浜辺にはもっと美しい白砂が堆積して琴の音を奏でたのか、それとも松風琴を弾ずか、これは永遠の謎として残しておくことにしよう。

 

写真9-7 砂絵の寛永通宝

9.10 司馬遼太郎にだまされた話

 
図9-8 天草探訪

司馬遼太郎の連載紀行「街道をゆく」(文献15)に、耳よりな一節があった。

 「富岡城趾への長洲は、まことにながながとのびている。長洲の西は天草灘であり、東は有明海である。二つの海のすな波の音を聴きつつ歩いていた。ときに渚の沙が鳴るという。月光のさかんな夜、この橋立めいた長洲を往来して、もし瞬時でも沙の音を聴くことができれば、どれだけいいかと思われた。天草は旅人を詩人にするらしい。:.鳴き沙のなかに、はるかな西方の浪の音まで聴きわけ、歴史という虚空のなかまで吟遊して、歩く人になるのかも知れない」。

 同じ雑誌に私はその頃「列島草枕-鳴き砂の白い浜から」を連載していた。「天草にも鳴き砂があるようですね。司馬遼太郎さんが書いていますよ」と編集部から知らせてきた。私は「初耳です」と答えるしかなかった。それ以来、司馬遼太郎・天草の鳴き沙が気にたって、一日もはやく確認したかった。もしここにあるとなれば、謎の一直線を曲げることになる。 1981年7月末、私は熊本から天草ゆきの快速バスに乗った。台風10号が宮崎に上陸して天草へと九州を斜めに駆けぬける前日だったから、空は抜けるように青く、最高の旅を楽しんだ。バスは下島の本渡どまりだ。これから先は富岡まで最近開通した山越えの最短コースをタクシーでゆく。

 やけつくような太陽が輝く天草の空は、天草灘に溶け込んで、そこに草木が濃緑に繁る美しい磨島々g浮かんでいる。天草灘が展望できる地点に立つと頼山陽の詩

雲耶、山耶、越耶、呉耶。水天髪髭、青一髪」が現実のあとなって展開し、眼下には今日の目的地、富岡城へと続く砂洲が見えるかとから思ったことだが、私はここで司馬遼太郎のように、詩人の旅人になり、感嘆の声をあげただけで、ただちに引き返せばよかったのだ。砂洲までたどりついてみると、そこにはぎっしり住宅が立ち並び、ほこりっぽい自動車道があった。浜は目下護岸工事中で、砂浜はショベルカーがかき乱し、黒い砂利まじりの汚れた砂がわずかに残っているのみ。鳴き沙になるよう白砂があった形跡すらない。

 「有名作家は忙しいから、いちいち現地へ出かけて書くとは限りませんよ」ある出版杜の人はいった。フィクションと現実とをとりちがえて、天草まで出かける奴が馬鹿なんだということらしい。

 だが・天草まで崇けるきっかけをつくってくれたのは司馬遼太郎だ。感謝しなくてはなるまい。せっかくだから、下島の目ぽしい浜辺を歩いてみた。高浜と白木尾海岸には海水浴場があり、砂浜があった。ただしこれらも、鳴き砂でなかったことはいうまでもない。

9.11 南国土佐の琴ケ浜
 高知から土佐湾沿いに室戸岬へ向かう途中、安芸市の少し手前に、芸西村の「琴ケ浜」がある。能登や島根の琴ケ浜の連想から、ここにも琴を奏でる白砂の砂浜が……と期待したくなるが、なんと、この浜は特別に黒い石ころの海岸である。大小さまざまの、扁平楕円形状の礫だ。ではなぜ琴ヶ浜の名称が与えられたのだろうか。多分昔は美しい松原がつづき、松風が琴の音を奏でていたのであろう。いまは数少ない松も松食い虫の侵略と宅地化の波にさらされている。高知には代表的な景勝地のひとつ桂浜もあるが、ここにも白砂はまったくない。ただしここの石ころは赤、青、白などの美しさで知られ、大きいのは庭石、小さいのは金魚鉢に愛用されている。横浪三里の宇佐や、中村市の手前、大方町の入野松原まで足をのばしてみたが、ついに南国土佐では白砂を見つけることはできなかった。

 なお、岡山の琴の浦、島根の琴引山など琴の名のつく場所は全国にいくつかあるが、 『備陽記』に「琴ノ浦、・:・-その響、唐琴の如く、松風琴を弾ずるがための音故これを名づく」とあるように、必ずしも鳴き砂に結びつくとは限らない。また、日光中禅寺湖の東岸にある歌が浜も、別の伝説に因んでいる。

 

9.12ビーチクりーナーの出現

 片瀬、江の島海岸とともに、湘南地区の代表的な海水浴場として知られる鎌倉の由比が浜で、私はビーチクリーナーなるものを見た。

 過密状態のこの海水浴場に面した砂浜では50メートル間隔に設置されたゴミ箱が毎日、午前10時にはゴミであふれるという。浜辺のゴミ戦争に頭を痛めた鎌倉市は、最近、最新兵器、ビーチクリーナーを導入し、連日活躍している。あるとき、10メートル平方当りのタバコの吸殻を調査したら、実に六〇数個あったという話もきいた。この浜では、渚に立っても、磯の香りはなく、かすかに下水臭が立こちめている。この浜の魅力が失われたら、観光客や海水浴客は、他のより美しい浜辺を求めて、日本列島に拡散してゆくだろう。そして由比が浜と同じ運命をたどるにちがいない。でも、これでよいのだろうか。どこかで世の中の流れを変えることは、できないものだろうか。日本列島の海岸線に沿って、幻の白砂青松を追った私の旅路の現実は、厳しかった。

1. 『伊藤左千夫全集』1巻(岩波書店,1977)

2. 千葉治平著『山の湖の物語』(秋田文化出版,1978)

3. 井上ひさし著『吉里吉里人』(新潮杜,1981)

4. 池田末則著『日本地名伝承論』(平凡社,1977)

5. 小島俊一著『宮古地名物語』

6. 三輪茂雄著『粉と粒の不思議』(ダイヤモンド社刊,1981)

7. 宮城県鼎が浦高等学校(第13回科学技術庁長官賞受賞,1970)「宮城・福島県に分布する鳴り砂海浜の地学的研究」

8. 近藤精造『千葉大学臨海研報告』8号,1-4(1966)「浜砂の岩石学的研究」

9. 新帯国太郎r満鉄読書會雑誌』13巻5号,106-116(1926){鳴る砂の話」

10. 『日本地名大事典』5巻(朝倉書店、1952)

 

11. 京都大学構内遺跡調査会『和歌山県白浜町瀬戸遺跡』(現地説明会資料,1981年11月14円、)

12. 森田泉著『風神の宿るところ』(自費出版,

1975)

13. 三輪茂雄著『粉の秘密・砂の謎』(平凡社,1981)

14. 『香川叢書』第1所収

15. 週刊朝日』1980年11月14日号,

16. 石丸定良編『備陽記』全35(享保6年完)




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