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粉の文化史  大地は火薬製造工場だった
3.1 悪童の火遊びとして伝承された秘密
 信長の時代の美濃、飛騨、近江、越前、加賀、能登、越中は当時の本願寺の強力な地盤だった。私の生家は養老山脈と鈴鹿山脈に囲まれた山地にあった。この地は現在岐阜県養老郡上石津町(大字時:関ヶ原から徒歩でここまで来るとお昼飯(おとき)になる意)と呼び,関ヶ原の南隣で尾張と近江の間に位置する西美濃で,中世には強力な本願寺の勢力圏だった。そこに浄土真宗の唯願寺がある。
 大坂城をめぐる石山合戦は元亀元年(1570)から天正八年(1580)8月教如の石山開城までの10年の戦いであったが,その間ここから多数の門徒・僧俗が参戦した記録が残っている。 念通寺の寺伝に,「28世真誠房念,天正4年6月、石山に奮戦死す。顕如より九字名号・自筆軍扇・念珠・文書を給う」とあり,また唯願寺明慶・明覚は帷幄(いあく=陣地の幕)の中にあって事に与ったといい(時村史),証如の御影が下付されている。また林正寺には第二世鷹順, 顕如の石山籠城のとき「味方せり」とあるが,その他の寺院も参戦したことであろう。 その他,慶長2年顕如の御影が教如の裏書で、牧田庄の惣道場中へ下付されており、慶長9年、顕如御影が明覚寺へ、また遍得寺へも(年代不詳)下付されている。その当時下付の御文(おふみ)が,時地区で見ると、証如裏書二通、顕如裏書1通・教如裏書九通あり、他に、証如裏書1通が一之瀬本善寺にあり,その他にも多く下付されていると考えられ,唯願寺の教如御書にもあるように直参衆としてかなりの力を持っていたと思われる。
 天正2年(1574)の長嶋一揆のときは,この寺の住職明慶・明覚が中心となつて参戦したことある。とくに「明覚,剛毅,膂力(ひりょく,腕力)人に過ぎ、能く拇指を以て貨幣を樹幹に圧入した(時村史)とか、合戦の際,矢が尽きると,萱葺(かやぶき)屋根n引抜いて矢にしたので、人々は.「羽覚坊の矢はつきじ」と驚いたという。また、南隣の三重県藤原町大貝戸(おおがいと)には唯願寺の屋敷址と伝える所があり,また藤原岳の頂上付近(標高約1100 メートル)に,一揆の時,唯願寺の住職をかくまったと伝える大橋屋敷趾がある。 
 東海地方の門徒は石山本願寺を援けるため,伊勢長嶋の願証寺を拠点として元亀元年(1570)11月信長に対して蜂起した。そのため信長はその後3回にわたって長嶋を攻撃した。最初の攻撃は元亀2年(1571)5月に開始されたが,一揆の強い抵抗にあい,西美濃衆の氏家朴全(直元)は戦死し,柴田勝家は負傷したほどであった。第2回の攻撃は天正元年(1573)9月に行ったが,また信長は敗れた。信長が10月北勢より逃亡するため多芸山にさしかかったとき,美濃多芸十日講を中心とする一揆約3000人に攻撃され,130人が討死し,信長自身もようやく大垣に逃れて帰陣した。第3回は翌2年(1574)7月から展開されたが,信長の和睦を口実にした、「だまし討ち」で遂に一揆は敗れて全滅した。(以上は上石津町郷土資料館長辻下栄一氏提供の上石津町史資料によりまとめたものである)。
 私の子供時代には、村の唯願寺住職が門徒を率いて石山寺合戦や長島の戦で信長と戦った歴史が村人の中で生々しく語られていた。なにげなく聞いていた大人の会話だったが、粉の研究を進めていくうちに、あらためて聞き直す必要が生じてきた。
一向一揆(東京教育大学図書館蔵「絵本拾遺信長記」模写

 

 「お寺の住職に従った村中の壮丁は長島で全滅し、老人と女だけ残った。お前たちはその生き残りの子孫だ。お寺の山門の傷は信長勢の矢の跡だ。攻め込んで来た連中をたぶらかし、お寺を焼いたように見せかけるため、寺の下の田圃に藁を積んで火をつけた。東山から眺 めていた信長は喜んで帰っていった。 」 と。
 お盆にはお寺でありがたい御文が朗々と読まれ、門徒はわけがわからないまま平伏して聞いたものだ。私も子供だったから、わけもわからずひれ伏した記憶がある。昭和20年までひそかに語り継がれた秘史である。それは石山合戦へ参加したことへの教如上人の感状だった。戦後それは中止された。住職によれば理由は「お参りがなくなったから」と。

