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第1章 序-砂が鳴く第2章 古代の怪異第3章 魅力第4章 琴引浜第5章 伝説第7章 伝説第8章 謎の一直線第9章 幻の鳴き砂浜を訪ねて|第10章科学|あとがき|増補分


第6章 鳴き砂幻想

    未来の考古学者は、

       二十世紀末のみにくい遺跡、

          女川原発跡の下層から、

    1978年末まで完全に保存された鳴き砂の痕跡とともに、

          もし運がよければ、

               ソロバンの残骸を見出すだろう。

                     「アサヒグラフ1978年2月17日号

 

アサヒグラフに出たマンガ教授

                                       現実の平沢本部長の案内は穏やかだったが、彼はその後新潟角海でも現れた(来年定年ですと聞いたが、私は追いかけますよと言うと、「やめてくださいよ」と。平成18年いまそれを現実にする。彼はもうあの世かも。

第5章 原発が奪った砂の歌

  -- 宮城県・牡鹿半島 --

6.1 牡鹿半島

 1975年夏のことだった。日本三景の松島めぐりを楽しんだあと、牡鹿半島のつけ根に位置する女川町を訪ねた。漁港の朝を見ようと、港近くに宿を探して歩きまわり、やっとの思いで古ぼけた旅館にたどりっいた。おんぼろ宿だったが、鮮魚だけはふんだんに出て満足だった。

 さて翌朝、港は烏賊のシーズソで、烏賊、烏賊、烏賊、足のふみ場もない。大きな鞄を手にし、ヵメラをかっいだ変な闖入者には見向きもせずに忙しく立ちまわる漁師たちの間を縫うようにして、漁港の風景を見てまわった。市街へ通ずる道路には、おかみさんたちが店を出している。魚を売るだけでなく、それぞれ自慢の調理をして見本に出し、調理法も教えてくれる。この地で野菜はぜいたく品。ここに滞在すると朝昼晩、さしみに貝でがまんしなければならないが、日頃、鮮魚に縁遠い京都の人間にとっては、もっばら食いだめである。


 ところで、この日の旅の目標は、牡鹿半島観光のポイソト、コバルトライソや金華山ではなく、地元でも知る人の少ないミュージカル・サンドの浜、「鳴浜(ならはま)」である。これがまた難物中の難物、おいそれとはゆかない。東北電力が原子力発電所建設のために買収し、立入禁止区域に入っているからである。もちろん東北電カヘ正式に申し込めぱよいのだが、それでは旅の面白さが半減する。茶目っ気根性でもぐりこんでみたいのである。こういうことなら家族連れを装に限る。当時、粉体工業技術協会教育委員会書記だった井上良子さんとその息子に同行願うことにした。運を天にまかせての話だが、流しのタクシー運転手の人相から、これぞと思われるのを拾うことにした。一台目、だめ。二台目、だめ。三台目の運転手が気に入って乗り込む。わけを話すと、「鳴浜はハァ、昔あそこに道がなぐで、向ごうの畑へ往復するのに、浜の上を通ったもんだべ。行ぎ帰えりにイ、砂ごさ鳴ぐのをたのしみにしたもんだ。子供の頃から見てきたもんを、いまさら見ぜねエって法はねエだべ。くれっていうわげでなし。私にまかしといて、大学教授なんてゆえば、けえってうるせえから」「しめた。たのもしい助っ人が現われた。今日もついてる」

 女川町から鳴浜までは海岸沿いの道。地図で見れば大したこともなさそうだったが、さすがリァス式海岸。走ってみると、おそろしく長い。すぐ目のまえに行く手の道路が見えているのに、これを背にして迂回するから、タクシーのメーターは上がり放題だが、憧れの鳴浜に行けるとたらば、懐勘定は抜きである。海岸線のあちこちに牡蛎の貝殻が山と積まれている。「このへんは牡蛎の養殖が盛んだが、最近は過密で育ちも悪く、一年のところが二年も三年もかかるようになりました。貝殻も何か使いみちがないものですかね。このままじゃ海がよごれるぱかりで」。

