8.1. 玄海の荒海が育んだ鳴き砂
日本列島の海岸線に沿って、2万5000分の一の地図を片手に砂浜を歩く、砂まみれの旅。濡れた砂と、顕微鏡の重みが肩にくいこむ。宿に着けば鞄から衣服から、カメラから、砂粒がパラパラと落ちる。宿で敷布の上にしのび込んだ一粒の砂を、顕微鏡で眺め、どの浜の砂だったかあててみるのも、楽しみのひとつ。浜ごとに砂粒の顔がある。そして美しい浜辺の想い出がよみがえる。能登の泣き浜、丹後半島の琴引浜、島根の琴ケ浜とたどってみると、そのつづきの九州北部にも、玄海の荒波が創り出した白砂の芸術があってもよさそうだ。だが、地図や地名辞典を調べた限りでは、ミュージカル・サンドの存在を暗示する浜の名はみつからない。(1)ただひとつの手がかりは、1929年刊の学術雑誌『地球』の記述だ。「海の中道(うみなかみち)あたりの砂は、歩くとキュウキュウと美音を発する歌い砂である。奈多(なた)の七不思議のなかに「雀があるく、砂が鳴く」とあるのをもってしても、、昔カら地方の人には解って居たらしい。糸島の北崎や、宗像(むなかた)の津屋崎などの海岸にもある」
奈多の七不思議とは耳よりな話だ。そこで福岡県教育委員会の天然物記念係に間い合わせてみたが「初耳です。歌い砂とはいったいたんですか」という頼りない返事が帰ってきた。伝説や民話の本を調べても見つからない。
‡玄界灘を略称して玄海という。玄海国定公園などがそれ。
図8-1 こうして眺めてみると,九州北部にもみつかりそうな気がしてくる。ほぼ等問隔にミュージカル・サンドの砂浜が並ぶからだ。
そもそも、砂の上を雀が歩いたら、はたして音が出るのだろうか?さきに島根の琴ケ浜で、いろいろな鳥たちの足跡を見た。バ一ド.、ミュージカル. コソサートはあり得ることだ。私はこのことを実証するために、まず雀の体重を調べ、次に、同じ重さの物体を、雀が跳躍する程度の高さから落してみた。もちろん高感度のミュージカル・サソド(10章)を使っての実験である。たしかさえずに、ホ、ホ、ホ、という、やさしい砂の曜りを聞くことができた。これをテレおむっビで実演する話もあった。砂を汚しては困るから、文鳥に御櫻裸をはかせて歩かせようかという珍案も出たが、スタジオヘもちこむ荷物の都合で、実現しなかった。
ともあれ、九州にもAクラスのミュージカル・サソドが存在したことは確か(文献2ー3)らしい。しかしくわしく研究した人がなく、記録も乏しい。新帯国太郎氏が「福岡県宗像郡津屋町付近の鯉の浦(恋の浦のまちがい)、池尻、神湊および糟屋郡(4)海の中道の中程、半島の北側の奈多から塩屋岬の間」と書き、橋本万平氏が、それに「糸島郡志摩村幸田浜」を追加しているが、詳細はいっさい不明である。現地へいって調べてみるしかない。一九八○年の七月初旬、砂探訪に出かけた。あいにく大雨洪水注意報が出ている博多駅はどしゃ降りで、交通も乱れており、浜辺に出るのは気違い沙汰だった。しかしここまで来てすごすご引き返すわけにもゆかたいから、国鉄線と西鉄電車を乗り継いで、津屋崎までゆき、タクシーを拾った。横たぐりの豪雨の中を、「恋の浦しへゆけという変な客がうす気味わるいのか運転手は無口で目的地にっけてくれた。浜辺の雨風が一段と激しいなか、傘もさせない状況で浜へとびだした。この日の唯ひとつのおみやげは濡れた一握りの砂だったが、研究室へもちかえり洗つてみると、まちがいなくミュージカル.サソドであることが判明した。玄界灘の荒波は、琴引浜や琴ケ浜と十分肩を並べるに足る芸術作品を育んでいたのである。
しかし砂の汚れかたは、すさまじかった。濁り水が、とめどなく出てくるのであった。
何回水をかえて洗っても赤褐色の濁り水が、とめどなく出てくるのであった。
8.2 恋の浦幻想曲
