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古人は

 自然を保護する必要があるとき

    伝説として語り継いできた・

       その内容が荒唐無稽であっても

           その目的まで忘れ去ってはなるまい

第7章 伝説の鳴き砂浜

 

 
-- 能登と島根 --

 宮城県では、九九鳴(くくなり)浜、十八鳴(くぐなり)浜、鳴(なら)浜、十八成(くぐなり)浜と、古人はそれぞれ浜の名に、ミュージカル・サンドの存在を伝えておいてくれた。また京都府では、琴引浜、太鼓浜という名のほか、くわしい記録が古文書の中に発見される。ところが、次の二つの浜辺では、このめずらしい現象を、伝説として語り継.こめいでくれた。それは能登半島の「泣き(ごめき)浜」と、島根県の「琴ケ浜」である。ミュージカル.サンドに関して古文書や伝説が、こんなにたくさん残っているのは日本だけであって、諸外国にはその例をみない。われわれの祖先たちが後世に残してくれた世界に誇る日本の宝ともいうべきである。われわれはこの貴重な遺産を守り抜く責任と義務を負っているが、残念たがらそのいずれも、近年著しい破壊を受けたばかりでなく、その存在さえ忘れ去られようとしているのは悲しいことである。

7・1 お小夜の悲恋伝説

「昔、能登國・仁岸(にぎし)の郷の渡瀬(わたせ)という部落に、次郎助(じろのすけ)という百姓家があった。次郎助の娘お小夜(さよ)は家が大変貧乏だったので近くの女郎屋に遊女として売られたが、その後、江戸の吉原まで流れてゆき、吉原いちの売れっこ花魁(おいらん)になった。
 義理にかたく、情に厚く、芸に秀でていたので、一目千両の花魁お小夜と、もてはやされた。そのうち同郷の誼(よしみ)で、能登輪島の重蔵という船乗りが、お小夜のもとへ通いつめ、お小夜はこよなく重蔵に魅かれた。だがあるとき重蔵は輪島に帰ったまま、ばったり寄りつかなくなってしまった。不審に思ったお小夜が輪島の重蔵のもとへ行ってみると、すでに他の女がいた。愛憎半ばする心で故郷の劔地(つるぎじ)へ帰ったお小夜は、海に身を投げて自らの命を絶ってしまった。その怨念(おんねん)が砂浜にのりうつって、砂の上を歩くと泣き声に似た音をたてるようになった」 剣地の方言で、泣くことを「ごめく」というので、村人たちはこの浜を「泣き浜」と呼ぶようになった。
「村人たちは不潤(ふぴん)に思って、劔地海岸が一目で見渡せる渡瀬に小さな祠(ほこら)を建ててお小夜の霊を慰めたが、沖に白帆が見えるたびに暴風を起こして大時化(しけ)となり、そのつど遭難させた。お小夜の亡霊が船をとめる、それではかなわぬと、村人は海q見えたい山の上代(うわだい)に移した。それがいまに残る黒髪神杜である」 以上は後に述べる定梶(じようかじ)昭三さん(門前町剣地)から聞いたお小夜伝説である。(1)次のような話もある。「重蔵はこの浜から船出したまま、いつまでたっても帰ってこない。お小夜は恋いこがれ、毎日、この浜へ出て、浜の岩(浜の中央、やや南寄りにある奇岩)にのぼり、"重蔵恋しや"と嘆き、沖合の舟を眺めて待っていたが、とうとう病にかかり死んでしまった。やがて帰ってきた重蔵は、お小夜の死を聞き、浜を涙でぬらした。それ以来、浜の砂がごめくようにたった」 ところで、この伝説には琴が出てこないのに、現在の地図や案内書には「琴ケ浜」と書いているのはなぜだろうか。定梶さんの話によるとこうである。「これは近年つけられたもので、私の父・定梶宗次が昭和初年に付けたと聞いております」。伝承に忠実であるためにも、泣き浜というすばらしい名称を残したいものだ。