3.2 法敵信長打倒の激しい戦い
 私は同志社大学図書館で『本願寺文書』および同関連図書を調べて見た。大きな本で、始めからページをめくりはじめたが、親鸞上人にはじまって、蓮如上人、教如上人などなど高僧の御絵像のカラーページが続き、次は経文、そしてありがたいお文と称する上人のお説教がつづく。これじゃどうしようもないかなと思っていたが、最後に近いページに活字化したお文があり、ときどき激烈な高僧の怒りを込めた文が散在していることがわかった。当時の本願寺の顕如や教如という高僧たちの生の書簡や日記を読むと、その淡々たる表現ゆえに伝わる戦国時代の切迫した情勢が生で伝わってくる。現代の小説家の作り話を読むより、はるかに迫力があった。 「法敵言語道断之次第無念至候」「よろず一味同心に申し合、法敵を平らげ」「大坂本願寺は敵対する。(信長)欝憤(うっぷん)少なからず。」
 なかでも驚いたのは次の一文だった。
 「元亀1年(1570)五月三日大坂勢鉄砲千挺をもって打掛打掛戦いければ信長勢思いもかけず逃散」。これは何と長篠で信長が武田を破った1575年、日本史で一般に習う長篠で信長が鉄砲を使ったより5年も前のことだ。私は図書館で二日間、夢中で読んだ。信長側からの記述だけからは分からなかった事実だ。

表3-1

本願寺側から見た信長関連の年表
西暦    
1474( 文明6) 加賀一向一揆で門徒側大勝利
1496 (明応5 )石山本願寺建立
1499 (明応8 )蓮如没
1531 (享禄4 )加賀一向一揆蜂起
1534 (天文3 )織田信長生まれる
1543 (天文 12) 鉄砲伝来(種子島)
1544 (天文 13) 種子島時堯,島津貴久の仲介で将軍足利義輝に鉄砲献上
1549 (天文18) 時堯,本願寺の仲介で将軍足利義輝に鉄砲献 , 初の銃撃戦:薩摩の島津と肝付・蒲生・渋谷の連合軍との戦い( 黒川崎の戦 )
1553( 天文22) 謙信上洛 本願寺参詣,堺に立ち寄る
1559( 永禄2 )将軍,本願寺は密約を破り,謙信上洛火薬製方秘伝書を上杉謙信へ、  信長上洛し将軍義輝に謁す
1560 (永禄3 )信長,桶狭間に今川義元を破る
1561 (永禄4 )第4次川中島合戦で鉄砲隊(威嚇程度)
1565 (永禄8 )フロイス来朝 南蛮寺でキリスト布教開始
1567 (永禄10) 本願寺,朝倉義景と結ぶ
1569 (永禄 12) 信長,堺を制圧し本願寺と講和
本願寺の仲介で五箇山へ技術者派遣(南坊:鉄砲史研究,昭53),8
1570 (元亀元)5 月本願寺摂州野田福島で信長を千挺の銃で攻撃。,
   信長おおいに驚く『鷺森日記』(宗意編)(大日本仏教全書p.495),大谷本願寺由緒通鑑
1571 (元亀2 )長島一揆,信長延暦寺焼討
1572 (元亀3) 五箇山から日本海経由で石山城へ火薬運搬(養照寺由緒書),  五箇山の硝石で本願寺火薬使用,顕如信長と和睦
1573 (天正元 )信長,将軍義昭を追放,長島一揆,紀州坊主門徒宛の顕如の書簡に 鉄砲衆(『石山本願寺日記』)
1574( 天正2 )本願寺光佐,信長の居城攻撃,長島一揆で門徒虐殺,長島滅さる
1575( 天正3 )本願寺顕如,信長と第二次和睦,信長長篠の戦で鉄砲使用,越前、一向一揆信長に敗れ虐殺さる
1576( 天正4 )安土城築城,本願寺謙信と盟す。鉄砲千挺で信長逃散(大谷本願寺由緒通鑑第3巻p.36
1577 (天正5 )信長,紀伊雑賀衆を討つ
1578 天正6 謙信没,鉄砲衆可参候(『石山本願寺日記』p.617顕如書簡)鉄砲五 百挺注文
1580( 天正8 )顕如信長と講和し石山開城,加賀一揆崩壊
1582 (天正 10 ) 本能寺の変,信長没 

