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第4章 琴を奏でた日本の砂浜

 

4.1.   行けば音をたつ琴引の浜

 日本三景のひとつ、天の橋立が、京都府北都、丹後半島の東側のつけ根にあることは誰でも知っているが、その反対側のつけ根にある美しい浜辺、琴引浜は意外に知られていない。

 

 
                                                                                                                                                                                                                        京都府竹野郡網野町、国鉄宮津線で、「天の橋立」から各停で五つ目の駅が丹後ちりめんの主産地として知られた「あみの」だ。町を歩くとあちこちかはたおりら機織のリズ、ミカルな音が聞こえてくる。日本海沿岸地方ではよく出くわす景色だが、この町も、いたるところ褐色の砂、砂、砂である。だがこの町で見る砂は他の地方で見る砂とはまったくちがう特別た性質をもっている。肉眼では区別がつかたいが、顕微鏡をとり出してのぞいて見ると、誰でもあっと驚く美しい石英砂なのだ。形は丸く、そして鏡のように磨かれていて、宝石に似た輝きがある。このルーツは網野古砂丘である。

 この町には琴引浜、八丁浜、浜詰海岸などいくつかの海水浴場があるが、そのうち琴引浜だけに、特別美しい砂が洗い出されて、豊かな砂浜をつくり出している。その名の通り琴の音を出す砂浜、すなわち、ミュージカル・サソドの浜辺なのだ。

詩人・与謝野寛・晶子夫妻は1932年、山陰の旅の折、ここを訪ねて句を残した。

たのしみを

 抑えかねたる 汝ならん

   行けば音をたつ 琴引の浜    (寛)

松三本

 この蔭に来る 喜びも

   共に音となれ 琴引の浜      (晶子)

 海辺に故郷があった晶子には砂浜の歌が多い。次の三首をあわせ読んでみると、琴引浜で過ごしたひとときが、この砂浜に蘇る思いがする。

 てのひらに

  砂の匂いす 恋人を

     もつ人ならば 悲しからまし

  海恋し

     潮の遠鳴り かぞえては

      少女となりし父母の家

  砂山を

     また踏みにゆく やわらかさ

        恋の心に  似ると思えば

 

4.2  無弦琴


網野町の古文書にある200年前の琴引浜

 丹後の古い地誌『丹冴府(志たんかふし)』(1)にはこう書かれている。

「琴引浜は太鼓浜の前後、六、七丁の間、足をひいて砂を磨る、その声琅(ろうせん)として微妙の音あり。羅状元の金微巧奏蝉声細玉珍軽調鶴管清という一聯を、急歩緩歩の間に記し得たり。実に天地の無弦琴なり」

 琴引浜の砂の声を絶讃した名文である。琅然というのは宋の詩人、蘇軾(蘇東披)の詩に出てくる語で、玉の鳴るさまの形容である。宝石の玉を数珠状に連ねた束を振るとゆきの音にも似た妙音を発する。急いで歩いたり、緩っくり歩いたりすれば、琴の音がする。これぞ大自然がつくった絃のない琴だ……

 この優雅で鋭い古人のセソスには感歎するばかりである。西洋人は精霊のしわざと考えて恐怖し、 あるいはたんにめずらしがりはしたが、それを愛でることはなかった。このあたりに、日本人と西洋人との、自然に対する対応の差があるのだろうか。

 この文書は、宮津藩、本庄家の儒者、小林玄章が、宝暦13年(1763)に書きはじめ、その子の之保、その孫の之原と三代80年を費やして、天保13年(1842)に完成した。その原本は1927年の丹後震災に遭って焼失したが、竹野郡の部、巻五のみが網野町の旧家に残り、町の教育委員会にはゼロックス複写されて保存されている。ミユージカル・サンドの砂浜は、世界中にたくさん発見されている。しかし琴引浜のように.古くから注目され、記録に残った例はない。これは後に,順を追って述べるように、数ある世界の、ミユージカル・サンドのなかでも、群を抜いて優れた特性をもっていたためであろう。だが残念たことに、このことはいままでごく一部の人々を除いてはほとんど知られることなく、世界の宝ともいうべき琴引浜の自然は保護対策が遅れている。宝のもちぐされとはこのことである。


写真4-1琴引浜の砂を顕微鏡で見ると宝石のようだ

4.3. 琴引浜と太鼓浜

 現在の琴引浜は、長さ約600メートル、最大幅約50メートルの弧状をなし、ほぼ中央部には黒い岩盤が露出している。中央やや東寄りには掛津川という小川が流れこんでいる。この川を地元の人たちは景気川と呼ぶ。海流の関係で、浜辺での流路が変化する。その方向で景気を占うのだ。海水浴シーズソには浜辺を広くするためにブルドーザーで流路を変える工事をすることがあるが、 大波が来るとたちまちもとにもどるという。小さな川だが、自らの意志を貫くのである。戦国の武将で丹後・田辺城主、細川幽斎(1534-1610)は玄旨法印と号したが、その狂歌に琴引の名を残している。

  根上りの 松に五色の 糸かけ津

     琴引き遊ぶ 三津の浦浜

 これはこの地一帯、三津の浦から遊の浦、掛津浦、太鼓浜、琴引浜、根あがりの松、五色浜と、つづきの処なので、それを詠み入れたものだ。また明智光秀の娘であったがゆえに悲運の生涯を送ったが、一途にキリシタン信仰を貫いた細川ガラシャは『懐中日記』にこう歌っている。