 途中で夏浜(なづはま)と小屋取浜に立ち寄り、いずれもミュージカルなことを確かめた。しかし現地は海水浴場になって浜がよごれ、まったく音が出ないか、辛うじて音がでるにすぎたかった。


6・2 ゲート突破

 さていよいよ本日の最難関、鳴浜入口の東北電カゲートにきた。見るからにおっかない顔の守衛さんが睨みをきかせている。

「鳴浜みせてね」

と運転手はハソドルを握ったまま顔を出していう。

「だめだめ、ここは立入禁止だ」

「え、浜を見るだけだべ、見たからって浜が減るわけでもねエ。子供の頃から遊んだ浜だ。なつかしくて、ひと目見にきたんだ」

理屈につまって一瞬、おっかないおじさんがうつむいた。その瞬間、猛スピードでゲート突破。

「うつむいたのは、うなづいたのですよ。あれは地元の人たんで」「ヤッター」

 小高い山を登ったところで急に視野がひらけ、眼下に深い緑と青い海に包まれた鳴浜がひっそりと姿を現わした。原発はまだ工事が始まっておらず、用水タソクだけが山の上に異様な姿をさらしていた。実は用水タソクと知ったのはあとのことで、運転手は「あれが原子炉ですよ。実験中だそうで、盗まれたらたいへんだから、ゲートでこわい顔して番してるんですよ」といった。 私は秘密基地に潜入した気持でスリル満点、こんな旅も楽しいなあと思った。鳴浜は長さ450メートル、幅100メートル、純白の白砂に覆われていた。皮肉なことだがゲートのおかげで海水浴場にもならず、まったく自然のまま、1969年以来、保存されてきた。いまどきの日本で、自然の浜を見ることはほとんど不可能に-近い。驚くほど豊かな白砂のボリューム感に圧倒されそうである。そして白砂には無数の貝殻が色とりどりの模様を散りばめていた。浜の端に古い漁船が打ち上げられて朽ちているほかは現代文明の物的証拠はなく、ウミネコの群れが浜の番をしていたミユージカル・サンドは、指先でちょっとはねても音が出る感度のよさ。まさにAクラスである。ほんとうの大自然とはこれほどにすばらしいものかと、ただただ感嘆するばかりであった。もし東北電力に買収されていなかったら、私はこの最高に感度のいい砂にめぐり会うことはなかったにちがいたい。「原発もたまにはいいことをするものだ」。帰りにはゲートで「ありがとう」とおっかないおじさんに,声をかけたら、「ごくろうさん」と思いがけたい声が返ってきた。たてまえとほんねなのだ。

6・3 ソロパン勘定

 ところが、3年後の1978年8月末のこと、たまたま見ていたNHKテレビで女川原子力発電所建設にともなう、漁業権問題が解決したことを報じ、原発完成予想図が出た。私はそれを見て唖然とした。美しい緑に囲まれた白亜の近代的ビル群は、一見大自然に調和してみえるが、海側には巨大た防波堤やコンクリートの岸壁が築かれ、鳴浜は完全に原発の下敷きになりそうなのである。さっそく詳細について女川町長あてに問い合わせたところ、企画課長稲葉稔氏から9月9日付の返事が来た。

 「前略お手紙、資料共拝見致しました。ご研究のご苦労について、ご推察申し上げます。さてご照会ありましたことについて、お知らせ致します。……(経緯の部分省略)。女川原発建設は、来年早々にも着工される段階にあります。従って同封図面にてお解りのように、女川町塚浜字鳴浜については、原発敷地としての護岸および取水口護岸工事として全面埋立てられます」

 「全面埋め立て!」なんということだ。あの美しい浜を埋め立てなければたらない必然性が、私にはどうしても理解できなかった。そこで方々に問い合わせ、東北電力の許可も得て、10月12日、女川町の同原発建設準備本部を訪れ、平沢哲夫本部長、藤原忠夫副本部長らに面会し、次のような質疑応答をした。