 上表1の年表をゆっくりたどると、つかず離れず信長と戦ったり、和解したりしながら門徒に残忍な仕打ちをなす信長をあやつるための火薬だったと理解できた。現代マスコミの無批判な信長礼賛を、門徒は許せない気持になったが、私と一緒に調査にあたった学生は、私が必要個所を見つけるのを不思議がった。これはお寺のお経を読むのに馴れていたお蔭だった。

3.3. 西濃地区の特異性
 美濃の国西部の西濃から富山へ抜ける地帯は,戦国時代には山賊が出没する無法地帯だったという。そして本願寺と信長の戦記に必ず出てくる雑賀衆はもともとこの地方からも加わった出稼ぎ者から構成されていたという。子供の頃から険しい山岳地帯をかけめぐることに. 馴れていたからであろう。この伝説は第2次大戦まで生きていた。岐阜県下の1市5郡(大垣,不破,海津,養老,揖斐,安八)は福井県の敦賀の第9師団に属し,歩兵を主体とする軍隊で,日本最強の軍隊とされていたことにつながっていたようだ。当時父から聞いた青年達の武勇伝に、60キロある米俵を前歯でくわえて、井戸のうえにかざす競技もあったという。約2世代前の話だが、現代では考えもつかない。

3.4 縁の下の土
 古い家の縁の下にもぐって、ほこりをかぶった白い結晶をあつめ、これを炭火にくべて、パッバッと美しい火花を出す悪童の遊びがあった。年上の友達が教えてくれる遊びで、大人に見つかると「小便塩だから、きたない、よせよせ」と叱られた。残念ながら、その家はなくなったが、私にこれを教えた証人(叔母) が平成13年まで健在だった(2001年6月に84歳で亡くなった。亡者の枕元でこの話をしていたらもう一人証人が現れた。彼は「俺もあの家で白いものをとって、花火をつくった」という。さらにつけくわえて、「どこの家でもあるだろうと村中探してみたが、なかった。」と。生成条件はいろんな要因がからんでいるらしい。彼はかなりの悪童だったから、鉄砲のまねごとまでやったらしい。この人物は2004年現在も健在である(大谷清一さん)。彼にとってはなんでもないことで、「どうしてそんなことを聞くんや?」と訝った。
 この白い結晶が、その昔、火薬原料として珍重された硝石であることを知ったのは、私が燧と火薬の歴史を考えるようになってからである。このような遊びが残っていたのは、その昔各地で煙硝が製造されていた名残である。この村では明治時代には派手に青年は花火を競争でつくったという。今でこそ火薬製造は珍しい話だが、当時は誰でも知っている「あたりまえ」のことだった。私が火打石で火を起こすと誰でも珍しがるが、これもあたりまえのことだった。そのため、忘れられてしまっているのである。この話は当然ながら火薬製造の富山県五箇村では記憶している人がいた。