  名に高き 太鼓の浜に 聞く秋の

    遠にも渡る 秋の夕さめ

 「聞く秋の」が「太鼓の音」にかかっている。さきに引用した『丹か府志』の文意からすると、琴引浜の中央部八、九間(十数メートル)の間を特に太鼓浜と呼び、ガラシャはここに立って秋の風情を味わったのであろう。

 当時の太鼓浜はその名の通り、浜砂が太鼓の音を発したらしい。『丹か府志』にはこう書かれている。「太鼓浜は、およそ八、九間の処、足これを踏み、手これをうつ、その音、混こん淵々(えんえん)として太鼓のごとし」

ここで「こんこん」は鼓をうつ音、「淵淵」は鼓を打つ節のさまで、いずれも中国の書『詩経』に出てくる語である。

 もうひとつ、文化11年(1814)7月23日、配札と修行の途次、当地を通った野田泉光院『日本九峰修行日記』にも出ている。

 「琴弾浜へ出る。真砂浜、幅15間、計り、其内ぱかり10間に五間計の間を歩行すれぱ、ぎう、ぎう、すう、すうと鳴る。又、杖にていらうても(いじってもの意)其音あり。尤も天気続きて砂の乾きたる程、音高しと云う。又、太鼓浜は僅か二間四方位、歩行けばどんどんと鳴る。是れは砂の底に穴ありと云う」

 このように古人が賞讃した琴引浜だが、現状はどうであろうか。私はまず古文書の記述をたどって、浜の中央部の太鼓浜を歩いてみた。「足を踏み、手これをうつ」をやってみるがどう踊り上がっても、こんこん、淵々として太鼓のごとき音は出ない。「昔の人の誇大表現なのだ。白髪三千丈ってやつさ」と考えた。だが、その考えは訂正を要することが次第に。わかってきた。それには次に述べるように、現在の汚れた砂を洗って、200年前の状態を復元する洗浄技術が前提となった。少し話が変わるが、ここで私は10年ほどまわり道をしたので、それを先に話そう。

4.4. 砂丘の砂も琴を奏でる

 琴引浜の陸地側は、掛津から遊にかけて砂丘地帯が続いている。この砂を顕微鏡で調べて見れば、琴引浜と本質的な違いはない。ただ火山灰などをかぶり、土が混じってよごれているにすぎない。この網野砂丘の砂を採取し、鋳物用珪砂を製造販売している会社(山川産業)がある。ここでは砂を洗い、浮遊選鉱や篩分けなど必要な珪砂精製工程を経て製品にしている。しかし市販されている砂は最高品質の砂でもミュージカルな性質はまったくもっていない。「琴引浜の砂とは一見よく似ていますが、微妙な差があるようです」と会社の人たちはいう。「この砂丘の砂が、浜辺で長い年月洗浄され、変化をうけてはじめて琴を奏でるのだろう」と私も初めのうちは考えていた。

 だが、製品の鋳物用珪砂をくわしく顕微鏡で調べてみると、砂粒表面の凹みは、わずかながら土などの微粒子がこびりっいている。この汚れは非常にしこく、短時間の洗浄では除去できない。私はこの砂を徹底的に洗ってみようと思いたった。それも洗剤や化学薬品や機械をいっさいつかわず、海の波が浜辺で根気よく洗っているように、手づくりでやれ、と自分に命じた。砂約50グラムを、ガラス製三角フラスコに入れ、を加えて栓をし、これを手で振るのである。来る日も来る日も、三角フラスを振り続けた。大学へ往復の電車のなかでも、横断歩道で信号待ちのときも、暇きえあれば振り、ときどき濁った水を捨て、新しい水を加えた。これを何千回もくりかえした。濁り水が赤褐色から白濁に変わるまでにはずいぶん長い期間が必要だったが、ほとんど濁らなくたるにはさらに一カ月近くを要した。絶望的と思われる実験を続け、ときどき洗った砂を天日乾燥して発音試験をやっ.みた。

 自分ながら馬鹿げたことをはじめたものだと後悔もしたが、こうなると後へは退げない。だがついに「バソザイ」を叫ぶ日が来た。満足できるミュージカルな音を発したのである。波がやることを、私は3カ月かけてやった。とにかく水で徹底に洗えばよい事実と、その洗浄程度がわかった。長い冬のあとで春がきたのに似た喜びであった。

4.5.  復活した太鼓の音

 網野砂丘の砂は、水で十分洗えばミュージカルになることがわかった。ただしその洗浄は徹底的たものでなけれぱならない。それまでにも琴引浜の砂を水洗する実験はたびたびやってきたが、それは米を洗うようにして、ただ何回も水をかえる程度であった。これでもかなり濁りが出るが、発音特性が驚くほど変わることはなかった。

 砂丘の砂を洗ったように、太鼓浜の砂も徹底的に洗ったらどうなるのだろうか。後に述べるように、琴引浜は巨大た洗浄装置のメカニズムをもっており、ここで有効な洗浄が行なわれている。強力な水流による撹拌が主体と思われる。砂丘の砂を洗うのに私が手で三角フラスコを振ったのは、それに似ているからだが、これを機械的に行なってみてはどうか。研究室にあり合せの装置でこれ(文献2)を実現してみた(くわしくは10章参照)。

