鳴き砂幻想(著書複製)(絶版でしたのでこれからボツボツ文章を起こしています。無料贈呈です)
第1章 序-砂が鳴く
1.1 序にかえて
人若し天期かなるの日
歩して此浜に到れば
脚下士斤あり。
歩に従って発す。
其の声奇異にして
殆ど名状すべからず
地学雑誌(明治27年)
「砂が鳴く」という話をはじめて聞いた人は必ず「えっ? 砂が鳴く? どんなふうに? 」と問い返す。そこで私はデモソストレーショソをやる。大きた布袋に砂を入れ、アコーディォソのように押すと、ブッブッブブブと不思議た音が出る。大講堂でマイクのスイッチを切り、生の音を聞いていただく。聴衆は一様に、「おーっ」と驚きの声をあげる。
大学では講義が終わるや否や、私のまわりは学生の群れ。「どれどれ、私にもやらせて……」と大騒ぎ。「なるほど、信じられない。
それにいかにも不思議た音だ」と、いっせいにため息をつく。目の前で音を聞いても信じられないのだから、実演してお見せできない本書の読者には、とても信じられないにちがいない。
だが、本書を読み進んでいただくにつれて、少しずつではあるが、信じてもらえるようになるはずだ。
「その砂の上を雀が歩くと、砂が鳴くんですよ」、
「砂漠にはその砂が大きな山をたしていて、それが崩れ落ちるときには、大地をゆるがすコiラスで、人々を恐怖に陥れるのです」
というような、意外な話も、無理なく受け入れていただけると思う。
その全貌が少しずっ明らかになってゆくにっれて、どうしてこんな話がいままで語られたかったのだろうと、不思議に思われる方もあると思う。わが国はいうまでもたく、外国でも、この話についてのまとまった書物はなかった。古代から今日にいたるまで、いろんな人々がこの現象に.興味をもった一流の科学者たちも、その謎に取り組んだ。その証拠に19九世紀初頭から今日まで、100件近い報告がある。だが大部分は地質学者や物理学者たちのものであり、それぞれの学問の中心的課題からはずれていた。学術雑誌などの片隅に書いてあり、それも非常に難解た表現であった。
私が文献収集にとりかかったのは、いま(1982年)から十数年まえだが、やっと最近になって、古今東西の情報が集約できる段階にまできた。
そういう状況であるから、「鳴き砂」とか、「ミュージヵル・サソド」とか「ブーミソグ・サソド」と聞いても、初耳の方が大部分たのは当然のことである。
1.2. 極限の世界
ピソからキリまでという表現がある。ポルトガル語で最上等から最下等のものまでを意味する。白砂はピソ、それに対して、ふつう道端や運動場で見かける黒ずんだ砂はキリだが、おそらく読者が脳裏に描かれる白砂は、本書でいう白砂とは段ちがいだ。たとえば京都の名園の目にしみるようた白砂も、本書ではピソとキリの中ほどぐらいの地位しか与えられない。
岩石が分解し、河川や波や、風で運ばれる間に、物理的および化学的作用を受けて、不安定な鉱物は次第に姿を消してゆく。そして最後に、もっとも安定な石英砂だけが残る。各種の鉱物との激しいたたかいで切硅琢磨され、自らも無駄な部分をすべて切り落として生き残った無色透明の石英粒こそ、最後の勝利者であり、白砂の極致である。
極限の世界まで到達した白砂に、ある種のきわめて恵まれた環境が与えられると、その白砂は勝利のメロディを奏ではじめる。恵まれた環境とは、きれいな海の、荒れ狂う怒濤が打ち寄せる海岸であったり、荒涼たる砂漢のまん中だったりする。それは俗界を脱した聖なる白砂が集う場所であるが、奇怪なことに、旧約聖書でモーゼが神から十誠を授かった場所も、『西遊記』で三蔵法師が目指した大雷音寺も、そういう白砂の山であったらしい。
「そんた話も初耳だ。君は宗教学に新説を唱える気か」とお叱りを受けるにちがいないが、知られざる事実である。これも、順を追って本書をお読みいただければ納得されるはずだ。そういう意味から、本書は私の知的冒険遍歴記である。
1.3 白砂青松
自砂の歌に魅せられた人々は、たくさんあった。進化論のダーウィソや、アメリカの文学者H.D.ソロー、などなど。だが、西洋ではやっと前世紀に入ってからのことだった。ところが東洋ではすでに中国で7世紀頃から記録が現われるし、わが国でも中世の記録が残っている。そして現在でも、琴引浜、琴ケ浜というような名の浜辺がある。古人は白砂の歌を琴の音に擬し、白砂青松を松籟(松風の音)と白砂の奏でる琴と、打ち寄せる波の交響曲としてとらえていた。後で述べるように、わが国には外国に類をみない、優れた白砂の浜辺が存在したのである。緑したたる松林を背景に、紺碧の海と白砂が豊かに広がる。打ち寄せる真っ白い波頭は浜辺に砕け、白砂の上にはい上がって、美しい曲線を描く。波と波とのあいまの不思議た静寂は琴の合奏。このダイナミックな美の世界は日本文化の根底を形成しているのだと思う。
私はそれを求めて、白砂と聞けばどこへでも、顕徴鏡をかっいで出かけてみた。だが、そこで見たものは、白砂を無残にも踏みにじり、開発の名のもとに。、浜全体を平気で消してゆく人たちの群れだった。人間の目の精度はマクロの世界に限られている。1ミリから10分の1ミリの世界に展開する準ミクロの砂は無視される。「あの人たちの目に顕微鏡をとりつけたい、そうすればまったく新しい世界が展開するのに」とも思った。いまの日本で白砂青松は幻想の世界にしか存在しない。
