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第5章 蝮蛇(まむし)が守った鳴き砂

 

          -- 宮城県・気仙沼 --

  やっと人が通れる谷あいの道を下ること数分。背文より商い葦原をかきわけ、沼池のような遭なき逆を出ると、

  急に浜辺がひらけた。この沼が蝮蛇の生棲地と知ったのはずっとあとのこと。


 

5.1  脚下声あり


 明治27年の『地學雑誌』(文献5-1)によると、宮域県の気仙沼には、十八鳴浜という。めずらしい名の浜辺があり、

 「人若し天朗かなるの日、

    歩して此浜に到れば脚下声あり。

      歩に従って発す。

   或は車輪の軋るが如く、

     或は裙羅(薄絹)の相磨するが如く、

 其声奇異にして、殆ど名状すべからず」

とある。京都府丹後半島の琴引浜に魅せられた私は、一日もはやく十八鳴浜を訪ねてみたかったが、なにしろかなりの僻地である。なにかのついでにとはいかない。

 だが一度ゆくと、二度、三度と機会ができた。はじめて訪ねたのは1979年夏だった。東北本線一ノ関駅下車、ここで大船渡線にのりかえ、気仙沼につく。十八鳴浜は気仙沼湾に浮かぶ大島にある。フェリーは大島・浦の浜につくが、土地不案内なので、ここからどうやって十八鳴浜へゆくべきかわからない。この日は小田浜海水浴場に近い民宿に落ちつくことにした。観光パンフレットで期待していた大島の宿の生魚料理には、針が動くウニが出てきた。少々気味悪かったが、その味のすばらしさは、忘れ得ぬ思い出になった。しかし煎餅蒲団の上で潮騒を子守唄に結んだ夢の静寂は、暴走族の轟音にたびたび破られた。二十数年前、私と同じように、十八鳴浜の鳴き砂を訪ねた橋本万平氏(文献2)はこんなふうに書いている。「この島に五千の人々が住んでいる。大部分は漁民で、島でとれる食糧が僅か一年分の一月を満たすに過ぎぬと、道を教えてくれたお神さんから聞いて、たとえ少しでも、島の食物を食荒すのは遠慮すべきだと、予定していた今宵の泊りをやめる」 世の中の移り変りである。

 翌日は快晴、浜辺探訪には絶好の日和。十八鳴浜へ下る島の峠、大初平まで宿の車で送ってもらった。

 「十八鳴浜は波が荒いので遊泳禁止になっています。ここから先は車が通りませんから、この山道を下ってください」とのこと。やっと人が通れる谷あいの道を下ること数分。背丈より高い葦原をかきわけ、沼地のような道なき道を出ると、急に浜辺がひらける。この沼は腹蛇の生棲地として恐れられ、毎年、何人かが被害に遭っている場所だと知ったのはずっとあとのこと。知らぬが仏である。

 浜辺の入り口には「気仙沼市指定天然記念物、十八鳴浜」の立札があった。ここから、ごつごつした岩場づたいに海辺を少し進むと、「あった、十八鳴浜だ」。岩陰から、これぞまさに.白砂青松の名に恥じない美しい浜がみえた。私は人跡未踏の白砂の浜を発見した錯覚さえ覚えて、思わず駆け出していた。こながしようしやの大自然が長の年月をかけて創り出した傑作、俗世ばたれした美。「瀦酒な姿」とはこのことだと思った。足跡ひとつたい砂浜に足を踏み入れることが、何か神域を侵すことのようにも思え、おそるおそる歩いてみる。ク、ク、ク、-…・確実に一歩一歩が鳴く。まさに脚下声あり。歩に従って発する。その声、奇異にして名状すべからずだ。照りっける日ざしがあまりにまぶしいので、しばらく岩陰に1休んだ。抜けるように青い空を溶かしこんだ海。海の底まで、こわいほど透き通り、打ちよせる波頭は、白砂とその白さを競っていた。時問のたつのも忘れて、私は人っ子ひとりいたい浜辺にたたずんでいた。