以下は、.恋の浦からとってきた一握りの砂が、私にそっと打ち明けてくれた身の上ばなしである。「ひと昔まえまで、恋の浦は、小さいながらそれはそれは美しい、人知れぬ浜辺でした。ですから村の若衆たちの、こよない逢い引きの場になっていました。三方が小山で囲まれ、入口が二つありますので、誰にも気づかれずに別々の道からこの浜に入り、そして誰にも気づかれずに浜から出ることができました。磯づたいの道も別にありました。恋人たちが白い浜辺を散策するとき、私たちは、二人の足もとをくすぐるように、ク、ク、ク、と恋のメロディを奏でました。伴奏は玄海の波音と、松風の音です。秘められた恋の浦幻想曲が、青い玄界灘の海に溶けてゆきました。あるとき、ぴったり寄り添った足跡が渚にそって続き、突然波打ち際に消えたことがありました。海鳴りと松風の伴奏だけが浜辺に残りました。それは、いまから370数年前の、慶長11年のことでした。津屋崎の庄屋藤七の娘、かよよろずや嘉代と、博多の廻船間屋、万屋新兵衛の息子、仙吉とは、祝言の話がとんとん拍子に進み、結納もすんで、挙式を待つばかりになっていました。そんたあるようしんわたり日のことです。筑前の初代藩主、黒田長政の叔父の養心公が、渡の薬師さまに参詣の帰りみち、突然、藤七の家に立ち寄って、お茶を所望されました。
娘の嘉代がお茶を差し上げると、殿はことのほか上気嫌で帰られ、不意のご入来に粗忽があってはと気をつかっていた藤七は、ほっと胸をなでおろしました。ところが四、五日たってから、殿の使いが来て"殿の格別のご懇望により、娘嘉代を殿の介抱付添人として、津屋崎の館に差し出すようにと伝えました。それからまもたくのことです。津屋崎の京泊(きようどまり)沖に、人気のない一艘の小舟が、ただよ波間に漂っていました。付近の漁師が不審に思って近寄ってみると、舟の中に一枚の短冊がありました。
津屋崎の
岸に寄る波 返るとも
恋の浦路(うらじ)は行く方もなし
ー仙吉、嘉代ー
それ以来、村人たちは、この浜を恋の浦と呼ぶようになりました。それからも私たちは玄海の荒波に洗われて、身を潔め、恋のメロディを奏で続けてきました。ところがここ十数年来のことです。夏になると、不作法なよそ者たちがマイカーでどっとこの浜に押し寄せてくるようになりました。引き揚げたあとには浜一面にゴミの山。村人たちは見るに見かねて立て札をたてました。でも立て札など見向きもされず、いまではゴミ捨場同然になり、それに海からも、空缶やプラスチックス製の空びんや、船舶の廃油が押し寄せてきます。恋を語るムードは消え失せ、白い浜辺も、恋の歌を忘れてしまいました。
最近、著名な文士がこの浜の紹介文を書きました。いわく
「恋の浦は白砂青松と、
清澄な紺碧の海。都塵を逃れて、
ここで遊ぶ若者たちが、緑滴る松林の中に、
色とりどりのテソトを張るキャソプ場。」
と。観光会杜から金をもらって、浜を一目見ることさえせず、うそを書く文士。浜の砂をごっそり大型トラヅクで盗んでゆく土建業者。松食い虫。日本列島は、国土も、そして人の心も荒れ果てました。恋の浦はその象徴です。ぜひあたたは日本中の人たちに、この浜辺を紹介してください。日本の将来を占うために、この浜を見にいらっしゃいと」
写真8-1
村人たちは浜のよごれを見るに見かねて立て札をたてた。(向こうに恋の浦が見える)
8.3. どす黒い炭塵に汚されて
同じ年の10月末、私は玄海の砂浜再訪に出かけたが、またしても嵐に出くわした。シベリアで台風なみに発達した低気圧の影響で、九州北部は強風が吹き荒れ、晴れたかと思うと突然雨が降る天侯だった。