写真7-2 お小夜を祀る黒髪神社

 境内からは、南の山に遮られて海は見えない。鳥居を出て右手の方へ降りて行くと泣き浜へ出る。

7・2. 黒髪神杜

 8月末(1980年)、伝説を訪ねて、泣き浜の入口に降まつり立った。お小夜の霊を祀ったという黒髪神杜はどこだろうか。2万5000分の一の地図には鳥居印が二つある。どちらだろうかと考えたがら国民宿舎のほうへ上りかけたところで、車に荷を積みこんでいる人に出逢った。地元ナンバーの車なのでたずねてみた。「ああ、それなら:・…そうですね、説明しにくいから、この車に乗りなさい。お連れしましょう。先日NHK教育テレビに黒髪神杜が出たので、訪ねてくる人がいるんですよ。伝説のことですか、それなら剣地の酒屋、定梶昭三さんがくわしいですよ」伝説を訪ねる私のあてずっぽうた旅も、思いがげぬ助っ人、高藤重弘さん(門前町黒岩在住)の出現で、すらすら展開することにたった。にぎし黒髪神杜は仁岸川の北側にある高台にあった。伝説通り、向こうの山にさえぎられて、海は見えない。異常冷夏で出遅れたのか、その季節にしてはめずらしい蝉しぐれが森いっばい。その奥にひっそりと小さな祠があった。境内は荒れ、いちめんに雑草が繁っているが、参道はきれいに刈りとられ、村人たちの心づかいが感じられた。祠の奥にもうひとつお堂があり、板戸のすき間から絵馬らしいものが見えたが、ここにお小夜の黒髪が祀られているという。
黒髪神社の鳥居から少し坂を下ると、右側に.砂層が露出した崖があった。こんた砂層から砂粒が仁岸川に-運び出されて、ごめき浜の北端近くに入り、浜砂になる。仁岸川に沿って浜辺へ出た頃、さきほどからいまにも泣き出しそうな気配だった曇り空から、小粒の雨がパラパラきた。「お小夜さんの涙だ」。浜辺探訪に雨は苦手だが、ごめき浜では、これにまさる演出はない。黒髪神杜の霊験かと少々薄気味わるい思いで、砂の表面がぬれはじめた浜辺を、北端から南端の黒崎へ向かって歩いた。足を強く砂にこすりつければ、かすかにキュッと泣くこともあるが、踏みっけただけではまったく音が出ない。数年前にもこの浜辺を訪ねたことがある。盛夏で、カンカン照りだったが、そのときもほとんど泣かなかった。


図7-2 泣き浜の状況(西山氏のレポートより)

 

 「最近、ごめき浜は泣かなくなった」と地元の人々はいう。いつ頃から泣かなくたったのかはっきりしないが、ここ20-30年の間に、少しずつ砂がよごれてきたようだ。この浜の中央には剣地の部落を貫流する仁岸川が流れこんでいる。生活様式が変化して、生活廃水が大量にこの川に流入し水質を次第に悪化させてきた。こういう傾向は全国的にどこでも見られるところである。
1954年にこの浜辺を訪れた神戸大学の橋本先生(文献2)が「歩いて聞く音は鳴り砂としてあまり上等のものではなかった」と書いているのを見ても、すでに当時から汚染は進んでいたらしい。次に、1962年頃、浜の近くで砂利採掘工場が操業を開始し、浜の南部に流入する小川に泥水を流すようになった。また北部は道路が浜を分断した。石川県立輪島高等学校の西山恭申氏(文献3)は図7.12を示し、排泥が海中まで堆積していると指摘した。氏は排泥で汚れた砂を採取し、「家庭用中性洗剤による洗浄につづき水に入れて約20分くらいの煮沸を行なうと、非常に良い発音を示した。このことから、砂浜の鳴らないところは、人工の手が加えられた結果、海水や雨水による洗浄作用が十分行なわれていないところであり、本来はこれらの部分も十分鳴る性質をもっていることがわかる」と述べている。現在では、夏に.なると海水浴客がどっと押し寄せ、ゴミの山を残してゆく。これではデリケートなミュージカル・サンドの特性が保てる道理がない。
 NHK教育テレビで、この浜の汚染状況をくわしく紹介*したことがあった。そのとき私はNHK金沢放送局の方が採取してこられた砂を目の前で洗浄し、失われた音が見事に回復することを実演して見せた。洗った水は赤く濁っていた。浜辺で見たときには、まさか、これほどの濁りが出るとは想像もしなかったので、私自身、驚いた。この事実は、おそらく剣地の人々にも、目の前で実演しない限り、納得してもらえないにちがいない。その昔、ごめき浜が今日のように汚れていなかった頃、浜辺の砂は驚くほど大きた音を出し、村人たちはこの大自然の驚異を、お小夜の慟哭に擬したのであろう。いまではその声もかすれ、文字通り砂は泣いている。