私「なぜ現在の美しい海浜をそのままの形でとり入れないのですか。主要設海辺からはるか奥の十分高い位置にあり、浜辺の位置は、図面から見ると、芝生を植えただげの空地のようですが、この空地でキャッチボールでもするのですか。」

準備本部「建設資材を海上から運搬する必要があり、そのための3000トン級貨物船を横づけするドックを建設し、防波堤も必要になります。また冷却水取水口の安全のためにも、浜をコンクリートで固めなければなりません」

私「原子炉を津波から守る目的もあるのですか。」

「原子炉本体は海面から十分高い位置にあり、津波の心配とは関係ありません」

1鳴浜の砂を全部、私に売ってくれませんか。

準備本部「海岸保護に関する法律により、砂は売れません」

要するに、資材運搬を陸上輸送に変えれば浜辺は完全に残せる。取水口はいくらも手段がある。ホンネは資材運搬のソロバソ勘定なのだ。


6・4 環境との調和とは

 女川原発建設準傭本部でもらった解説パンフレットには、次のように書かれていた。

 「当社は原子力発電所をつくるにあたり、もっとも大事なことは、安全の確保に万全を期すとともに、環境との調和をはかることであると考えています」浜を埋め立てても、芝生を植えて緑化すれば環境との調和だと考えているらしい。もうひとつの美しいパンフレット『遠島(としま)の海は語る』(東北電力発行、ずいぶん金がかかっている)には、次の名文がある。

 「古くからの生活の中で語り継がれた伝説や風習が絶えることなく、私達によびかけている。それは虹の未来への架橋でもあり、心の故郷ともなって、永遠に生きてゆくであろう」

 ずいぶん古い時代の文章だが、下手に引用すると、いかにも空々しくて罪ぶかい。この語り継がれた風習のなかに、次のことがあるのを、どう考えるのだろうか。
「浜は神の送迎の場として、古来、日本人はこれを神聖視し、とくに東北太平洋岸では、浜降りという行事が、宮城から福島にかげて存在した」(民俗学者・佐野賢治氏)

6・5. 鳴浜の消滅

 現地本部を訪れたあと、副本部長らの案内で鳴浜の見納めにいった。浜は先にたずねた三年前と少しも変わらず静まりかえり、まもなく大工事が始まって、この浜が消減するなんて、とても考えられず、浜辺には今日もウミネコが群がり、白砂は相変らず最高の感度で鳴いた。建設のためのジェットボーリングのデータによると、白砂は沖合数100メートルの地点に続き、その厚みは深いところで10メートルに達する。われわれが見るのは限られた浜辺だけだが、この白砂の供給源は想像を絶する量である。このデータから概算してみても砂の総量が200万トンを超えることは確かである。ただし沖合にゆくにつれ砂は細かくなるから、浜辺には粒選りの鳴き砂が陳列されているわけだ。ところで、この莫大な砂はどこから来たのであろうか。後背地には砂らしいものがない。その謎を解く鍵が、鳴浜の東に続く藤丸浜にあった。
 ここには人頭大からこぶし大ぐらいの、著しく円磨された砂岩けつと頁岩がごろごろしており、打ち寄せる波が石同士を互いに、しかもソフトにぶっける。頁岩はボールミル(粉砕機)のボールの作用をしているのである。そして表面が風化した砂岩から、気長に石英粒をとり出してゆく。それは、大自然にしかできない気が遠くたるような作業である。これを潮流が隣の鳴浜へ運ぶ。私はこの藤丸浜の砂岩と頁岩とを、サンプルとして東北電力から送っていただいて、石英粒をとり出そうと試みたが、とうてい不可能な技であることがわかった。この藤丸浜には一軒の民家があったが、立ち退かされ、ここに原子炉冷却水排水口が設けられる。鳴き砂生成の秘密を秘めたまま、鳴浜とともに消減してゆく。