今回は地図であらかじめ目標をきめた砂浜を、北から順に、歩いてみることにした。福岡県下最大の島、大島の北側にも浜があるので、ぜひ見たいと思った。それに。ほんのちょっぴり、玄界灘の波にのる期待もあり、神湊(こうのみなと)から村営の渡し船で島に渡った。しかし岩瀬浜は黒い石ころの浜だったし、その他の砂浜も汚れていた。そのうえ、夜半から風雨が強く、離島のわびしさを味わうだけの一夜となった。 翌朝は風波が高く、かろうじて出港したが沖に出ると波は恐ろしく高い。漁船を改造した小舟だから、大波にぶつかると木の葉のように揺れ、窓からざんぶり水が入ることも何度かあった。しかし青くなっているのは海に馴れない私だけで、客はほとんど大島からの通勤者だから、田舎のバスの乗客のように安らかた表情だった。
写真8-2 鐘崎が見える京泊の浜"ちはやぶる鐘の岬を遇ぎぬとも吾は忘れず志賀のすめ神''(万葉集)
神湊の北方には、さつき松原の砂浜をはさんで鐘崎(かねさき)がある。ここには万葉の時代から千古の謎を秘めて海底に鐘が眠っているという沈鐘伝説(文献5-6)がある。シナイの鐘の山(2章)の連想もあって、とにかく京泊までいってみた。しかしこの辺りはいずれも黒い異石が混入し、土砂による汚れも多く、ただの砂浜にすぎなかった。くびす踵を返して神湊から海岸線沿いに南下する。この日の気象条件は奇妙だった。玄界灘の上には真っ黒い雲がたれこめているのに、陸側にはときおりきわだって澄み切った青空が現われ、海辺は日ざしを受けて幻かと思うほど、それはそれは美しい紺碧の海が展開した。砂探訪の旅は厳しいが、予想もしないときに、思いがけないところで大自然は壮大なショウを鑑賞させてくれる。私はこれをカメラに収めようと、たてつづけにシャッターを切った。しかし、景色はとれてもその壮大さは撮影できなかった。こんな浜歩きの結論は、勝浦から恋の浦にいたる砂浜がすべてミュージカル.サソドの特性を備えた砂であるということであった。だが、いずれも浜の汚染がひどく、完全に鳴りをひそめ、知る人すらいない状況になっていた。
8.4. 奈多の七不思議
次はいよいよ、「雀が歩く、砂が鳴く」奈多の七不思議探訪である。「漢倭奴国王印」の出土地であり、元冠の激戦地である志賀島(しかのしま)へ向かって博多湾を抱くようにのび、志賀島を陸繋りくけい)している砂丘半島が「海の中道」だ。問題の奈多には、住宅がぎっしり建ち並び、七不思議などというムードはないので、半島の北側に出てみた。ここには荒波に洗われる広い砂浜が続いている。体ごと吹き飛ばされそうな強風が吹きすさび、飛砂が激しく頬を打つなかを浜沿いに歩いてみた。ところが驚いたことに、どこの砂にも多量の真黒い粒子が含まれてにおおり、それはすべて石炭であった。砂を加熱すれば石炭の臭いがし、洗えばどす黒い汁が出る。石炭産業が華やかなりしころの洗炭廃水が犯人にちがいない。しかしさらにくわしく顕微鏡で調べてみると、ミュージカル・サンドになる円磨された透明な石英粒も、わずかたがら発見できた。これが文献に残る奈多の七不思議の主役だった砂粒であろうか(この状況は、後で述べる新潟県の角海浜に似ている)。
「雀が歩く、砂が鳴く」そんなロマソチックな奈多は、はるかな昔話になり、いまは大規模な砂採取工場が、鋳物砂や、上水道の濾過用の砂、流動層ごみ焼却炉の砂などを生産している。現代文明は無粋な文明なのかも知れない。大自然の芸術作品や、ロマソチツクな風景と伝説の価値など、わかってはいても目を向けている余裕がなく、なりふりかまわず開発を進めてゆく経済原理が優先する。豊かな文明の原理は、山のかたたの空遠くにしかないのだろうか。
8.5. 糸島半島
