リンク:碾磑(転害)とは?|太宰府・観世音寺|2000年秋遺物発見|
奈良・東大寺の一般観光コースは、南大門側から入るので、見落しやすいが、佐保路(平城京一条南大路)に面して「転害門」がある。鎌倉時代に修理されてはいるが、天平時代創建当時の偉観を残す雄大な門で、近辺の坊舎堂宇その他諸門、悉く炎上すること再三に及んだにもかかわらず、この門だけ焼け残ったのは奇とされている。「転害」の語原には諸説があり、『奈良坊目拙解』(村井古道著、享保20)によると、一説に、八幡大神が東大寺大仏殿に入御されたとき、途中の道路での殺生を禁じたので、転害または輾害と名づげたという。また一説には婆羅門僧上が始めて東大寺に入ったとき、行基菩薩がこの門で迎えた。その姿が手で物を掻くようであったので、後の人が「手掻門」と名づけたともいう。このほか、手貝、天貝、手蓋などの字があてられている。、ところで、もうひとつの説は、技術史的に興味深い。「尋尊僧正七大寺巡礼記に曰う。天平の朝、瑪瑙輾磑、東大寺食堂の厨屋にあり。これは高麗国より貢いだ所である。その西門を輾磑と云う。輾磑は今俗に云う石臼が是である。……輾磑門は西向で、南よりの第三門である。輾磑御門堂と号し、この門の東に唐臼亭がある」。この記述は次の『日本書紀』の一節と合せ考えることができる。「推古天皇の十八年春三月、高麗王、僧二人を献じ、名を曇徴、はじめて碾磑を造る。けだし碾磑を造るは、このときにはじまるなり」。
石臼は約3000年前、西アジアで発達し、シルクロードを経て、中国へ伝わったと考えられているが、これがわが国へ渡来したのはいつか?わが国の製粉技術史上最大の謎のひとつを解く鍵が、この「碾磑」という聞き慣れない語に含まれている。
思いがけないことに、この語の詳しい考証は数人の法律学者や経済史学者の手によって行われていた。そのひとつ、滝川政次郎『碾磑考』には次のように書かれている。「私は自分の専攻する学問の必要から、たへず令義解や律疏などの律令時代の法律書を読んでいるが、此等の書の中には、碾磑という語が屡々見えている」(『社会科学』改造社、大正1)。難解な中国古代の文書に関する格調高い学術論文なので、いずれも理解には骨が折れるが、要約すると次のようである。
中国・唐代の貴族や寺院は、水車仕掛の大規模な石臼式製粉工場を経営していた。水車を回すために用水をせきとめるので、これが農業用灌慨の邪魔になる。政府は禁令を出して碾磑を撤去させようとするが、なかなか利き目がない。ここで「碾」は上臼で回転する方の石臼、「磑」は固定した下臼、上下を対にした一組の石臼を碾磑という。ときには水利施設や水車、建物なども含めた設備全体を指すこともあった。英語で、ミル(mill)という語が石臼を意味すると同時に、製粉工場を意味し、後に、一般に工場の意にも便われたのに似ている。
奈良時代の最新の技術を集めて創建された東大寺にこの「碾磑」という唐の新技術導入が行われたとしても不思議ではない。だがもともと小麦地帯で発達したもので、地の利もなく、操業技術も伴わなかった東大寺では宝のもちぐされとなり、碾の字も輾、転と変って、今は転害門の名を残すだげとなったものらしい。東大寺の末寺のうちでも、同寺の地方進出にもっとも大きな役割を果たした九州太宰府の観世音寺境内には、直径93センチ、上臼の重さだけでも500キロをこえる巨大な花崗岩製の「碾磑」が雨ざらしになって現存する。これは後世わが国の水車小屋で使われた石臼とは、その形態が全く違う。上臼には奇妙な孔がいくつかある。その用途については、中国明代の農業技術書『天工開物』に出ている畜力利用の石臼の図がヒントを与えてくれる。観世昔寺には記録にない謎の碾磑が遺り、東大寺には記録のみ残って、碾磑は幻である。東大寺のどこかに幻の碾磑が眠っているのであろうか。石臼を追う筆者にとって、これは最大の夢のひとつである。(アサヒグラフより)