3.5 火打ちの技: 火の発見は粉の発見
 火の発見が文明へのスタートとは通説だが、その内容をもう少し詳細に考えると粉と人類との出会いの物語が明らかになる。木と木をこすり合わせて火を起こすのと、火打石で火を起こすのとでは技術の発展性に大きな違いがある。木と木の摩擦による発火は自然の模倣であるが、その過程で生成する乾いた木の粉に注目したところに偉大な進歩への糸口があった。その乾粉に火打ちの火を落とせば炎に転化できる発見である。百万年を越える石器づくりの蓄積のなかで育った高度の技術だった。この乾粉は火打石での発火助材である「火口(ほくち)」そのものである。火付きのよい乾粉の素材を変化させたり、火打石の種類を選んだりして、火打の技術は発展していった。さらに前述の縁の下の白い粉を少量加えれば火付きは格段に改善される。
 しかし火打ち発火には特別な材料が必要だった。鉄器時代なら鋼、鉄がない時代はどこにでもあるわけではない黄鉄鉱、それに火口の製法である。上質な火打ち石も幸い私の故郷がその産地だった。全国的比較は『雲根志』に出ている
 「山城国鞍馬にあるは色青し。美濃国養老瀧の産同じ。この二品甚だよし。伊賀国種生の庄に膏薬石あり。色甚だ黒し。兼好法師が住居せしときに静弁が筑紫へまかりしに、火打ちを贈るとある是也。阿波国より出るはこれに次。筑後火川、近江狼川は下品也。水晶、石英の類もよく火を出せども石性やわらかにして、永く用いがたし。加賀あるいは常陸の水戸奥*津軽などの瑪瑙大いによし。駿河の火打ち坂にも上品あり。共に本草の玉火石の類なるべし」
 火打が高貴な人物の持ち物だった証拠に古墳から大陸起源の形態の整った鋼鉄の火打金が沢山出土している。大陸での形態を残す見事な道具である。古代から貧乏人の手もみ火きり臼に対し、火打金による火打の技はその材料を手にいれることができる限られた階級の独占だったらしい。
 5000年前の石器時代の死体がアルプスの氷に凍結保存されて発見された。アイスマンである(タイム誌1992年10月26日号)にあった。(著書もある。コンラート・シュピンドラー著 畔上司訳『5000年前の男』(文芸春秋社刊、1994) )。
 彼は青銅ではなく銅製のナイフを持ち、その持ち物には火打石は失われていたが使用の際粉末になった黄鉄鉱とともに火口があった。起こした火をオキの状態で長持ちさせる袋も持参していた。さらに興味深いことに火口はカリウムリッチの特殊なキノコであったという(東京・杉並区在住の火打研究者、横山幸雄氏情報)。まだ粉ではないがカリウムはまさに火薬への道であった。花火の発見そして最後に火薬の発明へと複雑な技術の発展を生む技術の積み重ねである。西洋人が粉から火薬を連想するのはもっともである。
 この西濃地方では火打ち三点セットの伝承もあった。この火口は火薬の一歩手前である。当時としてはあたりまえのことで、戦国時代の文書に詳しい記載がないのも当然だ。これは日本の家屋と気象条件で起こる現象だ。縁の下で便所の汚物が硝化菌によって分解され、その生成物の硝酸アンモニウムが土に毛管現象で浸透して、何十年の間には、乾燥状態にある縁の下で濃縮、結晶化する。屋内の焚火の灰から来る炭酸カリウムと反応して、部分的に硝酸カリウム(硝石)も生成するので、子供の遊びに役立った。
 
 

 自然本来の機能が生きていた頃,土の毛管現象が造り出した自然の化学物質の傑作であった。 煙硝製造法の古文書『陽精顕秘訣』文化八年(1811)に曰く。「古き山家の縁の下には、必ず煙硝あり」と。簡単に危険物が造れるので、昔は秘密にする必要があった。だから縁の下の土を掘った話があっても、なぜか知らされていなかった。山口県大島郡久賀町民俗資料館長の松田国雄さん宅に宿泊して、臼の話に花を咲かせたことがあったが、そのうち中世の火薬製造の話題におよび、「いかがでしょう、もしかして昔、縁の下の土を掘ったというような話はありませんか」と聞いてみた。すると「それなら、高杉晋作の奇兵隊が来て島内の古い家の縁の下を掘っていったという話をする老人がいましたよ。ただその老人はなんのために掘ったかは知らなかったし、わたしたちも知らずにいました。」と。「まさか」、私は耳を疑ったが、こんな話が出ようとは期待していませんでしたよ」と二人で大笑いした。2004年になってTVが明治維新の時の高杉晋作の砲撃を放映したとき、それをふとそれを思い出した。こんな話がまだどこかで残っているのかも知れない。これはTVには出ない歴史である。
 縁の下の土を掘って、草木灰をまぜて、水を加え、濾液を煮詰めると、硝石が結晶になって析出する。食塩も一緒に析出しそうだが、塩化ナトリウムと硝石(硝酸カリウム)の溶解度の温度変化が違うため、硝石だけが析出する。

 