 「こんこんえんえんとして太鼓のごとし」と古人が表現した太鼓浜の砂を機械洗浄してみたところ、なんと赤い濁り水が出てくるのである。米を洗うようにしたのではほとんど濁らない砂から、こんな濁り水が出るのは意外だった。予想以上に現在の浜砂は汚れているのだ。新しい水にとりかえて洗浄し、濁れば再びとりかえて、機械洗浄を続けると、次第に濁りが少なくなり、わずか白濁するだけになった。あるとき、まだ水中に浸したままの砂を、容器ごと少し傾けると、ブーと低音の振動が起こった。たぜなのか、このときは理解できなかったが、あとで高感度の、ミュージカル・サンドは水中でも発音特性があることがわかった(10章)。

 この砂は乾燥すると、紙の上にうすく(一セソチ厚みぐらい)広げた砂の層も、軽くつつけぼかすかに音が出る。おそろしく発音特性がいい。私がいままで知っていたのは、現在の琴引浜にある自然のままの砂だった。それは浜辺も海も、著しく汚れた現状での砂である。200年前の琴引浜は、われわれの想像もつかないほどきれいであったにちがいない。そこに、おそろしく発音特性のすぐれた砂がうず高く堆積していたら、太鼓の音が出ても不思議ではない。古人の表現を誇張だと考えたのは誤りで、われわれはそれを素直に、受けとる必要があるのだ。古文書の解釈に工学的手法を使うひとつの試みでもある。

4.6.  琴十三弦の調律

 ところでもうひとつ、工学的手法で解かねばならぬ古文書の記述がある。いまから約200年前、近江国の名石家、木内小繁(きのうちこはん)は、その著『雲根志(うんこんし)(文献3)』にこう書いている。「丹後国、琴曳濱は、ひとはまのこらず、砂紫白にして、透明らかに、他の色なし。俗に銀砂という。水晶の砂とも、琴曳の砂ともいう。はなはだ清浄明白なり。この砂中を歩くに、自然として琴の音あり。雨後はひとしお調子高し。 予が知れる人に琴を愛せる人あり。此處に至てみづからこころむるに、まことおおいにあざやかなり。十三の調子音律ともに分ると。またある人、ここの砂を大に求め得て、手前に敷こころむるに、曽て琴の音なし」

 『丹か府志』には「急歩緩歩の間」とあった。砂をつつくときの速度を変えることも考慮すればよい。200年前の感度を復活した砂でやってみよう。こんなことを考えている矢先、NHKで実演する話が出た。研究室の音楽好きの学生を動員し、五音階まで出ることを確かめた。1980年7月、教育テレピ『みんなの科学』では5人の学生が一人一人各音階を分担し、「メリーさんの羊」と「チューリップ」を苦しいながら演奏できた。世界初のサンド・ミュージヅク・オーケストラであった。


図4-4 琴引浜の砂を徹底的に洗浄して復活した太鼓浜の音

実験方法は本章末文献2〕参照。音の持続時間が著しく長くなった。比較のため,十八鳴浜の砂を洗浄したものを示した。

4.7. 巨大な洗浄装置

 琴引浜の浜砂をどのようにして海が洗うのだろうか。そのメカニズムを知りたくて渚に立った。次々に打ち寄せてくる波が浜辺で砕けるときに砂が洗われる。だがじっと見つめていると、最も激しく洗われる決定的瞬間がある。浜辺をはい上がった打上げ波が、最後のエネルギーを使い果たし、渚の斜面に沿ってすべりおりるとき、次の波がこれにぶつかる。そのときものすごい砂の撹枠が起こる。それはちょうどガラス容器に水と砂とを入れて、はげしく振盤するのにも匹適する激しさだ。これを昼も夜も休みなく続ける。満潮線から干潮線の間を、ゆきつもどりつして、まんべんなく洗う。その根気と執念にはとてもかなわぬと思えてくる。 だがもうひとつ疑問が残る。満潮時の汀線よりもはるかに離れた浜の砂は、いつ洗われるのだろうか。これについて地元の人たちはこう話してくれた。

 「冬の琴引浜は凄絶そのものですよ。この地方は冬季に北西の季節風が強く、これが猛烈た荒波をともなって琴引浜に打ち寄せます。そして浜辺の砂をごっそり沖合へ持ち出して洗いますから、冬の浜辺は少し狭くなります。春になって波がおだやかにたると、再び浜辺へ砂をもどし、広い浜辺をっくります。だから春先が砂はいちばんきれいで、よく音が出るのです」

 浜の中央部の黒い岩盤づたいに歩いてみると、海の底はこの岩盤でできた盤のようになっており、岩の窪みには美しい砂がたくわえられている。ずっと沖合までこのようになっているのであろうか。海底探検をしてみたくたるが、沖合へ出る漁師たちの話では、一キロほど先まで海底が明るく、多分、この砂が続いているのだろう。そしてところどころ黒いところもあるが、それは岩盤であろうという(文献4)。