糸島半島には砂浜が多いから、砂にまつわる伝説も豊かである(文献7)。時問をかけて浜歩きをしたいところだが、糸島半島の起点、前原(まえぱる)に一泊した翌日も、風は一段と強く、とうてい徒歩では無理だった。宿の主人のはからいで、土地にくわしいタクシーを利用することにした。天下の奇勝・芥屋の大門まできて、不思議たものを見た。強風にともなわれて、発泡ポリスチロールの大きな破片に似たものが、しきりに海面からとび上がって岩壁にぶつかっている。いったいたんだろうか?その謎は次に述べる二見が浦で解けた。
写真8-3 二見が浦に白々と打ち寄せる玄海の波濤(波頭が白いのは安定泡沫のため)
幣の松原、野北海岸、大口海岸、二見が浦、西の浦と、弧状の浜が続く糸島半島の西側に沿い、砂のサソプルを採取したがら北上した。二見が浦では台風なみの強風に、車ごと吹きとばされそうになった。風を避けるため、地面を這うようにして浜におりてみると、海面は泡でまっ白。まるで一面に白い粉をかぶった感じ。「白々(しらじら)と打ちよせる玄海の波濤」と土地の人たちが表現するのはこのことだろう。はじめて遭遇した壮絶な景観にしばらく呆然と見とれながら、私は白い粉末に下方から空気を吹き込んだときの沸き立っ流動化現象(粉体工学用語)を連想していた。西の空はいまにも雷鳴が響きそうた暗さだが、東の空からは日光が射し込むから、それは異様た照明条件になる。スポットライトをあびたように浮かび上がる二見が浦の岩と鳥居に波濤がとび散る。
伝説によると、慶長15年、この浜砂をかみくだき、おびただしい血を吐き出した浦姫は神の巫女になった。以来、海水に洗われた砂には、清めの力があるものと信じられ、これを「お潮井の砂」とよぶようになったという。ところでどうしてこのように海が泡だつのであろうか。東京理科大学の阿部教授(文献8)は海水の安定泡沫と災害についてくわしく研究された。それによると、このような泡は冬季の季節風が卓越した条件で生成するという。海水には種々の無機塩類が溶け込んでいるので泡立ちやすいが、容易に消えない泡、すなわち安定泡沫を生成するには別の原因がある。主に珪藻種からなる多量の沿岸プラソクトソや海藻類の破片から、ある種の表面活性物質が海水中に溶け出している。そのためにこのような海水の表面張力は、ふつうの海水の三分の一に下がり、泡立ちやすくなる。さらに粘度が六〇倍にもたって、泡の寿命を長くする。
私が芥屋の大門で発泡ポリスチロールかと思ったのは、安定泡沫の塊だったのだ。二見が浦のもそれだ。とすると、表面張力が下がって、海水の洗浄力も高くたるにちがいない。お潮井の砂の信仰には、科学的根拠があったわけだ。そしてミュージカル・サソドをつくる条件にも無関係ではない。
8.6. 不可解な一直線
図8-4 謎の一直線
私は日本列島に存在する、ミュージカル・サンドを訪ねて東北から九州まで浜歩きの旅を続けてきた。さて、それらの位置を地図の上で跳めると、奇妙たことに、ほぼ一直線上に並ぶ。くわしくいえば多少の凸凹はあるが、幅約60キロの真っすぐな帯の上にあるといってもよい。これは偶然なのか、それとも何か理由があるのだろうか。この事実は以前から研究者の間で注目され、一応、興味ぶかい事実として話(文献9)題にはなったが、それ以上追求する人もいなかった。地質学的な必然性を考えにくく、偶然のいたずらとするのが健全に思えるからである。だが、「偶然にしては、よくできすぎているな」と考える好奇心旺盛た読者も少なくないはずだ。そう思う方はぜひ、目本地図をとり出して確認してほしい。私が勝手に我田引水的な図を示している疑いがあるからだ。次章で述べるように、九十九里浜や勿来などにも音が出る白砂があるが、これらは、後で説明するように、、ミュージカル・サンドではなく、スキーキソグ・サンドといって、別種の砂なので、この直線からは除外している。