 この美しい浜辺は、悲しみに沈んだ心を癒し、疲れた魂をはげましてくれるにちがいない。どんなに科学が進んでも、人間には人間の知恵ではなおせない部分が残る。白砂を極限まで洗い浄めるこの浜辺は、人の心の垢も洗う貴重な役割を果たしてくれているのだ。開発という名の戦禍で荒れ果てた日本に、まだこの浜が残っていたのは、うれしいことである。このすばらしい日本の宝を、はやくから天然記念物に指定して、観光開発という名の自然破壊から守りぬいてきた気仙沼市民の識見の高さと、努力に敬意を表したがら、私は振り返り、振り返り、浜辺を辞した。なお、この浜の地学的研究については小貫、渋谷両先生の報告(文献3,4)がある。
十八鳴浜再訪

 翌、1980年の夏は雨の日が多かったが、お盆が近づいて、晴れの日がつづくようにたると、昨年訪ねた十八鳴浜の感動がよみがえり、再訪したい衝動に駆られていた。ところが思いがけない出来事で、8月9日、上野から盆の帰省客で超満員のL特急に乗ることになった。宮城県在住の知人が危篤との知らせをうけたのである。通路に座ってじっと我慢の旅だったが、仙台に到着して先方へ電話してみると、「快方に向かっている。わざわざ訪ねるには及ばないから、あなたは犬好きな十八鳴浜へ行ってください」と本人からの伝言だという。後から考えて見ると、知人は再訪を躊躇(ちゅうちょ)している私を促してくれたのだった。ほんとうに危篤だったのだが、奇跡的に回復し、私は十八鳴浜を訪ねることになった。

 ところがそこには次に述べるように思いもかけぬ事態が待ちうけていた。もし、知人が私を促してくれなかったら、私はこの年に再訪することはたかったにちがいないし、したがって十八鳴浜の運命は大きく変わっていたかも知れない。知人の危篤は十八鳴浜の危篤だったのである。さて、気仙沼-大島フェリーに乗ると、昨年、はじめて十八鳴浜を訪ねたときの記憶がつぎつぎに蘇ってきた。

 船客が投げるエピ煎を宙返りして器用に受けとめるウミネコのかわいい顔つきに見とれているうちに、船はもう大島・浦の浜に接岸していた。浦の浜から徒歩で亀山リフトの前を通り抜け、坂道を上る。そして昨年、車で来た峠を少し下ると、大初平の十八鳴浜入口だ。ところがここで「おや?」と不吉な予感に襲われた。昨年は蒲の穂が立ち並ぶ草むらの脇で右折する狭い一本道が、うす暗い谷間へ向かって下りていたのに、目の前には真新しい道しるべが立ち、きちんと整備された道路が続いている。「この整備された道は、入口だけでありますように」と、祈る気持で下りてゆくが、どうも浜まで続いている気配である。昨年たどった谷川沿いの小径は道路工事の土砂で荒れ、さまざまた野草が可憐た花をつけていた土手も、完全に削りとられていた。松は無残になぎ倒されて横たわり、それに代って鉄柵と、階段が設けられていた。

 「この分では浜に人がウヨウヨかも」と、こわごわ鉄柵から身をのり出して浜辺を見る。悪い予感は的中した。階段の途中には十八鳴浜の白砂があちこちに散らばり、浜砂を大きなビニール袋に入れて持ち帰ろうとして、途中で捨てた形跡もあった。この砂は浜辺で絶えず洗われているからこそ、ミュージカルだ。家に持ち帰れば、まもなく鳴きやんで、ただの平凡た砂になってしまう。めずらしい砂と聞いて、欲張って何キロもマイカーに積み込もうとしたおろか者がいたにちがいない。古人は海の砂をいわれもなく持ち去れば、必ず崇りありとおそれた。「鳴き」は「泣き」に通じ、けっして縁起のよいものではない。浜辺に下りてみると、さらに亜然とする光景が展開していた。天然記念物の砂の上で焚き火をし、大きな鍋で肉を炊いていた。それもなんと、地元、某大学の学生たちだった。
 こともあろうに、この浜の学術的意義を書いた気仙沼市教育委員会の立札のすぐそばである。