 このような砂浜のダイナミツクスについて、ウイラード・バスカムはこう書いている。


図4-5 琴引浜の夏と冬の砂浜概念図

「波浪が砂浜で砕けるのを注意して観察してみたまえ。水は海浜面にわずかの距離だけ打ち上げ、その一部は砂中に沈むが、残りは引き波として海に辷り下りる。この水流が砂の薄い層をそれぞれの方向に運ぶ。そして問題は結局、その差し引きの効果がどうなるかということである。すなわち、砂は海浜面につけ加えられつつあるのか、それとも海浜面から削りとられつつあるのか。図4-5は外洋に面した多くの海浜の一般化した断面図で、冬と夏の主た状 況を示している。ここで海浜とは、海面上はもちろん、水深10メートルの所までの、水面下で動いている砂を全部含んでいる。水面より上には波浪で岸に。運ばれた砂でできた、ほとんど水平な平担面があるのが普通で、バームと呼ぱれる。水面の下には海浜に平行に伸びた砂の堤があって砂洲、ときに沿岸洲と呼ばれる。夏にはバームは低く幅広い。この季節には水面下の断面は滑かで、一般に砂洲はない。冬になると、バームは夏よりも高く狭くなる。それは大部分の砂が水面下に移動して砂洲をつくるからである。砂がこのような移動をするのは、季節とともに波の作用が変化するためである。冬の嵐に.よって生じる大波は、バームを切りこんで後退させ、夏の小さな波はバームを再びもとにもどす」地元の人たちが「春先きにはいちばんいい音が出ますよ」という話もこれでよく納得できる。バスカムは海浜を海と陸との闘いの場と見たてて、こう表現した。

 「暴風に伴った巨浪が岸を打つとき、海浜は一時的に.後退する。だがひそかにその土砂の一部で海底の砂洲をつくるのである。この砂洲によって、巨浪も破壊的な大きさになる前に、砕波としてつぶれ、そのエネルギーは海岸に達し ないうちに、むなしい白波の泡と乱流(乱れ)に費されてしまう。暴風が静まると巨浪は消え、あとに残る小さた波が、冒した罪を詫びるかのように、一度は沖に奪った砂をもとにもどし、海浜をふたたび広げる。敵対者の一方が永久的た勝利を主張できる場合はめったにない」

 冬の荒波が砂を洗うさまをぜひ見たいと思った私は、1月15日(1982年)、冬の琴引浜を訪ねてみた。この年は雪が少なかったが、この日、網野町だけは西北の季節風が強く、雪が舞っていた。波打際に、は荒波に挑戦するサーフィンの若者たちの姿があった。太鼓浜の岩盤付近に立つと、東の浜に打ち寄せる波を横から観察できて楽しい。真っ黒な雲がたれこめる沖合からは、続々と波頭の軍勢が攻め寄せてくる。浜辺に近づくにつれて波高を増し、けわしくそそり立った砕波は、まるで仇討ちのように、最後の力をふりしばって砂浜に玉砕する。ときおり、巨大な波が迫ってきて、今度こそはと、私も波にのみこまれそうな恐怖感に襲われるが、砂浜はそのエネルギーを吸収し尽くし、波は消え去る。砂浜のもつこの不思議なキャパシティが、この巨大な砂洗浄装置の秘密なのだ。

 

4.8  浜のダイナミックス

浜辺に立って、寄せては返す波を見つめていると、波は浜砂を少しずつ、海の申へ運び去ってゆくのではたかろうかと心配になるが、よく観察してみると、逆に少しずつ海の底のほうから運び上げてきて、波打際に打ちあげているようにも見える。いったいどちらなのだろうか?

 この疑問を解く手がかりを地理学の書物(文献5)に求めてみた。「深海へ向けて海底がゆるやかに傾斜している海岸では一般に次のようたことが起っている。次々に打ち寄せてくる波が浅い海へ入ってくると、波の運動は海底の干渉をうけるようになる。この限界深さは波長の二分の一である。波がさらに岸へ向って運動しつづけると、波の波長は短くなり、一方、波高は次第に高まり、波はけわしく立ち、不安定になる。ついに突如として波頭は前へ進み波は砕波となって砕ける。撹乱された水は「打上げ波」となって浜にかけのぼる。この強力た波は浜砂を陸へ向けて運ぶ。打上げ波のエネルギーがすべて使い果されると、水の一部は砂のなかにしみこむが、残りは逆流して浜の斜面を下る。これを引き波という。砂は引き波により海へもどされる」では差引き、砂はどちらに動くのであろうか。定常状態ではゆきつもどりつで、変化はなく、浜辺はあの特有の傾斜をもった堆積に整えられる。細かい砂では広くてゆるやかな斜面になり、粗い砂や礫ではけわしい斜面になる。砂を洗うことによって発生した微粒子(シルトやクレー)は海流に乗って沖合へ運び出され、深海に堆積する。こうして砂は洗われる。


文献4.6より

 

4.9. 土佐絵の現実

 安永、天明年間に.、京の豪商、萬屋の次男坊、百井塘雨は、財を積むより思うことをせんとて諸国を遍歴した。その見聞記『笈埃随筆』(文献7)に、「琴弾濱、太鼓濱、;白濱あり。石を取って投げれぱ太鼓の音をなす。また沙濱を踏立ゆくに、琴の音を出す。その濱辺ことに奇麗にして、沙の中に貝の小さなる色々交わりて、花を散らせるがごとし、これを五色の濱というも宜なり」と書いている。

 また『丹か府志』にも、「赫石の地に緑青の松、その間を通行する婦女子の輩、はじめに山を行き、帰りに濱に遊び、貝殻などを拾うて一日の旅とせり。まことに土佐絵中の人ともいうべししとある。

