リンク:日本書紀の謎を訪ねて韓国へ|太宰府観世音寺碾磑


曇徴の消息

 今回の訪韓で僧曇徴は韓国の国定教科書に出ている有名な人だと断定していた。帰国後日本の本を調べはじめて、太宰府観世音寺をめぐって驚くべき論議がされていることがわかった。調べた資料は市販されているものばかりだが、今年になって出たものが多く話題になっているようだ。残念ながら僧曇徴については完全に不明のままだが,碾磑を追って古代の権力闘争を眺めることになりそうだ。

以下は韓国:中学校『国史』国定教科書の記述。

「 文化伝播

 三国時代には、文物交流ど交易が活発に行なわれた。三国は大陸から中国文化を受け入れ、独自の文化を作り上げ、その発達した三国文化は日本へ伝えられ、日本の古代文化の発達に大きな影響を与えた。百済は日本と政治的に緊密な関係を維持したため、三国の中で、もっとも日本文化に大きな影響を与えた。阿直記と王仁は日本に渡って漢文、論語、千字文を伝え、段陽爾と高安茂などは漢学と儒学を日本に伝え、政治思想と忠孝思想を広めた。聖王(在位523-554年)のときには仏教を伝え、そのほかに天文・地理・易法などの科学技術も伝えた。

 高句麗も、多くの文化を日本へ伝えた。憎侶の慧慈は日本の聖徳太子の先生となり曇徴は紙、墨、硯を作る技術を教え、法隆寺の金堂壁画も彼の作品だといわれている。日本の高松塚古墳壁画は、高句麗の影響を受けたものである。新羅は船を造る技術、堤防と城郭を積む技術を伝えたし、伽耶は土器を作る技術を日本に伝えた。このように三国は発達した文化を日本に伝え、日本古代の飛鳥文化の発達に影響を与えた。」

 以上韓国:中学校『国史』より引用 

 ところが以上の韓国:中学校『国史』国定教科書の記述は明らかに間違いで、僧曇徴が法隆寺にいた話もその出所が不明。聖徳太子の存在自体不確かで架空の人物かもとは驚き。この時代は日本国内が複雑な権力争いの中にあり,高句麗から向えた僧の没年さえ不明。最近の研究によると法隆寺の建立時期自体不確か。もしかすると九州の太宰府から現在の地へ移設し、朝廷が仏教を大事にしていることを示すための方策であったともいう。移設に際し用途不明の碾磑は残されたため,現在に伝わった。太宰府に残された碾磑の意味を考えるのが私の使命だが今のところ何もいうことがない。ただ是非注目してほしいことは以下の点だ。当時は高句麗が非常に高度の文化をもっていたことの唯一の証拠物件が僧曇徴の碾磑であることは確かなこと。668年には高句麗滅亡したからそれ以前ということも確か。またわが国にはこのような巨大な石臼を作る技術はなかったことも確か。観世音寺碾磑を実測調査したとき、1.5メートルのステンレス製直尺でその平面度を確認し、驚嘆したのは私だけだった。

 以下は井沢元彦,藤岡信勝:真実の日韓関係史-Noといえる教科書(祥伝社,1998,5)の著者らの座談記:「井沢:それと一つ、これは歪曲などという次元のものではなくて、まったくデタラメといっていいと思いますが、法隆寺金堂の壁画は曇徴という高句麗出身の僧侶によって描かれたとあります。これは高校の教科書も同じです。ここまでくると荒唐無稽を通りこして、まったく鼻白んでしまいます。曇徴という僧は『日本書紀』によると610年に来日し、日本に絵の具や紙の製法を伝えたとされる人です。また『聖徳太子伝暦』という文献には一時期法隆寺に住したという記録はありますが、『伝暦』自体が一級史料ではないので確定的なことではなく、ほかにも壁画の作者と結びつく根拠はまったくありません。もちろん曇徴が描いたとされる他の作品もありません。だいたい610年の時点で一人前の年齢に達していたと思われる人物が、600年代終わりと推定される再建法隆寺の金堂壁画を手がける可能性はほとんどない。もちろん金堂壁画が朝鮮半島から渡って来た人の手になる可能性は充分あります。インドのアジャンタ石窟の壁画との類似性から、中国僧、インド僧の可能性も指摘されています。したがって朝鮮人が作者であるというのも有力な可能性の一っですが、曇徴が作者というのは、まず考えられない。仏僧と絵師は違いますしね。これが歴史小説ならいいんですが、国定教科書なんです。

藤岡:こういうのは日本側もしっかり指摘すべきだと思いますね。だいたいこの教科書を使う生徒がかわいそうです。」

以上すべて原文通りコピーしました。

関連資料:

1. 李鍾恒著:韓半島からきた倭国-古代加耶族が建てた九州王朝(新泉社,1990,3)

 倭は大和政権ではなく,もともと韓半島に根をおく加耶族と同類に属する民族である。女王国耶馬台国も根が半島にある国であった。唐の『旧唐書』によれば日本列島の王朝の交代は648-703年の間に起こった。    

2. 朴炳植:天皇家の秘密と新開日本書紀-日本原記(情報センター出版局,1987,6)

 日本語のルーツは古代朝鮮語だとする韓国の学者による日本書紀の解説

3. 田村圓澄著:古代を考える-大宰府(吉川弘文館,1987) 大宰府を中心に詳しい。大和朝廷との関係には触れていない。

私の文献も引用されている。「また天平の石臼と称される一組の碾磑がある。610年に高麗王が献じた二人の僧のうちの曇徴がはじめて碾磑を造ったといわれ(『日本書紀』推古天皇条),これがその実物とされる。付会の説であろうが,形状と唐代の碾磑との関連から創建期のものとしても矛盾しないようである。(三輪茂雄ほか「太宰府・観世音寺の碾磑にっいて」『古代学研究』108)。三輪茂薙氏は構造的に小麦製粉には不適とされ、その用途を伽藍造営に塗料として使用された朱の生産用の可能性を指摘されている。これまで研究の対象とされることが少なかったが、創建期の遺品らしいばかりでなく、製粉技術の発展を探るうえで注目される。」

4. 米田良三著:法隆寺は移設された(新泉社,1998,5):法隆寺は大宰府から移設したことを建築家が専門的に証拠を挙げて詳しく証明している。

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