リンク:観世音寺碾磑とは


法隆寺は観世音寺から移設されたとは?著者へ質問状

米田良三様

 貴著『新版 法隆寺は移築された』(新泉社) を興味深く拝読させていただきました。私は日本書紀の記事「推古十八年(610)春3月、高麗王貢上僧曇徴・法定。曇徴知五経。且能作彩色及紙墨、竝造碾磑。蓋造碾磑、始于是時歟」をめぐる太宰府観世音寺の碾磑について古代学研究にて調査報告しました関係で、観世音寺に格別の関心を抱いております。また最近、韓国の国定教科書に高麗王貢上僧曇徴が法隆寺で聖徳太子の師となり、また金堂の壁画も彼の作であり、高松塚の壁画も彼らしいとあるのを知り、驚いて調査したところ明らかに韓国当局のあやまりとわかって、法隆寺に関心をいだきはじめた矢先に貴著を拝見して、現在は講堂前にある「天平の碾磑」は移設時に取り残されたのかもと考えるようになりました。

 碾磑なる特異な語は律令研究者の間でも意味不明とされ、長い間主に古代法律研究者の間で論議された経緯がありますが、いまだに不明のままで、推移しております。しかし観世音寺に現存する碾磑なる物体はただ大きい石臼であるだけでなく、その石材加工技術の水準は極めて高度であることを私は調査の際確認して驚嘆しました。わが国で石臼が広く普及するのは室町以後ですが、それらとはまったく次元が違うのが観世音寺の碾磑です。

 しかし私は建築には暗いので建築の実務に携わっている私の知人(大垣市在住 西濃トーヨー住器社長,Tel.0584-75-2081Fax.0584-81-1069)にも読んでもらって感想を聞きました結果につきご報告申し上げます。

1. このような建築物の移築は、現代のように短時間で加工できない古代においては、建築用材は極めて貴重であり、古材の再利用は頻繁に行われていて、決して珍しいことではなかった。(例西本願寺の飛雲閣は聚楽第の遺構とされ、伏見城の建物は京都や近江などに移築された伝承が存在する。)

2. 本来材木は虫食い予防のために伐採適期がある。また乾燥にも少なくとも?年は要したと考えられるから、急を要する場合に移築は最良の選択である。

3. 建築材の運搬方法:九州の太宰府から奈良の斑鳩までの解体された材料の運搬方法としては当時としては瀬戸内海経由が唯一と考えられる。一般に海路での木材の運搬方法は筏である。その場合、木口からの海水の吸水があるが、海水の吸水は材料の変質にはほとんど影響がないものである。それは現在でもこれが外材の輸入に一般的である。とすれば現在残っている材料についてNaClの分析データがほしいところである。筏以外の運搬方法は考えられない。

4. 労力から見た木材の価値:通し柱、梁、桁など大伽藍に必要な木材の調達には大変な労力(柱にする木の選定と採取時期、運搬、加工)を要した。移設は確かに迅速性がある。蓮華王院(三十三間堂)の棟木は大和から運搬されたというがこれも水路、陸路を利用しての莫大な労力と日数を要したと考えられている。

5. 柱と柱の間に壁があった部分、垂木の釘跡、またp.17の束の考察など随 所に説得力がある記述である。

 以上要点のみ書きましたが、御著の移設にかかわる運搬過程の考察はNaClの分析データがあれば更に説得力が増すように感じましたのでご報告申し上げます。場合によっては木口を舐めて見るだけでもわかるかも知れません。

 ご研究の更なる発展を期待しております。

 1998.8.17.

             〒611-0014 宇治市明星町1-13-18

                  (同志社大学名誉教授)

                         三輪茂雄

なおこの内容は1998.8.28.セイシン企業主催の第4回粉体工学フォーラム(於:東京の雅叙園)で報告された。

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