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『ものと人間の文化史一粉』   
第10章 21世紀の粉はナノ微粒子
10.1. ナノテクノロジーの時代

 ナノテクノロジー の語は1990年に出たが、広く知られるようになったのは、21世紀初頭、2000年1月21日、クリントン米大統領の演説("国家ナノテクノロジー計画")がきっかけだった。10億分の1メートルまたは百万分の1ミリメートルを、1ナノメートル(nm)と呼ぶ。21世紀はナノテクノロジー(超微細加工技術)の時代である。いままで光学的顕微鏡で見える世界から、一挙に3桁小さい世界に入り込んだわけだ。私は1927年生まれで、人生の大部分をミクロンの世界が粉の世界だと思ってきた人類である。ナノの世界は分子や遺伝子の世界だから神様の世界かもとビクビクしながら残りの人生を生きている。だからナノの世界は私にとっては別世界で、本書の視野を越えているが、それは突然に入ったのではなく、20世紀にしかもそれとは気付かずに入り込んでいたことは記録しておかねばならない。歴史的に日本が世界初だったが本人自身も気付かずだったし、誰もそれを語っていない。
10.2 世界初のナノ 微粒子は日本で作られていた

 私が大学在職中の20世紀後半頃はミクロンを粉の世界と思っていた。退職後、尼崎に本社がある炭酸カルシウムを製造する白石工業の社外取締役を命じられた。なんとその会社は明治末期から10ナノメートル台の粉を工業的に製造しはじめていた。当時はナノの粒子という意識はなく、コロイド状とされ、膠質炭酸カルシウムと呼ばれていた。20世紀初頭の大正3年(1928)6月には「白石式軽微性炭酸カルシウムの製造法」が、特許第26117号が成立している。驚くべきことに現在では年間何万トンものナノ微粒子を工業的に生産していた。白石工業ははじめからナノ微粒子を造っているという意識はなかった。
 日本で真っ先に電子顕微鏡を導入し、ここで電子顕微鏡の研究が行なわれ、日本の電子顕微鏡を発達させたのもこの会社だった。その指導者が粉体工学で活躍された、荒川正文先生だった。

 2002年ころ、0.01ミクロンというのは変だと言いだした社員がいた。体重70キロとはいうが、0.07トンとはいわないからこれからは10ナノと呼ぶことになった。ようやくわが国でも2001年には通俗科学雑誌にもナノメートルが出てようやく市民権を得た。言霊と言うように言葉は不思議な力をもっている。おなじことだが、あの力士の体重は200キロを越えたとはいうが、0.2トンとは言わない。社長すら「社員からなぜ10ナノメートルと言わないのですか」と問われて「ああそうか」だったという。これも粉の文化史の歴史的事件のひとつであろう。

10.2 紙も粉の塊 

昔日の白石工業高知工場(ここがナノ粒子で日本の紙を支えていた)

 白石工業は文明のバロメーターといわれる紙の製造過程で使う炭酸カルシウムが主力製品であったメーカーである。現在は紙用の粉の一部がクレイ(粘土)に変わって来ている。紙については小宮英俊『紙の本』(日刊工業新聞社,2001)が図解入りで分かりやすい。   

 そもそも紙が日本に伝わったのは推古天皇の時代に高麗の僧 曇徴が紙漉きの技術を伝えたとされ、この時同時に碾磑が来た。曇徴はお経の本を普及するために紙を伝えたのである。一方碾磑は殺生禁断の教えのため、魚を主な蛋白源としていた当時の日本人に大豆を原料とする豆腐を伝える必要があったのであろうか。この頃は朝廷の権力の確立過程であったため、曇徴は九州・太宰府に来てから飛鳥に移ったのかも知れないが、そのあたりは歴史の暗黒の雲に覆われている。

紙の技術の伝播ルートの位置関係

 ヨーロッパでは、紙は日本より遥かに普及が遅くシルクロード沿いに徐々に西進し、特に唐時代 751年の唐が大敗したTalas河の戦いの際に、中国の捕虜がSamalkand(現在のウズベク共和国東部)で紙漉きを伝え、さらに元の中東、欧州侵略に伴い伝播が促進されたという。欧州では伝わった当時の主原料は、亜麻ボロだったが、産業革命以降は木綿ボロも使用するようになった。明治期に入り、日本に洋紙の製造法が伝わったときは、原料は木綿ボロだった。当時は、インクのにじみ防止剤としてゼラチンやにかわを使用したので、作った紙は中性だった。これは現在の酸性紙に比べ寿命が長く品質的にも良好だったらしい。世界最古の印刷物として有名な、「百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)」は和紙の歴史の上で、重要な文化遺産である。770年に、6年の歳月をかけて100万個も作られた。さまざまな紙で作られた経文は、木製の塔に入って、現在も1万個くらい残っているという。