 琴引浜の潮騒(しおさい)を子守唄にして、浜辺の宿で一夜を明かしたことがあった。九月末(1980年)だったからシーズンオフで、車の騒音もなく、浜に面した一室は快適だった。「真冬にもいらっしゃい。雪の琴引浜はまた格別ですよ」と宿の主人はいった。からりと晴れた翌朝、私は早く起きて、はじめに山をゆき、帰りに浜を散歩して、土佐絵中の人になってみようと思った。しかし、最近できた浜沿いの遊歩道をゆくと、山はキャンプ場に切り開かれ、そこに見たものはおびただしい空缶や空壜や紙屑の山。これでは土佐絵にならぬと浜辺におりてみれば、美しいはずの水打ちぎわの砂浜は、荒々しい車の轍(わだち)で無残に引き裂かれていた。浜に面した砂山には美しい松が並び、見事な自砂青松を形づくってはいるが、古文書に出ている根あがりの松はもちろんのこと、なぜか老松がない。これは第二次大戦末期、松根油採取の犠牲になったのだという。人影がないと思った浜辺に、ふと人の気配がした。浜の中央には何年か前、地元出身の某大学教授の出資によりボーリングして湧き出した温泉の湯槽がある。ここへ老人が二人、朝湯に入りに来ているのだ。この湯はいろいろ問題を起こして地元の京都新聞をにぎわした。

 最初設置された浴槽は公衆浴場法に触れるので埋め立てられた。その後、木の桶を設置し、ここからもれる湯を受けた浴槽に入浴すれぱ法の適用外になるので再開した。しかし裸では軽犯罪法に触れ、おまわりさんにつかまる。そこで全裸を避けて入浴することになったという。当日の状況は110番が必要と思われた。この湯は汲み上げに電力費が毎月数万円かかる。そこで入浴料を入れる銭箱が設置されたが、これは何者かによって常に持ち去られ、管理面でも常に問題を引き起こした(後日談になるが、1981年の冬、巨大な波がこの浴槽を襲い、破壊して、埋めてしまった。私は琴引浜の神の怒りだと解釈した)。百井塘雨が見た琴引浜と現実とはあまりにもかけ離れて、私は幻減の悲しみに打ちひしがれた。この現実から逃避するため、顕微鏡を浜辺に構え、ミクロの世界を見ることにした。キラキラ輝く透明な石英砂に混じって、色とりどり、まさに五色の貝殻が、花を散らせるがごとく、その美を競っている。これは百井塘雨が知るべくもたかった、ミクロの世界だが、私はここに、辛くも生き残っている琴引浜を見た。

 浜砂は無数の小動物たちの棲家である。ここに小型の生物たちが生き残っているうちは、まだ浜が生きている証拠だ。海や浜の汚染が進むにつれ、小型の生物から次第に減亡してゆく。いま目本の浜辺には蛤もいなくなって、潮干狩のために外国から蛤を輸入して撤くところも増えてきた。見るもあわれな日本列島の死追狩である。琴引浜には、砂粒の大きさくらいの、小さな小さな巻貝がいた。まだこの浜は健在なのだ。それが色とりどりの装いを競っている。だが侵略者はすぐ近くまで迫っている。この浜の守り神、白滝大明神の境内が荒れているのと無関係ではなさそうだ。

4.10. 遊歩道問題

 1976年7月7目のことだった。京都新聞に次の記事が出た。「琴引浜-小浜間海岸線に遊歩道2キロ、府が近く着工海水浴客には夢の散策」

 遊歩道はそのつくり方によっては鳴き砂の命とりにたる。私はさっそく、網野町長あてに次のような手紙を出した。

 

「網野町長殿

 琴引浜の鳴き砂保護の件

 暑中御見舞申上げます。突然のお便りにて失礼ですが、去る7月7日の京都新聞にて、琴引浜-小浜を結ぶ海岸線の遊歩道着工の件を知り、琴引浜の鳴き砂を研究するものとして心配しております。海水浴客の誘致は地元にとって大切なことはよくわかっていますが、琴引浜の砂は世界的にも極めて珍しい鳴き砂として知られており、従来、他の地方の経験では、海水浴客が多くなると完全に破壊されてしまうようです。それは同封資料の宮域県の調査でも明らかです。それに道路建設によって水路が変ったり、土砂流入などがありますと、これも鳴き砂を台なしにしてしまいます。

 網野の鳴き砂はこれまでもっともよく保存されてきた天然の芸術作品だと思います。どうか今回の遊歩道計画は慎重に再検討していただき、できれば今以上の自然破壊がないようにし、海岸全体を網野町の天然記念物として保護していただくよう希望しております。もし必要ならば、たぜ琴引浜が日本一すぐれているのか、なぜ保存しなければならないのか、どういう状態になれば鳴かなくなるかなど説明に伺ってもよいと考えております。

 以上とりいそぎお願い申上げます。

添付資料一1.研究報告「天然および人造鳴き砂の特性について」

     2.「汚染の波はここにも打寄せている」

     3. 京都新聞記事2件一九七六年八月十三日同志杜大学教授三輸茂雄印」

 