この溶解度曲線は初等化学の教科書には必ずのっているが、なぜかそれが火薬製造法の話だとは化学の先生は教えなかった。国際過激派が爆弾製造法をインターネットで公開したという1970年代に日本国内で流れた○秘文書のコピーが私の手元にもある。NHKの取材のとき入手したが大した内容ではなかった。現在の日本の家屋構造では生成しそうもないから公表しても心配ないはずだ。
 鉄砲伝来からまもなく、火薬製造の、技術が伝えられたと考えられているが、その経緯はわかっていない。私は鉄砲が伝来したのであって、そのとき煙硝の匂いから、あれだと種子島の人たちはわかって、すぐ製造に取りかかったのであろう。
  西洋の火薬製造は家畜小屋だった
3.6 西洋の火薬
 家屋の構造と気候が違う西洋では、壁土から硝石を採った。王様が硝石権と称して、民家の壁土を徴発したことが、過酷な圧制の例として伝えられている。十八世紀、ナポレオンの時代には、鳥小屋、豚小屋、鳩小屋などが、硝石の集積培養採集場として利用された。近代化学の建設者として知られているラボアジェは、一七七五年にフランスの若き官吏として、豚小屋の硝石採集管理官に就任した。この仕事を通じて、後にフロジストン説を覆し、有名な燃焼理論を確立した。化学の教科書にはなぜかこのことが書かれていない。以下はM.ドーマ著『ラボアジェ』(東京図書,1998)の訳者島尾先生(同志社大学勤務)からの情報だった。
 ラボアジェは若いころ友人の紹介で火薬の管理官になった。当時軍隊への火薬の供給が政府の関心を引いていた。硝石の採掘と火薬製造を請け負っていた会社が委託した硝石製造業者は強引に発掘しようとし、人々はそれを避けるのに金で買収することがあった。インドから安く買うことができる間はよかったが、戦争で入手できなくなった。そこでオランダから高い値段で購入していた。七年戦争の終結の原因は火薬の高騰であった。1775年に国王から3人の管理官の一人に選ばれたのがラボアジェだった。下記の文は上記の予備知識があれば理解しやすい。 
 「人並すぐれて聡明な彼としては、発掘権の制限によって、硝石の採掘量と管理局の利益を実質的に増加させる間接的方法を同時に目指していたと考えられる。硝石製造業者が国家の癌であったことは有名である。かれらは公共と私有とを問わず住居や住居地にずかずかと入りこんでいった。木材、住居、生活物資などの現物供出が住民の上にのしかかった。だからかなり裕福な自治体は業者に納付金を支払って、かれらに村を素通りしてもらう方を選んだ。業者のほうは懐に入れる金の出所は問わなかった。管理局に自分たちの商品を売渡すために働くよりは、何もしないでくれと支払われる金を受け取るほうを当然選らんだ。これに反し極貧の住民たちは、かれらの不当な請求に苦しんでいた。こうして各個人と共同体の利益が一致を見た。一七七五年に早速、一七七八年一.月一旧以降は発掘権は地下室と馬小屋に限定されるという決定が出された。
 その代わりに外国で広くおこなわれている人工硝石製造工業の開発に着手した。官製指針書が一七七七年編纂、印刷された。この指針書では、硝石を人工的に製造するのに最も経済的な方法、敷地、倉庫の建設、土質の選択、坑内散水、浸出法について述べられている。」
 関係する話として相馬野馬追いで知られる福島県の相馬6万石もそれだったかも知れない。仙台藩も縁の下からとっていたようだと。(野崎 準氏から相馬市教育センター博物館から得た資料をいただいている)。 

3.7 硝石生成の理由
 縁の下で、硝石が生成する理由がわかったのは十九世紀も末のことだった。細菌学の創始者として知られている有名なルイ・パスツールが、微生物の研究に打ち込んでいた頃のこと。一八七七年、パリの下水の浄化にともなって硝石が生成することを見出し、微生物による硝化作用であることが次第にわかってきた。さらにこの微生物が土のなかに棲む硝化薗であることを明確に証明して見せたのは、一八九〇年、ウイノグラドスキー(ロシアの土壌生物掌者)であった。(ファーブ著『土は生きている』(蒼樹書房,1976))この証明は、学術的に非常に難しい問題であったので、彼の天才的業績は世界的な注目を集めた。硝化菌は三種類のパクテリアが共存共栄して活動する無機栄養菌であり、大地はまさに無機化学工場だったのである。ちなみにチリ硝石(天然硝石)も、大昔の動物の糞から、硝化薗が造リ出したものにほかならない。