鳴き砂精製の秘密を実演展示していた藤丸浜

6・6.
 環境庁長官殿

 この鳴浜消減が現実のものになりつつある。「どうにかならんのですか」と東北電力の担当者を前にしてわめいてみたが、もちろんどうしようもない。私はこのことに気づくのが遅かったことを悔んだ。「すべてがいまとなっては……」。「まさかあの美しい浜辺がなくなるなんて」という感傷的考え方が甘かったのだ。生産第一主義、経済大国日本の原理は圧倒的た支配力をもち、すべての人々の生活を呑みつくしてゆく。そのことは「鳴浜が消減する」とさわいでみても、耳をかしてくれる人がほとんどいない現実が示していた。ある人は「そうはいっても、エネルギー危機が優先しますよね」といった。また某大新聞の記者は「よくわかりました。でも砂が鳴くという話では訴える力がありませんね(新聞ダネにはならぬ)」といった。その頃『自然』(中央公論社刊、11月号)、NHKラジオ放送10月5日「科学千一夜」、週刊誌などでわずかに私の発言の機会があったが、これもわめきっ放しで終わった。それでも黙っていることに耐えられず、無駄なことは十分承知の上で環境庁長官宛に書簡を出した。

「環境庁長宮殿

 女川原子力発電所建設に伴う鳴き砂浜の消減について

 前略 さいきん女川原発建設が具体化していますが、図面によりますと、建設にともなう護岸工事のため消失するようです。消減する「鳴浜」は日本で有数の鳴き砂の浜です。鳴き砂の学術的意義については別添資料(略)をごらん下さい。牡鹿半島一帯にはいくつかの鳴き砂浜が存在しましたが、今ではその殆どが開発のため消減し、今回失われようとしている鳴浜は、唯一つ今日まで自然のまま保存されてきた浜辺でした。そこで次の点につき環境庁の見解をおたずね致します。

1、女川原発建設にともたう鳴浜の消失について環境庁として検討されたことがありますか。

2、鳴浜は大自然がつくり出した天然の芸術です。一方、原発は国のエネルギー政策上、一時期に必要なことはわかりますが、このかけがえのない天然の芸術を完全に破壊せずに建設することは十分可能です。
環境庁として環境に調和した開発の観点から建設工事方法に、つき調査、再検討するよう勧告する意志はありませんか。今までに鳴浜の保護について問題にした機関はないと聞いております。何卒、上記ご検討、調査の上、適切な処置をしていただきますよう希望します。

一研究者がこのような大問題にとり組むことの難しさは十分承知していますが、鳴浜の貴重さを知るものとして、このことを訴えずにいるわけには参りません。原発は日本文明のごく限られた一時期に必要なものにすぎず、短期問で不要にたることは明らかです。それにたいして自然は永遠です。環境庁がこの問題にどう対応されたかは、日本の自然史上に確実に残りますので、慎重に対処されますことを心から願っております。

1978年9月16日

           同志杜大学教授      三輪茂雄 印」
 同じ内容で文化庁自然物保護課にも庁内の知人を通じ担当官に墾言したが、予想通りまったく反応はなかった。

「未来の考古学者は、20世紀末のみにくい遺跡、女川原発跡の下層から、昭和53年末まで完全に保存された鳴き砂の痕跡とともに、もし運がよければソロバンの残骸を見出すだろう」

               (『アサヒグラフ』一九七八年一一月一七日号)

 私にできたことといえば、こんな皮肉を書き残すにとどまった。それはそれは空しい結末だった。
鴫浜の調査データ東北電力が原発建設にあたって地質調査を実施したデータを建設準備本都からいただいた。これは非常に貴重たデータなのでここに記録しておくことにする。図6.14は鳴浜の平面図である。○印で示したのはボーリソグ地点を示している。それぞれの位置の砂の存在状況を図6.15に示してある。岩盤の上に大量の砂が堆積しているのがわかる。なお粒度測定データは本書巻末に示した。前述の鳴き砂生成の秘密を考えさせた藤丸浜砂の礫岩と頁岩の試料は、1005年現在、京都府網野町の鳴き砂文化館)で大切に保管されている。

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