5.3. ひと夏で失われた歌

 昨年、訪ねたときに休んだ岩のそばに、私は呆然と立ちつくした。遊泳禁止のはずの渚には海水浴客が群がり、渚の砂は子どもたちの落書きで撹乱されていた。足跡ひとつない砂浜を、神域を侵すおそれをいだきつつ、そっと歩いたあたりには、清涼飲料の空缶、空びん、洗剤容器、車のクリーナー、ライターのガスボンベ、グリースの空缶など、あたりかまわず散乱しているさまに、目をおおわずにはいられない。古代人の住居遺跡を思わせる木片も散乱していた。これは、あとでわかったことだが、この浜で縄文時代の生活を再現する催しを、考古学研究グループがやった遺跡だという。跡始末もできない現代の考古学徒を、縄文人たちはさぞ嘆いているにちがいない。さきほど鉄柵の階段ですれちがった家族づれの子どもが「砂が鳴くっていうけど、ちっとも鳴かないじゃない」と話していた。はたして砂はどうなったのだろうか。その通り、砂はほとんど鳴かなくなっていた。山手ちかくの砂がやっと音を出したが、その音はかすれて低かった。遊歩道の整備という、小さな小さた開発が、これほどまでに自然を破壊するとは。それも雨がちで人出が少なかったこのひと夏だけでこうである。たったひと夏で変わりはてた十八鳴浜。私は再訪したことを限りなく悔んだ。昨年のあの感動との違いよう。

 シヨックで帰りの足どりは重かった。遊歩道を避けて、昨年通った葦の沼沢地を通ることにした。この夏は誰も通らなかったので、蜘蛛の巣がいっばい。足もとは葦が生い茂って、かきわけるのがせいいっばいだった(もちろんこのときも、蝮蛇のことは知らぬが仏である)。


5.4. そらぞらしい美声

大初平を下ったところに「くぐなり食堂」が開店していた。その名にひかれ入ってみた。べっとりのびたざる蕎麦に、しょっぱいタレをっけて大島の味をかみしめながら、おみやげの暖簾を見ると、こんな文字が目に入った。

  海はいのちのみなもと

    波はいのちのかがやき

  大島よ永遠に緑の真珠であれ

               ---水上不二作

 とぼとぼと亀山リフト入り口まで来て、気晴しにリフトに乗ってみることにした。ゆるゆる動くリフトの観光客に向けて、観光宣伝嬢の美しい声が流れていた。黒潮が打ちょせる三陸の海辺、そこに紺碧の海と白砂青松の浜辺がある大島の自然をたたえ、観光のポイソトとして亀山と小田の浜海水浴場と、竜舞崎と、それにクックッと鳴く十八鳴浜を紹介し、21軒の旅館と60軒の民宿には、新鮮た海の幸があなたを待っていますと述べたあと、次のように結んでいた。「私たちは、このかけがえのない大島の自然を、日本の宝として、末ながく保護してゆきたいと、つとめています」亀山往復の間に、私はこの空々しい美声を八回も繰り返して聞かたければならなかった。
 翌朝、仙台の駅で買った『朝日新聞』にはこんな記事があった。「消えていく自然海岸、大都市圏5%以下離島を除く本土49%、環境庁調査」

 

5.5. 気仙沼市長殿

 研究室へ帰って、私は昨年と今年の十八鳴浜の砂を比べてみた。約100グラムの砂を小さな布袋に入れ、約10セソチの高さから、堅いコンクリート製実験台の上へ落としてみる。昨年の砂はクーと音を発したのに、今年のはまったく出ない。明らかにだめになったのである。私はさっそく、気仙沼市長宛に手紙を書いた。
「十八鳴浜の鳴き砂保護の件

 前略公務ご多忙のことと存じ上げます。突然お手紙差上げまして失礼ですが、以前より大島の十八鳴浜に深い関心を寄せております。専攻する学問の関係上、鳴き砂につき全国的調査を行ない、去る8月10日には、御地を訪問し、十八鳴浜へいって参りました。ところが本年になってからでしょうか、大初平から十八鳴浜にいたる道路が整備され、浜へたやすくゆけるようになっていました。このことは観光客の便宜からは結構なことですが、浜へ出て大変びっくりしました。浜辺が著しく荒されているのです。 大学生の一団が市指定天然記念物の立札の前で、炊事をやり肉をたいていました。また遊泳禁止の筈なのに、若者や家族づれも水泳していました。さらに浜には、おびただしいゴミが散乱していました。問題は鳴き砂ですが、現地での鳴き具合は明らかにわるくなっています。研究室へもちかえったサンプルにつき、昨年と今年の鳴き砂の発音試験を同一条件で比較しましたところ、明瞭な差が出ました。今夏は気侯不順で、浜に入った人も少なめと思われますが、それですら、浜の荒れようは著しく、鳴き砂がほぼ死減にちかい打撃をうけています。
 このままに放置すれば十八鳴浜が完全に駄目になることは火を見るよりも明らかと思われます。市としても当然このことを既に憂慮しておられることとは存じ上げますが、十八鳴浜の実清を見て、一研究者として座視してはおれない気持がし、失礼とは存じますが、左記の点につき、市としてのお考えを、お尋ねいたす次第です。