7・3 学生のレポート

 1981年5月、この浜を訪ねた同志杜大学商学部学生、細川美香さんはレポートにこう書いた。


レポートの細川さん

 「京都を出て約5時間半、琴ケ浜着。さあ、最初の一歩。砂はキュヅと鳴いて私たちを迎えてくれるだろう……と、足をおろしたが、砂は何も云ってくれない。このあたりではだめなのかも知れたいと、さらに進んでも、全くウンともスンともいわない。砂は完全に乾いているし、見たところ混りけのない白砂で汚れてもいないようだのに……。浜じゅうを歩きまわってみるが、音がするといえば、くつのザヅザッという足音ばかり。私たち三人必死で歩きまわったり、石でこづいたりしたが、手ごたえはない。先生のテレビでは確かにキュッ、キュッと音をたてていたはずたのにと、皆困った顔。もしかするとあれは効果音かも、という声も出はじめる。
それほど全く鳴かないのである。小一時問ほど、そうしたあと、もう三人とも音を出すのはあきらめ、たぜ鳴かないかを考えることにした。水は一見きれいそうだし、砂もきれいである。道路こそすぐ上を通っているが、砂の量もまだ豊富に保たれているようだ。しかし鳴かないと思って、あらたな目で琴ケ浜を見まわしたとき、新しいことに気づいた。砂はきれいに見えるが、海岸のゴミの多さである。すごい量だ。プラスチック容器、あきびん、ヵソ。その砂浜の有様は美しい海とは全く対照的であった。これでは鳴くわけもないと、やっと納得。ところでもうひとつ発見。皆さんざん砂の中を歩いたのだが、三人とも、そのくつに。、底といわず、横といわず、タールのような黒いものがべったりとくっついている。ティヅシュでとろうとしてもとれたい。砂はゴミだげではなく、油でも汚れていたのだ。日本の近海の汚れようは、しばしば話題になるが、こうして海はどんどん死んでゆく。汚れのセソサーであるという鳴き砂が鳴かたくたるということは、日本海も汚れきってしまったということだろうか。帰りの車中では皆だまりがちだった」



7.4. ここにも原発が

 能登半島は砂地の半島である。奥能登の珠洲(すず)には、おどけ者で人気者で発明家で頓知の小男「引砂の三右衛門伝説」だの、琴江院だのと、砂探訪には耳をそばだてたくたる話が出てくるし、砂浜も多い。なかでも恋路海岸や見付海岸には期待したが、現地を訪ねてみると、美しい松原は切り拓かれて、無粋な国民宿舎や民宿が連なり、護岸工事で殺風景な海岸には、生活廃水で汚れたわずかばかりの白砂が残っているのみだった。ひと昔まえの浜の写真や、レンズのトリックで観光客を誘致しても、この汚れた海岸は、隠しおおせない。さすがに蛸島を過ぎ、狼煙(のろし)、折戸方面までくると自然海岸があった。国鉄の急行バスだったが客は少ないので、私の仕事の目的を告げると、砂浜ごとにバスを停車させ、運転手は、砂の試料採取に協力してくれた。ここまでくると国鉄職員の親切さも都会とは比べものにならない。こうして輪島までの間、砂を調べてみた。いずれも、ミュージカルではなかった。旅から帰った9月5日付の京都新聞に、こんな記事が載った。 「能登に大原発基地-小林関西電力杜長構想。くすぶっていた珠洲原発構想再燃か」原発建設は目本の最後の自然も壊減させずにはおかない勢いである。能登半島探訪の起点、金沢市の北方、内灘砂丘から羽咋(はくい)にかけて、まっすぐに。のびている砂浜がある。この全長約八キロの砂浜は、千里(ちり)浜とよばれ、最近は天然の舗装道路「渚ドライブウェイ」で知られるようになった。他の砂浜とはちがい、車が走っても、タイヤは砂にめりこまず、タイヤの跡がつかない。この秘密は、砂の粒が特に細かくて、よくそろっていること(0.1-0.2ミリ)と、砂の形に著しい特徴があることだ。砂粒の形状はミュージカル・サソドに似ており、そのため支持強度が大きい。しかし石英粒以外の長石などが混入し、現地では発音特性を示さない。

