唐招提寺の大石臼
唐招提寺にも碾磑が(だがそれは使用不可能な構造だ)
奈良の唐招提寺にも天平の遺物らしい物体があることを前記『奈良坊目拙解』の編者喜多野俊氏(奈良市在住)から教わった。同寺第81世長老の森本孝順著『唐招提寺』(学生社、1972)によれば、鑑真和上創建天平3年。昭和13年僧坊修理の時、北のはし、いま綱維寮という札のかかる部屋の中央の柱の下から、直径1メートル強の大石臼の片方がでた。これはとうてい人力ではまわらぬもので、たぶん牛などでひかせた今日中国で見る形式のものと想像され、奈良時代のものと推定した。やがて境内から庭石代用となっていたこの片方が探し出され、陰陽があった。柱石の根石となったのが元禄の修理とすれば250年、鎌倉時代とすれば600年ばかりのあいだ離ればなれになっていたのがまたあったわけである。」
1995年に現地調査した。一般観光区域外の庭石になっている。掘り起こしできないから、観察できる範囲で計測した。8分画12溝。下臼が凹部を持ち上臼に凸部がある点で観世音寺と共通している。供給口の大きさ2.2センチメートルは小麦の製粉用にしては小さ過ぎる。観世音寺と同じく下臼面も上臼面も完全な平面で、上臼にふくみは全くない。目の山は平滑で、溝の断面はほぼ矩型であり、これでは数個の小麦粒により溝がつまってしまう。
碾磑の臼面には同心円状に傷が見られる。この傷の存在は観世音寺の遺物と相違し、多少使われた形跡であろう。穀物を粉砕する際に収穫時に紛れこんだ小石によるものというより、硬い鉱物質の感じ。鑑真が渡日した際に唐より引き連れて来た者による制作指導がなされたのであろうか。供給口を通過した被粉砕物は下臼の凹部へと落ちる。この凹部へ落ちた被粉砕物は、その後、溝のある部分へと移動して行けそうもない。明らかに使用不可能である。鑑真和上は失明していた。当時の鑑真の足跡は確かに太宰府・観世音寺に立ち寄った形跡もあるから、観世音寺の碾磑を見てそれを伝えた可能性も考えられるが、鑑真がすでに失明していたとすれば、まさに手探りで指導し、このような明らかなミスが起こったとも考えられる。失敗作のは土中に埋められるのが日本の伝統(?)であるから、その伝統のはしりかも知れない。
唐招提寺の庭石になっている天平の碾磑
(上図が上臼で中央に凸起があり、その両脇にものいれがある、下図が下臼)
下臼の窪みの中に入った穀物は出ることができない構造
上臼の下から見た心棒孔の位置関係