さて、この一直線を眺めてみると、宮城県の気仙沼や牡鹿半島と、能登の「泣き浜」の間が、あまりにも離れすぎている。太平洋側と日本海側だから、離れていてもかまわないといえばそれまでだが、この間に、もうひとつかふたつ見つかれば、不可解な一直線の実在は、いよいよ動かしがたくなるはずだ。「そううまくはゆかないでしょうよ」と誰でも思う。私も「この直線とまともに取り組むのはナンセンスだ。だいいちこういう妄説を唱える学者がいるとは、けしからんことだ」と、学生たちとも話し合っていた。ところが以下順を追って述べるように、まさかと思うその空白を埋める発見が、二つも相ついだのである。
ナンセンスどころではなくなった。
8.7. 無情に消されたムラ・角海浜
図8- 越後七浦
新潟に就職している卒業生が遊びに来て、「先生、新潟にもたくさん砂浜がありますよ。東北電力が計画している巻原発も、角海浜(かくみはま)という砂浜ですが、はやくゆかないとなくなりますよ」という。そのときはミュージカル・サンドとのつながりが見出せず、聞き流していた。それからしばらくして、「列島草枕」(『週刊朝目』1980年10月10日号より九回連載)を読んだ東京在住の郷土史研究家(新潟)大倉陽子さんから、こんなお知らせをうけた。
「巻原発が予定されている角海浜で育った者ですが、子供の頃、砂浜を下駄ばきで走ると、キュッ、キュヅと音が出るので、おもしろがってみんなで遊んだ記憶があります。もしかして、鳴き砂ではないでしょうか?」
送っていただいた砂は一見、平凡た砂だが、顕微鏡で眺めてみると、黒色の砂粒に混じって無色透明の美しい円磨された石英粒が多量に含まれている。それは間違いなく、ミュージカル・サンドの特徴をもっており、この砂だけなら発音するはずだ。洗浄してみると、低い音だが確かに発音特性をもっている。ただ不思議なことに、黒い砂は玄武岩質であり、石英砂よりもはるかに磨減しやすいのに、ほとんど円磨されないで残り、はるかにかたい石英砂が円磨されているのはどういうわけか?この状況は前記、福岡県の「海の中道」によく似ている。その謎を解く鍵は角海浜の歴史のなかにかくされていた。
写真8-4 歴史の証人,角海浜の砂○印:ミュージカル・サンド×印:混入した異石と思われるもの
図8-5 江戸時代(1675年)の角海村
大倉さんはこう書いている。「近世の史料によると、角海の砂浜は幅が200メートルもあり、塩田があった。そして、200戸余の村はもっと海よりに広がっていた。しかし、その村を海がしだいに呑みこんで、人々を山麓へと追い上げていった。村人は土地を失い、他国へ出稼ぎしなければたらなくなった。男は大工に、女は毒消し売りに。人々はこれを苛酷た自然のしわざときめつけ、角海を廃村にし、そしていま原発へと導いている。海中に没したかつての村は、蒲原{かんぱら)平野の豊かさのいけにえではなかったのか。そして、透明な石英砂に混った黒い砂は、村の衰亡の歴史を物語っているのであろうか」
越後平野のほば半ばを潤す信濃川は、たびたびの氾濫によって、大きな被害を与えてきた。明治3年、分水工事がはじまったが、その後、工事半ばにして中止になった。しかし明治29,30,38年と、相ついで大洪水が襲い、明治42年、ふたたび工事を開始、大正11年になってようやく完成した。分水路は大河津から寺泊北端までの弥彦山塊を掘り割った、延長10キロ、分水呑口727メートル、海岸吐口180メートルの人工川で新信濃川と命名された。
大河津分水完成後、平野部の人々は水害から解放された。だがそれは角海浜をはじめ、沿岸漁村が犠牲になることを強要した。海流を変え、沿岸の侵食をひき起こした。角海浜の砂はこんな歴史の証人だったのである。大倉さんは(文献10)『新潟日報』(1981年八8月22日)にこう書いておられる。