図7-4 千里浜(ちりはま)は波打ちぎわでもタイヤがめり込まない

7・5 琴姫

 「むかし平家に、琴の名人とうたわれた盲(めしい)の父と十八歳になる琴姫がいた。父は琴姫に秘曲を伝えたが、平家は壇の浦の合戦に敗れ、琴姫は琴を抱いて海上にさまよった。
海にただようこと三日、大きな嵐に遭い、船が砕け、琴をしっかり抱いた琴姫の遺体は浜辺に漂いついた。村人たちは一張りの琴とともに、浜の見える高台の松の下に埋めたが、それからというもの、この浜を通ると琴の音が、どこからともなく聞こえてくるようになった。それからしばらくして、盲目の老人が枕をたよりにこの浜にきて、砂の調べから、琴姫がこの地で亡くなったことを知り、入水して死に果てた。この老人はいうまでもなく琴姫の父であった」

 こんな美しくて悲しい物語が代々、村人の間に語り伝えられている白砂の浜が石見路にある。島根県仁摩郡仁摩町馬路(まじ)の琴ケ浜だ。
大正初年、当時84歳と91歳の古老の想い出話によれば、この人たちが子供のころ、鶴の松と呼ぶ、ふた抱えもある大きた松の木の下に、玉垣をめぐらした墓があり、平家の姫が祀られていると伝えられていた。この場所は現在の国鉄馬路駅の南の高台であった。大正年間、青年会の手でこの墓地の発掘が行たわれ、約3メートル下から、朱色の土とともに遺骨が発見された。遺骨は馬路の満行寺に移され、また1967年8月、浜の中央の松林の下に琴姫の記念碑が建立された(4)。この浜についての研究は坪井氏が1918年に行なったが、成分分析のみでしかも石英を長石とまちがってしまった。
(文献5)1970年、仁摩中学校理科クラブは、この浜についてくわしい研究をした。海岸を六人が歩き、その鳴き具合を調査したところ、みかけは同じにみえる浜の砂も、よく鳴くところと、あまり鳴かたいところがある。その場所は日により異なり、また一日のうちでも朝、昼、晩でちがうことがわかったという。その原因は砂の湿り具合と関係があるのだろうと考え、鳴かない砂をもち帰って乾燥してみたが、やはり鳴かなかったという。
 1980年10月、私もはじめてこの浜を訪ねてみた。

歌人はかき鳴らす

  たが爪 琴のしらべかと

     まがうばかりに鳴る沙(いさご)かな

 と詠んだ(文献6)。


写真7-5 砂の祭壇には動物たちがアニマル・ミュージック・コンサートをやった跡があった

 弾(はじ)けば音を発するのは、最高感度のミュージカル・サンドである。 私もそんな場所を探しあててみたいと思った。浜じゅう歩きまわるうち、あった!人の足跡がまったくなく、鳥の足跡だけかすかに残る、ひときわ白い砂が数坪、まるで砂の祭壇のように、もり上がっていた。なぜこの場所だけが残されているのか不思議な気がした。「そうだ、昨夜、琴姫がここで琴を鳴らした場所だ」。そう思うと、なにかそのまわりに玉垣がめぐらされているように思えて、踏み入れようとした足をひっこめて、しゃがみこんだ。琴を弾く心で砂の表面をはねてみる。……おや、指先にやわらかい響きが伝わって、ブブブと鳴くのである。まるで砂から音が噴き出してくるような、このすばらしい感度。私のこの表現は、オーバーと受けとられるかもしれたい。ミュージカル・サソドを知っているつもりの人でも、最高感度を経験したことのたい人はそう思うであろう。しかし、私は感じたままを表現したのであり、誇張はない。ミュージカル・サソドの発音メカニズムを研究した学者のいく人かが、空気噴出説(10章)を支持した。砂の隙間の空気が圧縮されて噴き出すときの音だというのである。
 このブブブというのを体験すると、空気噴出説を支持したくなるのはもっともだと思う。仁摩中学の報告に、琴ケ浜の砂の鳴き具合は日本一だと書かれている。ほとんど全面にわたって護岸工事が行なわれ、松林は切り倒されて住宅地とたり、松風の音にまじって琴をかきたらす音が聞こえたという往時の面影はなく、殺風景なコソクリート構造物の下に砂がある風景はわびしいが、このことが岸辺からの土砂の混入を防ぎ、発音特性をよくしているのかも知れない。同じような例がイギリスで報告されている(文献798)。地元の研究としては大田高校の渡津俊行先生の報告がある(文献8)。そのなかで、手のひらで砂の表面をなでると「ブォー、ブブブ」という音が出ると表現していることや、水のなかでも発音することを指摘しているのは、この浜ならではの研究である。1981年夏、琴ケ浜を訪ねた同志杜大学商学都学生、本田裕章君は次のようなレポートを書いた。「浜辺の東側で町民体育大会が開催されていた。僕らは町民の群れの中へ入りイソタビューした。「ここの鳴き砂についてお聞きしたいんですが」「ああ、そりゃあ、粒子が細かいことじゃのう。粒が細かいから鳴くんじゃのう。それと、砂がきれいじゃから。きれいじゃないと、鳴きはせんのう。この前も、海から廃油が流れて来てのう。町民みんなで海岸の掃除をしたんじゃい。ああいうことがあると、鳴かんようになるのうψ(老人)。テソト来賓席の町の教育長にも聞いてみたが、彼は「君らの方が知ってるだろう」と殆どノーコメソト。
 環境問題については、さっきの老人と同じ具合で、とにかく鳴き砂は永遠なのだとだけいって大会に声援を送っていた。僕らの心配をよそに、地元の人たちはのんきなものだと思った」