しばらくして、次のような返事がきた。
 「初秋の侯、貴殿にはますますご健勝のこととおよろこび申しあげます。

 さて先般お便りいただきました琴引浜の鳴き砂保護の件でご返事いたします。

近年太平洋岸の海水汚染が進み、特に夏季海水浴には水のきれいな日本海岸へと人混みが増加してまいりました。日本海沿岸の市町においては、美しい自然を活用して観光による生活向上を図りつつあります。本町においても一昨年以来、丹後ちりめんの不況により町の経済は衰退の一途をたどっております。こうしたこともあって、町の施策としましても、観光の振興を重点的に進めているところであります。幸い本町沿岸は自然美に恵まれ、山陰海岸国定公園たらびに若狭湾国定公園の指定を受けていますが、健全なレクレーショソの場として多くの人々に利用されることを期待しているものであります。

 さてこの一環として、今度、公園事業で琴引浜、小浜間に遊歩道整備の計画がなされたのでありますが、公園利用の面から見ますと、当然整備されなければならないことであると考えられます。公園事業を行う場合、自然保護と利用の便利がいつも問題になりますが、自然破壊にならないよう細心の注意が必要であることは申すまでもないことと存じます。計画中の遊歩道につきましては、琴引浜に関係する部分については、大部分既設の歩道を改良整備するものであり、海浜にはあまり影響ないものと思われます。しかし海水浴等の入込み客が増加して多勢の人が海浜に立入ることにより、鳴き砂の機能が阻害されるということになりますと、浜全体が鳴き砂(琴引浜、太鼓浜)でありますから、保護のための立入規制、はおよそ不可能な問題であると考えます。と申しますのは、この海岸に対する海浜利用は進められなくなるからです。

 以上、遊歩道整備についての概要を申し述べましたが、町としましては、自然保護には出来る限り配意を行なうとともに、自然利用の面でも施設整備を行ない、調和のとれた開発を進めたく考えます。お便りをいただきましてから、遊歩道の工事施工者、府土木工営所ならびに地元の都落とも協議しておりますが、地元部落では出来る限りの保護策を構ずることにより工事施工を望んでおります。そこでどういう状態になると鳴かなくなるか、保護策を構ずる場合、部分的にでも可能かどうか等、不明の点もありますので、機会がありましたら、一度ご来町たまわり、ご指導いただければ幸甚に存じます。

 1976年9月14日網野町長

                 山崎 政 印」
 9月末日、網野町を訪ね、教育委員会、関 隼司教育長はじめ、観光課、地元の観光協会関係者および工事担当の府土木工営所たど関係者立合いのもとに、遊歩道計画の詳細を現地で検討した。とくに留意したのは次の二点である。

 1、松林の中に現存する細い道の幅を拡げるが、幅1メートル以内にとどめ、舗装せず、土砂留めに必要最小限のコソクリート壁を設ける。

 2、自動車の進入を禁止し、鳴き砂保護の主旨を書いた立看板を設置する。

 この動きをキャッチした地元の京都新聞は、8月26日付で「琴引浜の鳴き砂を守ろう。遊歩道計画慎重に、貴重な自然破壊許さぬ」と題した記事を、また10月4日付で、「府では計画路線を十分検討した結果、遊歩道計画については自然破壊を最小限にし、道路は海岸線より離す。地元では海水浴シーズンのキャンプなど場所指定をし、今後、施設を整備し、汚染防止をはかるなど鳴き砂保護対策に留意し、着工をきめた」と報じた。
4.11 学生のレポート

 私は大学で一般教養科目「日本の自然と生活文化」を担当している。そのなかで、琴引浜の話をしたところ、自ら浜を訪ねてレポートを書いた学生がいた。現状を素直に表現しているので以下その全文を紹介することにしよう。
 「琴引浜を訪ねて       経済学部            成宮義人

 1981年6月18目、国鉄で友人の成沢君と琴引浜を訪ねた。シーズンオフのせいか数人のダイバー以外には人影もなく、旅館も休業中だった。さっそく浜辺におりて海水をなめてみた。やはり塩辛かった。こんな自明のことでも、私のように大学生になっても塩辛い経験は両手の指の数ほどもない者にとっては、海に来た実感をいだかせるものたのである。さて残念なことに浜砂は少し雨が降ったせいか少しも鳴いてくれない。放置されているボートの下は雨がかからなたかったため乾いており、足をひきずって歩くとズーンという音がした。教室で聞いたキュンというのとは音色が違っていた。

 普通に歩いていては余り鳴かない。鳴く砂の存在を確認して浜辺を歩いてゆくと、砂上に焚火の跡があり、黒々とした灰が円を描いていた。鳴き砂のことを思うと、灰の黒さが悪魔的に見えてしかたなかった。また岩盤上には週刊朝目の写真で見た風呂があった。砂浜の上には黒い汚水の流れ出た跡が残されており、これに不潔感をいだかない人達が多いのかと思うと、そんた人達に鳴き砂に対する繊細な観察や、保護意識がないのは当然かも知れない。また近くの旅館からの排水管も廃水処理は不備のまま砂浜に向けられており、同じように黒い流れの跡を残していた。むき出しの硬そうな岩盤の上を進むと、さらに大きな砂浜に出る。波打際に近づくと、底まで透きとおって見え、打ち寄せる波が砂を洗っている。しかしいつかはこの波の洗浄能力が、人間の自然破壌力に打ち負かされるのかも知れないと思うと、今、僕が鳴き砂の音色を聞くことができる幸運さや意義をあらためて感した。砂の浄化の機構を見届けた後、遊歩道に出て案内板の前で記念撮影をした。ふと下を見ると、やっばりゴミがあった。人々が立ち止まるところがゴミ捨て場だったのだ。左右に曲がりくねった遊歩道をさらに進むと谷があるが、ここもゴミ捨場になっていた。人目につきにくい所に限ってゴミが多いのは捨てる人も少なからずひけ目を感じているのだろうが、いずれも砂浜へ向って捨てられている。波が沖合ヘゴミを流し去ってくれるとでも思っているのであろうか。遊歩道も終る付近では山からの土砂がゴミの山を埋めようとしていた。自然を無視した人問の営みに対する、鳴き砂の母なる砂丘の、せめてもの低抗のように僕は思った。