「今年もコンクリートジャングルの東京から、一路生まれ故郷の角海浜へ。だが、そこには、はっと胸をつかれる光景が。私を迎える海はなく、海上に頭を出してひしめく7、8台の巨大たボーリソグ機。巻原発建設の準備が一刻の猶予もなく進んでいた。掘削機の並ぶ海底あたりは、昔の村落もあるはず。水深2メートルに石造り井戸跡を見た人もある。往時、越後七浦の漁村は豊かな産業もあった。平野の農民が洪水に苦しんでいたころである。召し上げる一方で、施しのない政治にもとにかく耐え、村を開拓、未来に託した祖先の地だ。
無縁仏になり果てた墓石、繁栄の時代に築いた観音堂のながい石段、用水路の石がき。いずれも歴史を証言してくれる史料だ。海浜の白い砂、黒い砂の下にも歴史の村は眠っているのだ。学問的に有意義なこの村を、県民の努力で解明してほしいと日ごろ考えてきた。平野にくらべ海側の研究は乏しい。出かせぎ、過疎の重荷を背負ってきた農漁村の赤裸々な歴史を掘り起こすことが、杜会経済を考えるうえには貴重なはず。まして原子力発電のため消えようとする村なら、企業側の調査や、通り一遍の研究ですまされてはなるまい」
同原発は、佐渡・弥彦・米山国定公園内に建設されるので、環境庁が自然保護上それにどう対処するか注目されていた。鯨岡長官(前)は自然公園内の大規模開発を牽制する発言を行なうなど期待もあったが、巻原発について、環境庁の反応はクールだった。地元の新聞は同庁内部関係者の発言として、こう書いていた。
「その海岸線は、東北のどこにいっても見られるもの。同じ公園といっても、心臓部の開発はだめだが、手足のような所なら、:入れ墨してもいいところもあるわけで……」
新聞も地方版は別として、全国版にはほんの小さた記事が出ただけだった。なお、角海浜が、ミュージカル・サンドかどうかについて、東北電力から某民間地質調査所に鑑定依頼がたされたが、結論は曖昧のまま葬り去られたらしい。1982年3月末、私は間瀬海岸から新潟砂丘まで、海岸沿いに歩いてみた。シーズソオフなので、海の家は空っぽのゴーストタウンだ。食事はいうまでもなく、水も飲めない腹ぺこの旅だったが、快晴に恵まれ、青い海をはさんで佐渡を左に眺めながら、浜づたいに海岸をたどった。さきに大倉さんから送っていただいた角海浜や大谷海岸の砂に似た砂質の砂浜が続いた。だが、童謡、北原白秋作「砂山」
海は荒海 むこうは佐渡よ
雀鳴けなけ もう日は暮れた
で知られる新潟砂丘・寄居浜は、テトラポッドと護岸壁だげのあわれな姿に変わっていた。案内書にはこう書かれていた。
「むかし、このあたりの海岸は、白砂青松の遠浅海岸で、海水浴に適し、浜茶屋も建ちたらんで盛んだったが、年々侵食が激しくなり、海岸線は100メートルも後退し、丘の端に建っていた測侯所も海中に没した」
8.8 蘇った太古の歌
図8-7 飯豊山麓にある遅谷
謎の一直線の空白を埋めるもうひとつの発見は、意外なことに海岸線ではなく、奥深い山の中だった。宮城県北部と、日本海側の角海浜を結ぶぶ中間地点飯豊(いいで)山麓である。山形県西置賜郡飯豊町遅谷(おそだに)(米沢市西方、約40キ口)で比類稀なる白砂が発見されていることを、知人の嶋岡舜一氏(埼玉県在住)から聞き、その調査を担当した地質調査所の井上秀雄氏の調査報告書や砂のサソプルを入手した。