7.6 波来浜(ならはま)

 山陰海岸には、砂丘と砂浜が点在している。琴ケ浜のようた、ミュージカル・サンドは他にもないものだろうか。浜田から海岸沿いに出雲へ向かって歩いてみた。下府(しもこう)海水浴場の近くには明治5年の浜田地震で隆起した天然記念物、石見畳ケ浦があるが、ここは礫岩、砂岩、頁岩互層があり、砂岩から風化によってとり出された石英砂が堆積している。これは、ミュージカル・サンド生成の可能性がつよいが、たしかに下府海水浴場の砂は、足をつよくこすりつければ軋り音を発するスキーキング・サンドだった。しばらくゆくと、きわだって白い砂丘と浜砂がある波子海岸に出た。大いに期待できるとワクワクしながら調べてみると、予想に反してまったくルーツがちがう未成熱の砂だった。長石が多量に混入し、石英砂も円磨されていない。がっかりして江津を過ぎ、しばらくゆくと、ふたたび砂丘地帯に入り、海岸には白い浜辺がみえかくれする。このあたりには鋳物用砂や、ガラス原料用珪砂鉱山(文献9)が多い。浅利にある工場のひとつを無断で通り抜けると、人っ子ひとりいない犬きな浜辺に出た。
 ここもミュージカルではなかったが、おりから天気晴朗、紺碧の海、渚に立って白砂に打ち寄せる波頭が描くファンタジックな曲線を眺め、しばらく時問のたつのも忘れた。はだしになって砂の上を歩けば、熱い白砂が快く足裏をくすぐる。ふと与謝野晶子の歌が脳裏をかすめる。

 磯浜の

     熱き砂などおもふ時

       おとめ心さわがし 少女のごとく

 浜辺に沿い、小さな岬を二つまわって、波来浜に出た。「なきはま」またはなら「鳴浜」とも読める。私はワクワクしながら、砂探訪の七つ道具をとり出した。鳴くか、鳴かぬか?「鳴いた!鳴浜だあ」。鳴き音よりも私の声のほうが大きかったがミュージカルとはゆかないまでも、音が出たのはうれしかった。これで地名学に新説を出せそうだ。 この豊かな松の緑と紺碧の海に囲まれた、小さいながら静かた波来浜の後背地は、巨大な白砂の砂丘地帯である。日ざしが暑く、七つ道具の重さが肩にくいこむ鞄を背負って見知らぬ土地を歩くのはつらかったが、ところどころ美しい砂丘に出会うのが楽しみで、腹ぺこの旅を続けた。食事のできそうなところはまったくないのである。
 なお、波来浜には山川産業Mの工場がある。後日、工場から砂丘の砂を送っていただき、機械洗浄にかけたところ、京都府・琴引浜の網野砂丘の砂にちかい、ミュージカル・サソドが復活した。