10.3 現代の印刷

 2002年に白石工業株式会社の紹介で大手製紙工場を見学したとき、「紙は粉ですね」と言ったら、そこの工場長は一瞬怪訝な顔をされた。「やっぱり」と思って「だって原料は木材を粉にして繊維状にし、それを漉いてそれに色々の粉を混ぜて乾燥させたものだかっら、紙になれば粉ではないが、その前はすべて粉ばかりですよ。」というと「なるほどそういえばそうですね。製紙は粉を作って水で練って乾燥した粉だ」と。
 炭酸カルシウムが文化のバロメーターといわれる紙を支えていたことは意外に知られていない。そしてナノ粉体のはしりを20世紀に大規模の工業生産を実現していた事実だけは20世紀の偉業として本書で記して置く必要がある。
 なぜそれほど細かくする必要があったのか。それは粒子が小さいほど粒子間付着力が大きくなり、固い組織が得られた。その発見は乾燥後固くて粉砕できない膠の乾燥品のようなものができた。これでは不良品である。そのときその正体をつきとめようとして、それが細かい粒子、つまりコロイドであることがわかった。実はこれがナノ微粒子だった。研究を重ねた結果、コロイド状になったスラリーにステアリン酸石鹸とか樹脂酸石鹸とかを数パーセント加えるとそれを微粉化することに成功したという。手元にあったしゃぼん(石鹸〕を使ったのである。
 そのころ同社の創業者白石恒二の助手として研究を手伝っていた「山中嘉兵衛はなんとかして軟く乾くようにしたいものと、いろいろな薬品をいろいろに条件を変えては、缶詰の空缶に入れ、小さな手回卵泡立機で撹拝しては乾燥して、試作を重ねること約数百種類、そのうち効き目のよかったのがシャボンであった。それから、あらゆるシャボンの種類を比較し、最後に色もよく、値段も安く、ゴムにも効果的な試作品数種類作ってA・B・C・D套の符号をつけた。その名ごりがCC、DDで、今なおそのまま市販されている」(『白石工業』ダイヤモンド社刋,)桑名工場閉鎖は1969年だったが、この工場は私の故郷に近く、自転車で行ける距離だったから、こどもの頃の遊び場の延長線上だった。現地は長い年月を経ているので現在は廃虚になっていて、容易には立ち入りできないが、HP検索で白石鉱山でヒットしその壮大なスケールを見ることができる。

10.4 パルプの製法の進歩
 ここで紙が粉の塊と理解していただくには、もう少し文化史的説明を要する。紙は植物繊維を水の中で分散させ、金網などで薄く、平らに濾して脱水し繊維を絡み合わせて膠着させたものである。紙の骨組みになっているのは原料は植物繊維なので、まず木材を細かくする第一段階としてチップと呼ばれる。ここから本書でいう大きい粉である。これを叩解と称して粉砕する。製紙工場では精砕機あるいはリファイナ−と読んでいるが紙工業用に特化した粉砕機である。
 

 粉砕物はリグニンなどなどで固まっている。それから繊維だけをとり出さねばならない。それには化学的方法でなければならない。まず苛性ソーダで溶かすことが行われていた。しかし繊維が短く、できた紙の引っ張り、引き裂き、折れというような紙の強さが弱く、パルプの収率も低いので行われなくなった。1882年にドイツで木材チップを酸性亜硫酸カルシウム溶液で比較的高温高圧で短時間処理してパルプを造る酸性亜硫酸法(サルファイト法)を完成した。日本でも1889年に静岡県春野町の王子製紙で操業開始。木桶に石灰乳を入れここに硫黄を燃やしてつくった亜硫酸ガスを吹き込んで造った。
 亜硫酸法のパルプ化で使える原料木材は樹脂の少ない針葉樹材が適しているため、日本では北海道や樺太(サハリン)にパルプ工場が作られた。しかし大規模な工場のため工場廃液や排煙による公害問題が発生した。この廃液の処理は難しく、有効な利用もない。1958年にはパルプ工場排水による水質汚濁事件が発生した。そのためこの方法は次のクラフト法に変わった。
  クラフト法というのは1879年にドイツで発明された。木材チップを苛性ソーダと硫化ソーダで高温・高圧で処理する。強い紙ができるので、クラフト(ドイツ語で力kraft))法ともいう。発明当時は褐色で漂白しにくかったので包装紙用に使われたが、漂白剤の進歩により、白い紙をつくれるようになった。
 この方法は原料木材の種類を選ばないため、針葉広葉のいずれも使える。さらに廃液を濃縮して燃料として回収し、燃焼後の灰は石灰で苛性化 苛性ソーダと硫化ソーダになり、循環使用できる。欠点は悪臭を出すが、悪臭対策も行われて、問題なくなっている。