3.8 大地が生んだ文明
 粉なる大地は動植物との共同作業で豊かな大地を創造して、その上に農耕文明を成立させ、華やかな文化の華を咲かせた。やがて、土から火薬を造ることを発明した人類は、お祭の花火や爆竹などに利用して楽しんだ。西洋人は家畜の糞から効率的に火薬を製造し、大砲による世界征服に成功した。日本でも、火薬の力を借りて中世の統一権力が完成し、富が蓄積され、日本の中世文化が花咲いた。近代科学もまた、火薬に刺激された弾道の研究からガリレオの力学が生まれ、また、ラボアジェは、火薬の研究から化学の基礎を築いた。現代も未来も、土から生まれる。地球上の人間が、土から生じ、土にかえる存在であることから脱する可能性はあり得ない。
 
3.9 戦国時代の火薬製造工場
 日本の戦国時代は世界一の鉄砲技術と鉄砲保有国だったといわれている(ノエル・ペリン著川勝平太訳『鉄砲をすてた日本人』(紀伊国屋書店、1984))。しかし「鉄砲も火薬なければただの筒」。戦国時代以来、明治21年まで塩硝産地であった富山県東砺波郡平村で全国的に散逸した資料を集約した報告書『塩硝一硝石と黒色火薬)全国資料文庫収蔵総合目録』(1995)、平村郷土館著がある。これによると鉄砲伝来当初には、火薬のひとつの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入したが、まもなく本願寺の仲介で国産化した。それは日本独自のすぐれた技術だったとある。 悪童どもの出番だった。西洋や中国では気候風土の違いで,家畜の糞や壁土から採取した。確かに日本独自の技術だ。別の塩硝の産地として東北地方では相馬藩が幕府に献上したり,東北諸藩へ輸出していた。これは富山からの技術を盗んだものという。まさにバイオテクノロジーだった。

3.10 五箇山塩硝
 富山県東砺波郡平村は世界遺産に登録された大きな相倉合掌造り集落で有名だが,ここは日本最大の塩硝産地であったことでも知られている。(塩硝は隣の白川村も産地だったが,そこには現在は遺跡が残っていない。)
 上平村には塩硝の館と称する建物で,塩硝製造工程を展示している。蚕の糞やよもぎなどを床下に層状に積み上げた断面図がある。囲炉裏のまわりに塩硝床を作ったのは冬期の温度を高く保つ工夫であった。塩硝に関する古文書など文献類や道具類は平村にある平村郷土館に展示されている。この郷土館では高田善太郎館長が中心となって全国から蒐集された資料が整理されている。
 塩硝は硝酸カリウムであり,そのままでは発火しない。火のなかにくべれば溶融するだけだから,全く危険性はない。これを細かい粉にしてから,炭と硫黄の粉をまぜるとはじめて黒色火薬になる。したがってこの地には貯蔵設備(塩硝蔵)がない。潮解性があり防湿が必要である。
 だが1999年5月16日に現地を訪ねて,高田善太郎氏から意外な事実を聞いた。「最近塩硝床を復活しようとしたが,塩硝の硝酸菌がいなくなっているらしく,塩硝は生成しなかった」と。さもあらんとはいえ,ショックであった。培養土は先祖代々のぬかみそや漬物と同じく,長年の培養で生産力がついていた。そのため,自然では70-80年を要したのが,ほぼ4年で塩が得られるようになった。これは日本人が生んだ今で言うバイオテクノロジーであった。その後の情報では実際に生成が成功したと聞くが確認していない。
 
塩硝床図解
五箇山の煙硝床(五箇山民俗資料, 高田善太郎氏より)

 文化8年孫作書上『五カ山焔硝出来之次第書上申帳』 より
家居敷板の下,いろりの辺貮間四方(3.6メートル四方)も摺鉢のようにして囲炉の辺は6-7尺(約2メートル)も掘る。縁の方ほど浅く3尺斗堀,炉の辺板をまくり出入するように仕置,6月蚕時分底に稗がらを不切其侭長いながらを敷,その上に彼の麻畑土を取入,蚕の糞を鍬にて切交ぜ厚1尺斗も敷,其上に稗がらたばこから,蕎麦から,麻の葉,山草の肥たるを刈干しても又は積置むし草にしても5,6寸程穴に切,是を1扁敷(中略)<注この厚さの記述なし>この培物を敷たるうえに土に蚕糞を切交せ壱尺斗敷又蒸培など<山草などのこと>一遍敷土と培とを何遍も敷重ね,板敷のした6-7寸程透く程に積置。土は何遍にても皆蚕の糞と切交て敷事なり(以下略)