1、十八鳴浜への道路が整備されたことにっいて、市長は市指定天然記念物保護の観点から、どうお考えでしょうか。

2、十八鳴浜が今夏に荒れはてた実情を調査されましたか。

3、「気仙沼市指定天然記念物、十八鳴浜」の立札が、人目につかない位置になりました。早急にこれを入口に移設するお考えがありますでしょうか。

4、このままでは十八鳴浜は死減しますが、それに対する対策はなにかお考えでしょうか。

5、十八鳴浜は遊泳禁止なのでしょうか。
6、今年整備された道路を閉鎖するお考えはございませんか。

7、現在、浜には何の注意ないし警告板もありませんが、早急にそれを建てる計画はございませんか。

 以上について、ご多忙中おそれ入りますが、お返事をいただけますれば幸いです。十八鳴浜の現状は、石川啄木でしたら、多分次のように詠むのではないかと思います。

 十八鳴の浜の磯辺の白砂に

    われ泣きぬれてゴミとたわむる

 是非市長も現状をご視察下さって、早急た対策をおたて下さいますよう、重ねがさねお願い申上げます。

1980年8月17日        同志杜大学教授三輪茂雄 印

5.6 市の回答書   十八鳴浜の鳴き砂のことについて

 「謹啓

 初秋の侯ますます御健勝のこととお喜び申し上げます。先日は標題のことについて御高見を賜り恐縮しております。さて「鳴き砂など天然記念物については観光上の見地からも自然との調和の中で、その保護につとめておりますが、特に「鳴き砂」は全国でも十指にもみたず、それだけに意義のあることでありますので、保護と維持管理に一層留意をしてゆく所存でおります。
 なお、おたずねの7項目につきましては、次のとおりお答えいたします。記

1、道路が整備されたことにより、利用が高まっていると思いますが、「鳴き砂」としての生命が損われないよう、その保全につとめます。具体的には

1. 監視員(非常勤)を置く。

2, 清掃管理を地元行政区に委託するよう配意する。

3. 保護保全に必要な注意板などを設置する。

4 天然記念物に対する認識を高めるため、杜会教育などの分野での啓蒙を積極的に行う。

5、随時、巡視などを行うとともに、実態把握にっとめています。

6、さっそく移設いたしました。

 十八鳴浜保全につきましては、前述のとおりですが、さらに。遊泳禁止の表示を行い、また警告板の設置や、そのほか、大島地区民の集会の場を利用しての啓蒙などを行い、天然記念物等に対する認識をみんなで高めて参りたいと考えています。

 1980年9月21日    気仙沼市長菅原雅 印

                 (担当産業都商工観光課)」

5.7. 再度十八鴫浜保護の件

「気仙沼市長殿前略前記に関しご回答賜り有難うございました。十八鳴浜の砂の昨年と今年の特性分析を行ないましたのでご検討下さい。今年採取の砂は明らかに変化し、第一級の鳴き砂の特性が完全に失われています。

 日本中に鳴き砂の浜は他にもありますが、第一級のものは十八鳴浜の他は、京都府・丹後半島の琴引浜と、島根の琴ケ浜の二箇所しかありません。十八鳴浜が第一級の地位から脱落するのは、いかにも残念です。ところで先般の回答の担当が商工観光課であったことは意外でした。市長は単に観光の対象としか考えられていないのでしょうか。教育委員会の自然物保護担当が処理すべきではないでしょうか。警告板設置、清掃など観光地対策発想的たものしか出ず、『整備された道路の閉鎖』は、回答から抜けていました。私は十八鳴浜へ入るのを禁止せよとは申していません。昨年までのように.、まわり道で入るのは結構と思います。近道だけは閉鎖してほしいのです。ご検討の程、お願い申し上げます。

1980年10月8日            三輪茂雄  印」


5.8. 蟻蛇が番人その後、

 宮城県の研究者、小貫義男先生や渋谷修先生、兵藤則雄先生(小牛田農林高校)ほか、市民の方々からも、十八鳴浜保護につき声援のお便りをいただき、また新聞、テレピ、ラジオなども、繰りかえしこの問題を扱うなど、地元の関心の高まりを知り、一応、安堵することができた。