世界旅行もたやすくなった。「白砂のメロディを訪ねるツア=」があってもよさそうだし、「20世紀末に残された大自然の謎」や「聖なる白砂」を求めて世界を旅する若者たちがいてもよさそうだ。歌う山や、ミュージカル・サソドの砂浜は、世界中にまだまだ残っているはずだ。本書が従来の情報不足を解消するお役に立てば幸いである。もうひとつ、自然を見て歩くにとどまらず、聖なる白砂をつくり出すのもよい。人工、ミュージカル・サソドだ。極限に挑む現代技術は、天然に存在するよりも、はるかに高感度の白砂をつくり、妙なる音の世界を創出するだろう。
なお本書を読むうえで混乱を避けるために、注釈を要する事柄がある。妙音を発する白砂は、従来、いろいろた呼び名があり、それを列記すると次の通りである。
1. ミュージカル・サソド(Musical Sand)音楽砂
2. ソノラス・サソド(Sonorous Sand)音の出る砂
3, シンギング・サソド(Singing Sand)歌い砂
4. スキーキ ング・サソド(Squeaking Sand)軋り砂
5. 鳴き砂または鳴り砂、
とくに内陸性の砂については、
1. ブ=ミング・サソド(Booming Sand)稔る砂
2. バーキング・サンド(Barking Sand)吠える砂 (とくにカウアイ島産)
本書では、浜砂について、ミュージカル・サソドとスキーキソグ・サソドを区別して用いた。発生する音の周波数が前者は比較的低く、後者は高い。わが国では、従来、「鳴り砂」と呼ぶことが多かったが、物理的現象としては、「鳴き」の現象だから私は「鳴き砂」と呼ぶことにしている。また砂漢の砂でも、ソ連では「歌い砂」(パユーシチイ ペースカ)と呼ぶ例もある。もうひとつ、念のため書き添えておくことにしよう。必ず質間を受けるのは「星砂しのことである。夢をさそうその形から、「幸福を呼ぶ砂」たどのコマーシャルで、ことに若い女性の人気を集めた。沖縄海洋博前後にブームがあったが、これは沖縄県の竹富島や石垣島、西表島などから採取された。正体は放散虫類の亡骸である。25000年前の化石と書いた本もあるが、現存する生物だ。業者の不法採取により、すっかり空になった浜もあるという。とうてい幸せを呼ぶしろものとは思えない。もちろん本書のミュージカル・サソドとはまったく関係がない。
1.4 十八鳴浜の幻想
音楽家、神津善行氏は、「この砂の音を聞いたとき、小生は古代の音を聴い*た気がした。そして、この音をどのように理解すべきか迷った」と書いている。氏とこの砂の音との出逢いはドラマチックだった。「もしもし、こちら東北放送ですが、神津さんご在宅でしょうか」。「はい、ただいま」(中村メィコさんの声)。「おまたせしました、神津ですが」。「あ、突然で恐縮ですが、ひとつ砂のメロディを作曲していただきたいと思いまして。くわしくは現地でお話ししますが、鳴き砂、つまり、すばらしい楽音が出るめずらしい砂が、宮域県気仙沼市の大島にございます。この砂で、メロディを作曲していただきたいのです」。
「え、砂が鳴く?なんだか狐につままれたようた話ですが」。「ええ、多分そうだと思いますが、とにかくお時間をいただければと」。
作曲家の神津善行さんは、1981年6月のある日、東北放送ラジオ制作部の木村成忠さんらとともに、気仙沼市の大島へ渡った。「砂が鳴く?そんなばかな。でも、ほんとうに砂が鳴くんだろうか?東北放送に私は担がれているんではなかろうか?」。神津さんは半信半疑だが、木村さんはあまり語らない。「とにかく浜辺へいってみてください」と淡々としている。彼は典型的な東北人なのだ。ちょっとした山道を、のぼったり下ったりしたがら、やっと浜辺が見えるところにたどりついた。「美しい浜だ。だがあそこに見えるのは、どこにでもある砂浜じゃないか。あの砂が鳴く?その音で作曲せよだと?なんということだ。長い作曲生活のなかでも、こんたことは,はじめてだ」。人っ気のない山道をかきわけて案内する木村さんが、な んだか狐に見えてくる。「マイクなどもっているけど、もしかすると、あれは茸かも知れんっぞ」。神津さんは眉にっばをつけてみる。
さて、いよいよ着いた。白い砂だ。木村さんが先に立って歩く。「おおっ、これはなんだ。足もとで、ククッ、ククッと音がするではないか」。ひと足ごとにクッ、クッ、クツ、「これはすごい」。神津さん、今度は夢中になって砂の上を歩きまわったり、木片でつついてみたり、掌でこすってみたり。いつか、作曲家・神津善行にもどっていた。「ワソ、ツウ、ワソ、ツウ、スリー。クッ、クックク、クク、クウ」。浜辺に打ち寄せる波の音に合わせて砂が鳴く。こうして、神津善行作曲「十八鳴浜の幻想」が誕生し、宮域県民会館で発表、そして束北放送は1981年度民問放送グラソプリを受賞した。ただ残念たことに、氏は現地の砂をそのまま使った。本書でくわしく述べるように、現在の浜砂は著しい環境汚染の影響を受けているから、発音特性がわるい。だからシンセサイザーの助けを借りる必要があった。発音方法を工夫し、高感度サソドを使えば、純粋なサソド、ミュージックも夢ではない。
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