10.5. 漂白法との填料(てんりょう)の進歩
 川晒し(和紙では原料の楮(こうぞ)などの繊維の漂白に川の流れに浸して水中の酸素で漂白したり、冬は雪の上に並べて日光にあて紫外線で漂白した。塩素漂白は有機塩素化合物が排水に出るので使えない。酸素漂白やオゾン漂白が行われる。
 印刷するためには紙の不透明度を高める必要がある。そのために鉱物質の白色粉末を入れる。石灰石を粉砕して造る重質炭酸カルシウムは紙抄機のワイヤーを摩耗させる。そこでもっとも広く利用されているのは、石灰乳に炭酸ガスを吹き込んで造る軽質炭酸カルシウムである。カオリン、クレーも同じ目的で使われる。
[注]公害事件のはしり:1956年、東京の江戸川べりにある本州製紙が黒い廃液を流出し、川や下流の浦安の海を汚し魚、貝が大量に死んだ事件。漁民は会社に乱入して警官隊と激突八人が逮捕。町長も議員も住人も一致団結して戦い浦安の人々が勝った。だが、13年後に漁民は埋立などのため漁業権を全面放棄した。http://home.att.ne.jp/iota/lupin/meiji.htm

 パルプは、その約8割が国産パルプであるとされている。しかし、これは日本国内でパルプに加工されたものを指しているので、その原料である木材チップの約7割は輸入されている。パルプとして輸入されるものと合わせ、パルプの原料の約4分の3が海外の原料であり、日本の木材チップの輸入は、増加の傾向にある。2000年には、1,442万トンと過去最高となった。紙原料に占める輸入木材チップの割合も、年々高くなっている。2000年は、前年と比べてオーストラリア、南アフリカ、中国からの輸入量が増加した一方、アメリカからの輸入量が減少した。このように製紙工業の発達史はまさに文明史である。

10.6 ナノテクノロジーの危険性

 WWW検索でキーワード「ナノテクノロジー 危険性」で出てくる内外の専門家が論じている情報は日々変化している。まだ目立った事件は起こっていないが、いずれ起こる可能性も十分ある。第一ナノ微粒子は自然界には存在せず、それは人間だけが作り出すものであるということだ。周りの自然界には存在しないから、もはや自然は人間を助てくれないということだ。「神様は勝手にせい」と手放しだ。「最も危険なことは、これらの事故や悪用を個人や小さなグループの手の届く範囲で行うができるということである。それらは大きな設備や希少な原材料を必要としない。知識だけがあればよい。実際、我々はGNR技術(遺伝子工学)に関する知識が拡散することによる本質的な危険性−知識だけで大量破壊を可能とする危険性−についての明白な警告を長年受けている。」ナノ物質は非常に小さいのでほとんど全てのフィルターを通過してしまい、目に見ることができない。日本で発明されたカーボンナノチューブ(http://www1.accsnet.ne.jp/~kentaro/yuuki/nanotube/nanotube.html)鋼鉄の数十倍の強さを持ち、いくら曲げても折れないほどしなやかで、薬品や高熱にも耐え、銀よりも電気を、ダイヤモンドよりも熱をよく伝える。コンピュータを今より数百倍高性能にし、エネルギー問題を解決する可能性まで秘めているという。自然界には存在しないものを作った場合。もし、問題が生じてナノ物質を通常の環境から除去しようとしても、それはすでに手遅れになる。実験室の外に出たナノ物質を検出するセンサーは存在しない。ナノテクノロジーの驚くべき可能性に秘められた危険性には十分注意する必要があることだ。

 しかし、ここまで科学を発展させてきた人類には、もはや引き返す道はない。科学という道具をいかに賢く使っていくのか。人類の未来はそこにかかっている。物質や生命の源を操れるようになりはじめたいま、そのことはますます真実になっていくだろう。

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