まさに比類稀なる白砂、その無色透明の石英粒はミュージカル.サンドの特性を備えている。私は現地を確認したくなった。幸いなことに、現地は私の別件調査(石臼の研究)に関連して知人が多い。とりあえず米沢市在住の渡部次郎氏(70歳)に頼んで遅谷の砂を採取してもらい、実験室で洗浄した。粘土を水流で洗い出した後、砂の部分を500ミリリットルのポリエチレン壜に入れ、水を加えて密封し震盪機にかけた。外見はきれいな石英砂に見えても、一時間も震盪すれば、水は粘土で白濁してくる。砂粒の表面の微小な凹みに付着している粘土は容易には洗い出されない。水をかえては振漫し、.もはやほとんど水が白濁しなくなるまでには延べ60時問を要した。さて、こうして完全に洗浄した遅谷の白砂を顕微鏡で観察する。なんと! それはクリスタルガラスを想わせる美しさで、一点の曇りもない。さすが太古の白砂である。だがいまはその美しさに見とれている余裕はない。ミュージカル.サンドの特徴をもっているかどうかを一刻も早く確かめたかった。木綿の布袋に砂を入れ、外から軽くつついてみた。ポッ、ポッポと実に軽快な、見事た音だ。「やった。太古の白砂が歌ったぞー 」。アルキメデスが裸で風呂からとび出したときのように、私は実験室をとび出して、学生たちを集めた。「人跡未踏、人類出現以前の地層から発見された白砂が、いま、日本列島誕生時代の歌を歌っているんだ」
地質学者によると、この砂層は新第三紀層・鮮新世の地(文献12)層(鮮新統高峰來炭層)の比較的上部に発達している。その頃の日本海はまだ湖のようた姿だった。この砂はその湖岸に堆積し、激しい北風にさらされながら、波と風の力によって、この美しい形の砂粒に造形されたのであろうか。晴れた日、乾いた砂の上を歩行した動物たちは、サンド、ミュージック・コンサ=トを楽しんだにちがいない。教室でも、100人をこえる学生たちのまえで、この「太古の歌」を実演した。その日のことを、ある学生はレポートにこう書いていた。
「この砂の上で怪獣たちがサンド、ミュージックを楽しんだのかも知れたいと、先生は冗談をいった。みんな笑ったが、私はほんとうかも知れたいと思われて、笑えなかった。その音はいかにも不思議な、地球の音だった。そして、そんなロマソを追う、先生がうらやましい」
8.9 遅谷の現状
この太古の白砂が眠る遅谷を、私はこの目で確かめたくなった。11月3日朝(1981年)米沢駅につきタクシーを拾った。「飯豊町まで」というと、「飯豊だべか? こーらたいへんだあ。そんだば、車庫につげっからよう、土地のくわしいのに交代すっぺ」。飯豊ゆきδパスは一日に二本しか出ていない。車は中郡(ちゆうぐん)、玉庭、中程(なかほど)、高野沢、須郷(すごう)、十四郷(とよさと)荘、数馬(かずま)を経て遅谷へ向かった。このコースが最短コースだが、途中で工事中の箇所があり、今日は通行止めだという。「なんとかなるべ」と標識を無視して進んだが、菅沼峠のあたりに来ると、たったいま、ブルドーザiが活動を開始したばかりで、崖の上から土砂が道路いっばい拡がっていた。「さあ、どうすっぺ」ここから引き返すとなると、優に一時間以上も遠回りしなければたらない。運転手は車をおりて道いっばいの土砂をみつめていたが、やがて崖の上のブルドーザーに向かって大声をはりあげ、手まねした。「こうやって俺が手で土砂をよけて通るから、ちょっとの間、まってくれんか」という合図だ。「勝手にしろ」という合図がブルから返ってくると、運転手は、手で大きな土くれ塊をよけはじめた。私も素手の道づくりを手伝って、やっとのことで通過できた。もう一分間遅かったら、私はこの目の日程を大幅に変える必要があったにちがいない。杓子定規ではない工事による交通規制と運転手の配慮が、なんともうれしく、思いがけぬ旅の楽しさを味わった。あらかじめ町役場にこの日の訪問の趣旨が説明してあったので、遅谷の有カ者、伊藤良平氏宅に話が通じており、町の婦人会長をつとめた奥さんが現地を案内してくださった。