 さらに市長にもお会いする機会があり、非常な熱意をもって取り組む決意を表明された。ところで、そのとき聞いた次の話は私をぞっとさせるに十分であった。
 「十八鳴浜へ通ずる沢は、腹蛇の生棲地で有名でしてね、毎年、何人か被害者が出ています。そのために市では血清を常備しています」

 私は血の気がひく思いであった。そんなこととは露知らず、葦が生い茂る沢を何回も往復していたのである。

 「やられたかったのが不思議ですね。きっと蝮蛇のほうが、あなたをこわがったのかも知れませんね」

と市長は大笑いした。もしそこでやられておれぱ、人家のある大初平まではい上る前に息絶えていたにちがいない。「気仙沼市長に公開質問状は出せませんでしたね」と私がいうと、市長曰くく「あなたは蝮蛇の仲間なんですよ。いままで十八鳴浜を守ってきたのは腹蛇なんですから……。

 ところで、その腹蛇退治のために私は県から予算をもらってきました。ところが地元の連中は、それをとりちがえて道をつくってしまったんですよ。それは筋がちがうから、新設の遊歩道は閉鎖することにしました。有刺鉄線で立入禁止にし、道には植樹しました。十八鳴浜は立派に守って見せます」と市長は胸を張った。

5.9. 九九鳴浜

 「十八鳴しと書いて「くぐなり」と読む。地名学上興味深いが、たいていの地名辞典には出ていない。クックッと砂が鳴るから九九鳴、これを九と九で十八としゃれたのであろうか。もうひとつ面白い情報を寄せてくれた人がある。井上元一氏(塩釜市在住)によると、氏の郷里、山形県西置賜郡飯豊町では、「鶏がクーク、ク、ク、:…・と鳴くことや、小声で口ずさむ唄のことをくぐなき唄というそうである。これと、九九鳴と関連するのかも知れない。
 ところで、十八鳴浜のすぐ近く、唐桑半島には九九鳴浜がある。この地方のミュージカル・サンド研究を精力的に進めた小貫、渋谷両氏によって報告(文献5)されたが、地図(2万5000分の一)には記載されておらず、人里離れた場所にあるため、地元でも知る人は少ない。十八鳴浜再訪(1980年)のとき、ここを訪れてみようと思いたった。その日は唐桑半島の南端、御崎(おさき)に宿をとることにきめ、気仙沼からバスで只越(ただこし)経由、御崎に向かった。海食による奇勝、巨釜半造で知られる唐桑半島縦断の旅は楽しかったが、途中でバスに乗りこんできた宮城交通の名物車掌、佐々木富夫さんのガイドは楽しさを倍加してくれた。だが、さすがの彼も、九九鳴浜は知らないという。少々心細くなってきた。はたして探しあてることができるのだろうか。宿についてから、カウンターのお嬢さん(鈴木千枝子さん)に聞いてみると、「十八鳴なら有名ですが、九九鳴浜は知りません。地元の私も知らないんですから、きっと小さた浜でしょうが、調べてみましょう」。

