曇徴の消息 |
---|
石臼目次 |
ホーム |
日本書紀の謎を訪ねて韓国へ
同行:岡田ドージン(映画監督),上林(春松)茶店社長,田中三次郎商店社長,榎本薬品社長
韓国訪問のターゲットはユン先生『韓国の食文化史』(ドメス出版)著者:
1998年7月10日(金)10:00関空発KE722便-ソウル着11:30(岡田ドージン氏(映画監督)や通訳と合流,午後 1:00 農業博物館でユン 瑞石先生(中央大学家政大学名誉教授)と合流,,博物館長金 光 彦金先生らの説明を受けた後見学案内はKim Kwang on氏。
3:00 デパートで豆乳を挽いて売っているところを見学。直径30センチで下臼回転方式、極めて簡単な構造の電動式、石臼は韓国伝統のもの。ここで挽いた豆乳を自宅で調理する。
デパートの豆乳臼奉恩寺540φの古い石臼
4:00-6:00 奉恩寺(江南区三成洞73番地)禅宗,AD794建立
大きな臼(下臼だけ)残っている古い寺見学。1200年前からの大きい石臼540φと300φ湿式粉砕用で,寺のイベント(催し)のさい,大勢の食事(豆乳など)を用意したものという。日本にはないイベントで、これとデパートの豆乳臼は下記の資料と併せて韓国の食文化の象徴なのだ。
北朝鮮・妙香山普賢寺
宿泊ホテルはSofitelAmbassador(中央区奨忠洞2街186(電話82-2-275-1101)
7月11日(土)9:00臼を収集している骨董街で午後の講演会に出る予定の先生方(安東大学校大学院長 ユン先生,誠信女子大学校 安 明秀先生,ほとんどが市内大学の女性教授連。約10名,延々と全骨董街の街頭に使い古された石臼が並ぶ風景はうんざりするくらいで異様。約20年前に日本では四国で収集家が倉庫一杯に集めたのを2-3箇所見たが、あの風景だ。ここ10年くらいの間に韓国でも生活様式の著しい変化があったことを示している。500年ほど前のものと思われるものもかなり見られた。ここで蝙蝠(こうもり)模様がいくつかあり,蝙蝠は韓国では幸福の象徴であることを聞いた。(日本では松江城郷土館で松江藩主松平不昧公遺品と思われる茶臼に蝙蝠印があった。)
午後は延世大学教授会館で三輪茂雄の講演と韓国の学者との交流。ユン先生が通訳だったが,殆ど通訳なしで通じる方々のため,印刷物を準備していたのでよく通じた気配。臼類学の提唱と題して,約40分講演した。臼類学には数十種類の臼類と並んで,鳴き砂もmilling(回転ボールミル)の語で縁があるので蛙砂セットも見せた。
話のポイントは日本書紀の碾磑で,まず九州・観世音寺の碾磑遺物の写真を見せ,これは高麗王が紀元610年寄進したものであることは日本書紀「「推古十八年(610)春3月、高麗王貢上僧曇徴・法定。曇徴知五経。且能作彩色及紙墨、竝造碾磑。蓋造碾磑、始于是時歟」がある。高麗だから北朝鮮だが,これに類する物体がどこかにあるはずだと話した。午前に見た骨董街のものより,はるかに大きい。多分王様所有だったので,一般大衆に普及したものよりはるかに大きく,美観も技術も高いものであることを説明した。「僧曇徴とは何ものぞ」と質問してみたら,それは法隆寺金堂の壁画を描いた高僧で,韓国では有名で,教科書にも必ず載っているという。日本では『日本史辞典』(角川)によれば「生没不明。高句麗の僧。高句麗王の命により610年に法定とともに来日。五経に通じ,彩色や紙墨の製法を伝えた」とあるが,碾磑は意味不明のまま現在まで一般には知られずにいると話した。法隆寺や高松塚壁画とも関連するという。(帰国後法隆寺に問いあわせたところ,そういう説もあるが認められていないと否定した。)ところが意外な石臼の謎の展開で私は法隆寺と九州・観世音寺との関係や聖徳太子の存在まで調べる羽目になった(曇徴の消息)。
15:00頃大学で韓国の参会者と別れ,調査団だけで鐘路区世宗路にある国立民俗博物館を見学。
韓国の豊かな(くいしんぼうな)献立をどう思うべきか。
12日(日)ソウル発12:50-関空14:20帰着