10年ほど前、日本珪砂工業Mが遅谷珪砂の開発に着手したが、その後、川鉄鉱業Mに鉱山権が転売された。しかし地上権にっき契約書の上で問題があり、目下裁判申で、開発は中断し、現地には川鉄鉱業の留守事務所が古い民家におかれているのみ。現地にはあちこちに試掘のあとが見られた。奥さんの話によると、「うちの田んばを掘ったとき、まっ白い砂が出ました。それはそれはきれいでした」と。
鉱床は越戸沢川床に露出しているので、この小川に洗い出された砂粒は格別美しい。顕微鏡で見れば翡翠あり、瑪瑙あり、蛋白石あり、私は、御とぎ伽の国の砂のようだと思った。
8.10 500万年の歳月とは
地質学者は気が遠くなるような年代の話をするから、素人には実感がわかないが、まず地質年代表を眺めてみることにしよう。鮮新世は500-200万年前だ。遅谷の白砂は、その頃、飯豊山一帯の花こう岩類が風化して、流れ出し、ここに堆積したものらしい。井上秀雄氏は次のように報告している。「珪砂鉱床は緑色凝灰岩(洗尾累層)の上位にある第三系申の高峰來炭層中に発達した層状鉱床で、上部鉱床と下部鉱床からなっている。鉱床は向斜構造に支配されて胚胎し、その東側と西側に.帯状に、発達し、延長13キロの間に断続して認められる。主要鉱床は3キロの範囲で厚さ100メートル前後を有し、良質部である上部鉱床は20-50メートルである。白い上部鉱床の下位には、淡緑ないし灰緑色で長石の多い下部鉱床が常に発達しているが、下部鉱床が発達しているところに、上部鉱床は必ずしもともなっていない」(文献13)
日本列島が図8ー8のような姿だった頃、このあたりには広大た浜辺があったのであろうか。現在の砂の層は、砂60-80%、粘土20-40%から成り、ぼろぼろだから、水に入れると簡単にくずれ、粘土は洗い出すことができる、報告書によると「珪砂は主として丸い石英粒からなり、カリ長石、斜長石、クリストバライト、重鉱物類および岩石破片からなっている。粘土鉱物はメタハロイサイト、ハロイサイトが主で、少量のモンモリロン石から成っている」とある。
問題は、石英砂の粒子が著しく丸くなっていることだ。どうしてこのように丸くなるのだろうか。それについては10章で説明する。
図8-8 新第三世紀・鮮新世(300-500万年前)の日本列島(この頃,目本列島にはステゴトン象,アマミ黒兎,ヒッパリオン(小さい馬)などがいたという。アニマル・ミュージック・コンサートのメンバーだ)(文献13)
この表ではよくわからなかったから、46億年年表に進んだ。
文献
*宗像伝説・恋の浦秘話(5)に脚色した。
1 金尾宗平『地球』11巻1号,44-46(1929)r福岡地方の地學的新事實」
12皆川信弥r地質学雑誌』65巻765号,373(1959);767号,483-493(1959)盆地周辺における新第三紀層の層位学び古生物学的研究」
3. 新帯国太郎r地学研究』工4巻5号,142-148(1953)r日本産鳴り砂について」
4. 橋本万平r科学の実験』13巻6号,484-490;7号,571-575(1962)r鳴り砂のたぞん
5. 上妻国雄著r宗像伝説風土記』(西日本新聞杜,1978)
7 糸島観光協会編r糸島の伝説』聞杜,ヱ976)(西日本新聞社,1976)
8. 阿部友三郎著r海水の科学』(日本放送出版協会,1975)
9. 橋本万平r地学研究』19巻2号,36-45(1968);21巻6号,157-163(1970)r鳴り砂の物理的諸性質
10. 新潟日報』1982年1月1目 「時代のうねり,無情に消されたムラ・角海浜」
11. 井上秀雄r地質調査所月報』23巻12号,697-719(1972);r地質ニュース』168号,52-54(1968)
13湊正雄監修r目本列島のおいたち一古地理図鑑一一』(築地書館,1978)
|