 閑散とした旅館の前の道路はアスファルトで舗装されていた。油など複雑な有機物に満ちたアスファルトを使わず、石畳にでもすべきだ。琴引浜の現状を見た僕達は、網野町役場を訪ねることにした。観光課のH氏が応待してくれた。観光課ということでどうしても業者側に行政が傾きがちとの制約を自ら認めての話だった。シーズン中には五-六万人の観光客が訪れ、その間は民宿老人会や、小学生を中心に週3、4回ゴ、ミ回収が行われているが、シーズンオフには自然の浄化にまかせているという。一応、雀の涙ほどの補助金が、役場と観光協会から出ているが、京都府からは出ないという。話を聞いて何よりも驚いたのは、琴引浜を鳴き砂のある海水浴場として観光客が来るのではなく、ただ単に海水浴のために来るということだった。受け入れる側も、海水浴のできる環境維持のための自然保護であって、鳴き砂の環境保護は論外だという。だから遊歩道の設置も自慢の種といった感じの話しぶりで、遊歩道による環境悪化や、焚火が鳴き砂のためによくたいことも、はじめて聞いたという。鳴き砂が自然体系にもつ意義を知る人は現地にいないのが現実のようだ。H氏は観光課では町民の生活を守らねばならないという制約があり意見が片寄ってはいけないと、親切にも教育委員会へ案内して下さった。ところが紹介された係の人は、何とこう言ったのである。「そんたもん役場で知っているもん、いいひんでえー」。驚いたことに、他の係の人たちも納得顔だった。一人だけ知っている人がいるが出張中とのこと。僕達はその人に希望を託し町役場を去った。鳴き砂が死んでしまうのも、時間の間題だろう。

 鳴き砂が死んでしまうのも、時間の問題だろう。鳴き砂のあの鳴き声が、僕達にひしひしと救いを求めているような気がしてたらなかった」

4.12 再び網野町長殿

 後に(10章)述べるように、琴引浜は、世界に数あるミュージカル・サンドの浜辺のなかでも、ずば抜けて砂の質がよく、また前述のように、古くからくわしい記録がある点でも世界に類例がない。しかしその価値は、地元の人たちをはじめ、行政機関の人々も、ほとんど認識していないのが実情である。その証拠に、次に示す網野町長への手紙と同時に、ほぼ同じ内容で、林田京都府知事へも要請文を提出したが、たしのつぶて。取材にいった新聞記者たちも「府はなにもわかっていなくて、記事にもならない」とばやいていた。

「網野町長殿

 琴引浜の鳴き砂保護につき質間状

 1976年の遊歩道建設間題以来、琴引浜の鳴き砂保存につきご努力賜り、心づよく存じております。

 網野町の琴引浜、宮城県の十八鳴浜および島根県の琴ケ浜の三つは、日本に現存する鳴き砂の浜の貴重な三地点ですが、なかでも琴引浜は最大かつ、もっとも優れた鳴き砂の浜です。ぜひこの世界的にも稀有な天然記念物を末ながく保存したいものです。

 ところで琴引浜の現状ですが、私自身、毎年現地に赴き視察していますが、環境は年を追って悪化しており、このままでは網野町天然記念物・琴引浜の保存は危険な状況にあると判断しております。観光開発と自然保護とのバランスはむずかしいことですが、琴引浜の学術的および天然記念物としての価値はひしょうに高いものであり、保存することが、町のためにも、また目本の自然のためにも必要と考えます。つきましては次の点につき質間させていただきますので、ご検討の上、ご回答賜りますようお願いいたします。

 1、琴引浜西部分の後背地はキャンプ場になっていますが、ここのゴミの散乱は目に余るものがあります。観光客のモラルの問題ではありますが、町としても警告板の設置、監視員の配備、清掃、あるいはキャンプ場の閉鎖などの対策についてご検討賜りますれば幸いです。

 2、現在、琴引浜の砂浜上へ、自動車で自由に入れるようになっています。そのため私も現地でトラックやブルドーザの跡を目撃しました。しかも琴引浜の西端まで入っていました。浜砂はそのままで工業用材料や庭砂などに利用できますので不法盗砂のおそれがあります。早急に車靹立入禁止の対策を構ずることはできないでしょうか。

