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日本最古が現在でも最大、最精密とは?(実地調査データ

図1 考古学で調査中の太宰府・観世音寺講堂前の天平の碾磑

 『日本書紀』に「推古天皇の18年( 610年)春3月、高麗王、僧二人を献じ、名を曇徴、はじめて碾磑を造る、けだし碾磑を造るは、このときにはじまるなり」とある。律令時代の日本の法律書、令義解や律疏に出てくる正体不明の語「碾磑」について、古代法律研究者の間で議論されたことがある(文献リストは『ものと人間の文化史-臼』383頁(法政大学出版、1978)参照)。中国語では碾磑という二文字はそれぞれ碾と磑で別々の物体を示す。 当時の中国では貴族や寺院が経営して利益をあげていた水車式製粉工場かどうか、不明のまま法学者の間で決着はなかったようだ。

 この日本書紀の記述を詮索するのはおくとして、碾磑をめぐる三つの謎の事実がある。その一つは、九州・太宰府の観世音寺に現存する石臼である。同寺の講堂前の広場に石垣で囲まれ「碾磑」と書かれた立札がある。その石臼は直径1.03メートル、上臼高さ21センチメートル、下臼高さ28センチメートル、重量は上下それぞれ推定約400キログラムという巨大なものだ。今から200年ほど前の寛政10年(1798)の『筑前国風土記』」にはすでに現在位置にあることが記され「茶臼」と注記してある。「鬼の茶臼」と俗称されたともあり、当時、すでに正確ないい伝えが消滅していて、わけのわからぬ存在だったことを示している。

 1984年12月17日、同寺と九州歴史資料館および同志社大学の森浩一教授(考古学)らの協力をえて、大きな上臼をもちあげて、実測調査する機会が与えられた。(『古代学研究』第108号(1985))長い年月、風雨にさらされていたため、上臼の上面はかなり風化が進み、亀裂もあるから、ウインチで少し吊り上げ、計測と臼の目が観察できる程度の調査であった。堆積していた土砂を洗い落して、臼の目がはっきり姿を現わした瞬間の写真が図1 である。 当日は曇り空で、今にも雨が降り出しそうな天候だったが、臼面を水洗いした直後、明るい陽ざしが臼の目をくっきりと照らし出した。居合わせた人々は一瞬、8分画10溝の見事な臼の目の美しさに見とれて声もなかった。上下臼が重ね合せたまま置いてあったおかげで、臼面には風化がなく、新鮮な珪酸質の石肌が保たれていた。

 私はさっそく、下臼に長尺の直線定規をあててみた。完全な平面が保たれ寸分の狂いもない。石積みの平面程度の加工ではなく、機械の摺動面加工に匹敵する。現在のように大型の研磨盤がなかった時代に、これだけ大きな石材の平面加工を、この精度でやってのけるのはただごとではない。私はこれをつくり出した技術水準の高さに驚異を覚えた。あの大仏殿の建立や、大仏鋳造をやってのけた天平の華やかな文化の底辺には、それ相当の技術水準があチたのである。もうひとつ、この調査で是非知りたいことがあチた。400キログラムもある上石の重量を支えて、スムーズに回転させる軸受機構である。これは上石の中心部に直径約30センチ、高さ5センチの凸起部をつくり、下石には上石の凸起部がち蛯、どはまり込む穴をうがち、さらに中心に心棒孔を設け、ここに鉄の心棒を入れたらしい。さらに回転精度を保つために完全にすり合せて、ツルツルにしてある。このような石臼の軸受機構は現在までの調査では、実物も文献も類例がない。

 ところで、この臼は何を挽いたのであろうか。小麦だろうか。私はこの調査を行うまで、小麦であることを半ば期待していた。ところが答はノーであチた。臼の目の形は、頂上が平らでしかも滑面になチているのである。これでは小麦の皮を破ることは不可能である。それに主溝が異常に深い。この目から、水を流しながら鉱石の粉鉱物質の原料、朱か金の原鉱を湿式粉砕するのに使用されたと推測した。古代における朱の製造は寺院の建設には必要不可欠であった。何はともあれ、この石臼が日本最古で、かつ最大、最精密であることは確かだ。

 

上臼は約200kgある。天平時代にどうしてまわしたかは、当時の中国は唐の時代で、左図が中国の古文書にでている。これを馬や牛に挽かせた。

中国には観世音寺碾磑に相当する遺物があるはず。実際あった。

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