 しぱらくして、「わかりました。舞根(もうね)の貝浜(けえはま)の近くのようです。私も子供のひ頃、貝拾いにいったところです。干潟伝いにゆくところですから、潮の具合がよくないと行けません。舟をチャーターすれぱいいんですが、あいにくみな仕事に出ていて、むずかしいのです。でも、もう少し調べてみますから」。翌朝、地理にくわしい地元のタクシーを呼んでもらった。かつては鮪漁船に乗っていたという千葉哲雄運転手は、最近はじめたばかりらしいアマチュア無線を楽しみながら、唐桑半島のつけ根に位置する舞根へ、軽快に車をとばした。
 この半島一帯の民家はどれもこれも、お寺か神杜と見まがう豪壮さだ。遠洋漁業に出かけて大邸宅を競っているのだという。だが出かけたら一年ぐらい帰ってこない。今日出港する漁船を盛大に見送る光景にも出会った。舞根から貝浜までは舗装なしの凸凹道。道ばたの崖の岩は、十八鳴浜でも見た砂岩層で、地質学者がいう1億5000万年前、中生代上部ジュラ紀に属する、厚さ500メートルの砂岩、粘板岩互層だ。これこそ十八鳴浜や九九鳴浜の砂のルーツなのである。急な坂を下りきったところに貝浜が開け、前方には大島の亀山が大島瀬戸を隔てて見えた。貝浜とは名の通り、浜辺の岩にびっしり貝がついている。浜辺は護岸工事が行なわれ、それに護られて民家が二軒ある。海辺に近い畠山茂之さん方を訪ねると、息子さんと娘さんが出てきて、「九九鳴浜は、この西の小山を越えた向う側です。案内しましょうか」とのこと。山越えと聞いて一瞬たじろいだが、ここで引き返す手はない。千葉運転手も、「わしもゆくべか」とついてきた。干潮なら干潟づたいにゆけるが、このときは満潮だった。案内の娘さんが先に立って、カモシカのように素速く駆け上がって、のろまな私たちを待っている。山には美しい百合の花があちこちに咲いていた。くさむら九九鳴浜は、まったく人里離れた場所にあって、背より高い草叢の岸辺に囲まれ、清楚た真っ自い白砂を、長さ約200メートル、幅約10メートルにわたって展開していた。
「このすぐ近くに、うちの田んぼがあって、仕事に来ます」と娘さんはいった。砂は十八鳴浜に比べてやや細かくて、白い。十八鳴浜に比べると、内湾なので波も荒くないが、歩けぱ文字通り九九とよく鳴いた。対岸の大島をこの浜から眺めると、大島側の岬、恵比須鼻の陰にかくれて十八鳴浜は見えないが、約3キロ、目と鼻の先に九九と十八がある。地質的にも似ていそうなのに.、二つの浜の砂は微妙にちがっている。とくに九九鳴の砂粒は、顕微鏡でみると、ときおりキラリと光る無色透明の宝石のような砂粒が目立つ。浜の東端は鎧洗(よらい)崎で仕切られている。

 「この岬に、近く灯台が建設されます。自然破壊が心配です」と息子さんは話した。『週刊朝日』(1980年10月10日号)で私の「九九鳴浜」の記事を見たこの町の一読者から、次のようなお便りが届いた。「九九鳴浜は、以前はむしろが400枚も干せるほどの広さでした。いまとなっては、まったく夢のようです。敗戦後間もなく、ある土建会杜が砂を運び出し、いまのようにあわれな浜にたりました。また最近、近くの小学校の校長先
生が、浜にあったはまなすの苗木を30本ほど持ってゆかれました。校庭に植えるとのことでしたが、あの浜で、いつまでも失われることなく、きれいな花をつけさせてやりたいというのが、私たちのほんとうの気持でした。あの浜のすぐそばに、灯台ができることになり、来年3月完成の予定で工事が始まっております。そこに通じる道路ができることにより、人の出入りも多くたって、あの浜の生命は、たちまちにしてだめにたるのかも知れたいと気遣っています」
 翌年、東北放送の木村さんたちと、この浜を再訪したときには、鎧洗崎灯台は完成していた。岬への道はコンクリートだが、階段をつけ、車では入れないので、ひとまず安心と思った。しかし浜のよごれは近年とみにひどくなったという。渋谷修氏は、この浜辺をはじめて発見したときの感激を次のように語っておられる。

「それはもう、浜の上に真っ白た雪が積りつもっているようでした。砂はほんとうに真っ白だったんですよ。それがいまは、ものすごくゴミが打ち寄せています。これは気仙沼湾に流入する大川の汚染がひどく、海流の関係で大島瀬戸を通り、ここに流れつくのでしょう」
付記1982年度、トヨタ財団の〃身近かな環境をみつめよう。研究コソクールに、気仙沼市民有志によりつくられた「十八鳴浜研究会」が参加し、活動をはじめた。会長は荒木英夫図書館長、事務局は気仙沼市役所教育委員会内におかれている。

参考文献

1. 簑山(名不詳)r地學雑誌』第6巻,469(1894)「砂に聲あり」

2 橋本万平『旅』26巻8号76-81;28巻9号28-31(1954)「鳴り砂を求めて」

3 小貫義男,渋谷修,渡辺清r地学研究』(記念特集号,1963)r宮城県の鳴り砂」

4 小貫義男,渋谷修『地学研究』22巻11号-12号338-347(1971)「宮城県大島の浜砂」

5. 渋谷 修『地学研究』20巻11-12号,313-321(1969)r宮城県磨桑半島九九鳴き浜の鳴り砂

 

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