 3、現在の町指定天然記念物を、国指定の天然記念物に昇格させるお考えはありませんか。

 4、浜中央部に湧出している温泉廃水が砂を著しく汚しております。たてまえはともかく、現実には温泉として裸の人達が入浴していますが、これにっいてどうお考えですか。

 5、今後、琴引浜を天然記念物として保護してゆく方針についてお考えがありましたらお示し下さい。

 1981年9月7日              同志杜大学教授    三輪茂雄印 」

 これにたいし回答は次の通りであった。

 「鳴き砂保護に係る回答について

 本件につきましては、その後庁内関係各課との調整、並びに地元関係者と打合会を開催し、保護につきまして検討を重ねてまいりました。その結果、結論的には鳴き砂を将来にわたって保護・保存する方向で今後も引き続き検討を加え、可能のかぎり意を用いてまいりたい所存であります。しかしご承知のようにこの地域は、絹織物の製造と観光が二大産業となっており、22八世帯、610人が生計をたてている特殊事情もご賢察いただき、先生のご期待に十分お応えできない点もあろうかと存じますが、この点ご理解賜りますようお願い申しあげます。

質間1の点

 1. キャソプ場にっいては、指定2箇所以外は全面的に禁止していますが、十分徹底していなかった。今後指定地域外のキャンプについては、当該地への車道の閉鎖(門またはさくの設置)に加え、監視も可能のかぎり強化します(砂浜部分は従来から禁止)。

なおキャンプ場閉鎖の点にっきましては、青少年の野外活動、健全育成の上からも効果があり、考えておりません。

 2. 「キャソプ場」「キャソプ禁止」の立札、看板を必要枚数作成掲出し、啓もうに努めます。

 3. 清掃につきましては、海水浴期間中は週二回実施していますが、今後この期間以外についても、必要に応じ清掃を検討します。

質間2の点

 琴引浜へ通じる道路三箇所のうち、すでに一箇所は鉄製ゲートを設け施錠していますが、残り二箇所については、自動車が進入できないよう、門またはさくを設置します。

質問3の点

 今直ちに国指定の天然記念物に指定申請するか否かについては即答できません。しかし前進的た方向で検討を続けていくことにします。

質問4の点

 現在は使用していません。しかし海水浴期間中は、体に付着した塩分を除去するため、二か月余、シャワー・の代用として利用したいと考えています。なお温泉は個人の所有であり、今後、利用計画が提出された時点で十分指導を考えています。

質間5の点

 町の課長会でこの問題を坂り上げ、職員の指導を課長を通じて行うこと。また、例年実施している職員研修会を通じ、全職員を指導していきたいと考えます。今回、地元地区民と町の打合会において、地元から役員16名が出席しており、地元住民も理解を深めていただいたものと思います。

1981年2月5日          

                    網野町長山崎 政 印」


4.13 白瀧大明神

 冬の琴引浜を訪ねた1月15日(1982年)、

 私は掛津都落の元老格、松尾栄治さんを訪問した。氏は現在、民宿を営み、琴引浜海水浴場の開発に努力してこられた方である。その夜、二、三の地元の方々も混じえて、お話を聞く機会をもつことができた。「この浜は、日本の宝です。将来とも、この部落で護ってゆきたいと考えています。役場は票になることしかしてくれません。私たちが護らなくて誰が護ってくれるものですか」海水浴客誘致のことしか考えていない民宿業者と考えがちな私には思いがけない話しぶりなのにほっとした。

 「大手観光業者の開発の魔手から逃れて、今日まで曲りなりにも琴引浜が保存されてきたのはなぜか」。その答もまた意外だった。

 

「浜の隣接する陸地の所有関係が、いちばん大切なことです。個人所有だと、貧乏すれば売りに出さざるを得ない。ひとっでも大きなホテルが浜に建てば、浜をわがもの顔に占領するにきまっていますよ。さいわい、浜に隣接する陸地は掛津部落の共有地になっています。名目上は白瀧大明神官司ですが、宮司は代々、勝手に売ることはできない部落の約束になっています。そのおかげで、観光業者に売り渡すことがなかったのです」

 では浜と陸地の境はどこたのか、浜は国有地であるが「浜とは波がかかる範囲であり、何年に一度の大波でもかかれば浜」なのだという。一方、波がかからぬところは、浜砂でできていても、国有地ではなく、部落の共有地になる。

 次にどこの浜辺でも問題になっているゴミ対策だ。海水浴客、キャンプ場、サーフィソなどの連中が、所かまわずゴミを散らかしてゆく。これは目に余るものがあるが、その掃除は「老人会でやってます。もちろん奉仕です」と。これが、世界的にも第一級の、ミュージカル・サンドを有する琴引浜のお寒い現実である。


太鼓浜に立つ故人松尾さん

文献

注1. 利休七哲の一人に数えられr細川三斎茶書』で知られる丹後宮津城主,細川忠興(1563-1635)の奏。
注 2. 『丹か府志』はr丹後郷土史料集』の第一輯,巻の五に活字版として収められている。いんじよつそれにはr韻々濠々」と記されているが,網野町に現存する原本を見て,明らかに攻々淵々たので正した。

図4-4琴引浜の砂を徹底的に洗浄して復活した太鼓の音実験方法は

文献12〕参照。音の持続時間が著しく長くなった。比較のため,十八鳴浜の砂を洗浄したものを示した。

1. 小林玄章,之保,之原著r丹母府志』(1763-ユ842)r丹後郷土史料』第1輯(龍燈舎,1938)r丹後史料叢書』9輯中6-7輯(覆刻,1972)

2. 日高重助,三輸茂雄r粉体工学会誌』18巻,5号301-310(198工)r鳴き砂の発音機構について」

3. 木内小繁著『雲根志』(日本古典全集刊行会,昭5,活字版)(安永元-享和元)

 

 

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