7.7 鳥取砂丘は鴫くか

 鳥取砂丘にある与謝野晶子の句碑に、

   砂丘とは浮かべるものにあらずして

      踏めば鳴るなり 

          淋しき音に

とある。鳥取砂丘のおみやげには、この句を入れたものが多い。これをみて、「鳥取砂丘の砂も、鳴るのですか?」と聞く人がいる。「もし鳴らなくても、あたたは、鳴かずんば鳴かせてみよう杜鵠(ほととぎす)なんでしょう。洗ったら鳴くんじゃないですか。晶子の詩と組み合わせて、砂丘幻想曲をつくりましょうよ」。これは放送局の人だからしつこい。そこで私は鳥取砂丘の砂と、琴引浜の砂とを顕微鏡で比較したがら見ていただいた。「なあるほど、琴引浜は砂粒が透明で、表面がまるくてピカピカ光っているのに、鳥取砂丘の砂は大部分が不透明で、表面には泥がこびりついていますね。でも、泥をとったら、どうなんですか。それでも駄目なんですか」。
 相手は一歩もひかない構えである。彼の脳裏には泥でなくて晶子の詩がこびりついているのだ。「歌人なんて人種はねえ、我が強くて、観念的で、自已中心的で、それにうつろな目っきで眺めて、詩をっくるんですよ。のっぺらぽうな砂丘に足を踏み入れると、距離感覚も、平衡感覚もおかしくなり、ふわっとした幻想的気分に襲われる。「浮かべるものにあらずして」とは、このような気分を歌っているんですよ。思わず足を踏みしめて、足もとを確かめたくなるでしょう。そのとき晶子は砂が鳴った幻覚に陥ったんでしょうよ」だが、私がいくら詩論を述べても、信用してもらえそうにない。あとは実力行使だ。そこで、鳥取砂丘でも、比較的きれいな砂丘海岸の砂をとってきて網野砂丘の砂を洗浄して、ミュージカルにしたよりも、何倍も時間をかける強力洗浄を実施してみた。赤濁りの水がいつまでも出た。だが、泥はとれても、不透明な砂はそのままで、ついに、ミュージカルになる気配はなかった。鳥取砂丘には、古砂丘と新砂丘とがある。新砂丘は日本列島に人類が出現し、縄文文化が栄えた以降にできたものだ。焼畑農業が盛んになると、山を焼くから、中国山地の主体をなす花崗岩の風化を著しく促進し、これが洪水によって砂粒を運び出す。古代のタタラ製鉄や土器製造、中世の製塩や大寺院建立には山林を大量伐採し、これが洪水をひき起こした。人類による大規模た自然破壊の開始である。そんな砂だから、新砂丘の砂は、ミュージカルになるまでに円熱していない。なお新帯先生は、鳥取砂丘の西方約20キロ、青谷町付近に、(文献10)ミュージカル・サンドが点在することを指摘しておられる。

文献

1. 小倉学,藤島秀隆,辺見じゅん共著r加賀,能登の伝説』(角川書店,1976)
2. 橘本万平r旅』28巻9号,28-31(1954)r鳴り砂をもとめて」
3. 西山恭伸『科学の実験』29巻4号,329-336(1978)「能登の鳴り砂」Nishiyama,K.,Mori,S.:Jap.J.Appl.Physics,21[4]591-595(1982)

"Frequency of sound from singing sand."
4  坪井誠太郎『地質學雑誌』25巻193-195(1918)r石見國遜摩郡琴ケ濱の歌ひ砂」
5 仁摩町立仁摩中学校r科学の実験』21巻8号,6-12(1970)「鳴り砂の研究」
6. 李家利文著『なないろの筆』(法政大学出帆局,1958)
6’『仁摩町誌』昭47.島根県立犬田高校・白石昭臣先生の調査による。
7 Carus一Wilsori,C.:Nature,81,『2072]69(1909)"Musica1sand."
8.  渡津俊行『島根県立大田高校研究紀要』3号11-24(1972);7号32-47(1978)「鳴り砂の発音機構について」
9. 井上秀雄r地質調査所月報』28巻7号,445-459(1977)r島根県遜摩郡温泉津町三子山周辺の珪砂鉱床」

10. 新帯国太郎『満鉄読書曾雑誌』13巻5号,106-116(1926)「鳴る砂の話」

 

 

 

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