越中五箇山の西勝寺由緒に「元亀・天正年間の石山合戦には殊に五箇山勢を誘い、あるいは五箇山一山の塩 硝を取り集め、専念寺・養照寺等と共に活躍した。」とある。この話は有名だが、現地の研究者である高田善太郎氏は、この記述は寺の観光案内程度のもので史料性が低いという。形式的にはその通りだが、本願寺側の資料と合わせて見れば荒唐無稽のものとはいいがたい。
 別に『養照寺由緒署』には元亀元年に石山城へ日本海経由で火薬を送り、信長との戦いに参加したと書かれている。

私の火打ちの技

3.11 もぐさの火口は火薬への道 (聖は火知り)
 一種の粉、火口の製法を追ってゆくと火口(tinder)と火薬(gun powder)は本質的に同じ物で、火薬の発明とそれを造る道具、石臼にゆきつく。ここに私の専門、粉体工学と石臼との架け橋があった。火口には無数の原料があるが、私の実験では最高品質の火口原料は蓬の葉の繊維を破壊せず葉肉だけを石臼により選別粉砕したお灸の艾(上質)であった。これは中国の敦煌で入手した道具に残された少量の火口から発見した。その品質評価は粒度測定に関わるのだが、市場にない技術が必要であった。ここにも面倒なものは総て切り捨てて進む現代技術の盲点があるように思う。切り捨てられた部分の正確な記録は未来技術の温床なのである。(艾は戦争中もまた現在も医療用外の極秘用途に結びついて詳細は記述しない。)エア ヘリウムhttp://www.e-tsutsui.com/main/hakaru.htm:http://www.bigai.ne.jp/~miwa/powder/e-2.html
 もぐさの火口を使った発火に欠くことができない道具に火打金がある。現在ではカッターの古刃が利用できる。非常に発火性がよい。往時の侍は太刀に家伝の燧袋をつけていた。ヤマトタケルの故事にあやかったというが,非常時に役立つ携帯品だった。ただし現在は携行には注意を要する。 私は飛行機に乗るときは説明が大変で,あるとき大阪空港で危険視されて検査室へ同行され荷物の詳細検査をされたことがあった。これは筆者の常時携帯は専売特許のようになっているが,昔一遍上人がやっていたのと似ている。昔の火打金よりもはるかに着火しやすいからやる気があれば誰でも実行できる。一遍上人はこのやり方でサッと火をつけたから,聖(火知り)といわれた。ひとたび下の絵のように火がつけばあとは炎にするのはなんでもない。講演会場の演台で実演してみせると,遠くからもかすかにあがる煙を見てオーッと声があがる。人類がはじめて火を発見したときの感激がよみがえった感じだ。
 火口は火打石の角から約1ミリ後退させて左手の親指をかぶせるように押さえる。(さもないと大切な火口が飛び散る)。火打金は秒速度約5メートルが必要。コツは火打金を火打石の鋭い刃で削る気持ちでやること。この瞬間に鋼鉄が削りとられ,微小な鉄粉が生成し摩擦熱で発火燃焼する。この時燃えるのは鉄であって石ではない。したがって石と石とがぶつかって出る火は流星のようにスーッときえ,絶対に発火に至らない。
 この実演はいままで東京でも大阪でも京都でも,いろいろな学会で実演したが,異議をとなえる人はいなかった。もぐさはどれでもよいわけではない。上質もぐさと呼ばれるものでないと着火が悪い。

3.12 石山本願寺遺跡から茶臼が出土した
 大阪市教育委員会からの情報で1990年3月9日に現在の大阪城の南方にあった石山本願寺跡から茶臼片が出土した直後に出土状況を実見する機会があった。 近くには石山本願寺があった位置だ。後、秀吉が築いた石垣がその上に、そしてまたその上に現在の城が家康によって建設されたわけだ。大阪市教育委員会からの情報で1990年3月9日に現在の大阪城の南方にあった石山本願寺跡から茶臼片が出土した直後に出土状況を実見する機会があった。 近くには石山本願寺があったらしい。
 
後、秀吉が築いた石垣がその上に、そしてまたその上に現在の城が家康によって建設されたわけだ。

秀吉が築いた石垣石山本願寺跡から出土直後の茶臼片(上い臼片)非常に優秀な茶臼と思われる。
このように石臼片が多数発見された

現地で出土したのは石臼と粉挽臼と茶臼とがあった。なおこの遺跡は武家屋敷跡であった。しかしこれについては報道されることはなかった。
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