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三輪茂雄他叙伝(非自叙伝)(このファイル40kB)
(これは自叙伝ならざる、いうなれば他人が私を書いた他叙伝。インタビュー記事として日本粉体技術協会の機関紙『粉体と工業誌』2000年8月号に掲載されたものに、筆者と関係者全部および粉体と工業社の許可を得て氏名など正誤修正を加え、さらに解説を要する個所はリンクをつけました。私自身の再出発のための足がかりを求めての試みです。人生にはあとから気がつくとハッとするような分岐点があります。どちらに向かうかは本人の選択にまかされています。その箇所は青字で示しました。)
同志社大学粉体工学研の源流は?
対談:先達の言葉
同志社大学名誉教授 三輪茂雄
お相手 (株)マキノ 経営企画室取締役 浅井信義氏
司会:創価大学工学部教授 山本英夫 編集担当 大阪府大 佐藤宗武教授
司会: 本日は粉体工学会,日本粉体工業技術協会,世界の粉体あるいは粉体の歴史の中で,本当に多岐にわたってご活躍中の同志壮大学名誉教授でいらっしゃる,三輪茂雄先生にお話しをお伺いしたいと思います。先生は粉体工学あるいは粉体工業技術協会の生き字引だと私は認識しておりますが,幅広い分野にわたるお話しと、その途中途中での様々な粁余曲折なんかもお聞かせ頂く中で三輪先生の人物像が浮かび上がるような記事にしたいと思っております。それで,今日のお話しのお相手は,三輪先生ご自身がお選び下さった,マキノの浅井さんですけれども,お話しに入る前にお選びになったいきさっを一寸ご披露下さいますか。
三輪: すごく悩んだんですよ。いろいろと考えたんだけど,この人が研究室の隣におって,結構いろんなことを知っていて適当にやっていたでしょ(?)。一番大事なのは名古屋大学の神保先生(名古屋大学工学部教授定年後岐阜経済大学教授)とつながっていたことなんですよ。神保さんとは粉体工学の中では一番古い付き合いで,技術評論家の星野芳郎先生が紹介してくださったんですがね。
浅井: 私が同志社に昭和41年に入学した時に,丁度,三輪先生も昭和電工から助教授として赴 任したばかりで,私は先生の授業を2年生から受けたわけで。
司会: と言うことは同志社時代お互いに良く知っていたし,その後,浅井さんが神保先生のところでお世話になり,いやお世話,かな(笑い),ご苦労された部分もありで。
浅井: いろんな意味で三輪先生を外側から,一番冷ややかに見ていたということかな?。
司会: それじゃ,浅井さんから積極的に先生からお話しを聞き出して下さい。
理科少年の故郷と生い立ち
司会: 最初に三輪先生の生まれ育った環境と生い立ちから簡単にお話しをお伺いさせて頂ければと思います。先生は昭和2年に岐阜県でお生まれになられたんですね。
三輪: 養老郡上石津町という所です。すごい田舎で周りは田んぼと山と山の間ですよ。だけれど,これが大変面白い所でして,ここは京都から尾張に抜ける最短の路(間道)なんですね。昔から急用があると京都から山越えで通ったんですね。途中で捕まえる山賊だったとか何とかというのは別にして,要するに文化的な流れがあった訳ですよ。それに歴史的にその一帯は北に向かって越中、加賀、越前、近江を含み、中世には本願寺共和国といわれる本願寺を中心とした浄土真宗の最も強力な勢力圏なんです。そういう意味で戦国時代には養老は信長をやっつけた側なんです。最近テレビを見ていたら長篠の戦いで信長が初めて鉄砲を撃ったっていう嘘ッパチの話がNHKで放映されてんです。だけど,ほんまは,信長や長篠よりも5年も前に真宗門徒衆が大阪の石山本願寺で鉄砲を撃ったと本願寺の文書に書いてあるんですよ(http://www.m-network.com/sengoku/kisyu/teppou.htmlこの時ご先祖樣がわざわざ出かけてたたかった)。困ったもんですね。(辻下栄一編『上石津の方言』(上石津町教育委員会、1997)
司会: ということは火薬が作られていたというわけですね。
三輪: そう,その火薬の原料(硝石)が実は古い家の縁の下の土から取れるというのは昔から養老では誰でも知っていたんだ。火薬を作ってたときの事を子供ながらに知っていたんですよ。あたりまえのことは歴史にのらない。歴史家に文句言ったら返事がなかった。たまたま富山TVで取り上げてね。英語で火薬はpowderでしょう。
司会: そういう意味では古くから文化の交差点のようなところで,しかも人々は何がしかの新進気鋭の意志を抱くような風土というか環境だったんですね。ところで先生の生まれたお宅はどういう所なんですか。
三輪: 親父は彫刻師だったんですよ。木や粘土で見たものをそっくりに実にきれいに作る人だったんですよ。田舎には彫刻が沢山あった。で,オヤジは僕を彫刻師にしたかったんですが,彫刻はさっぱりだめで,諦めたんです。親父も彫刻では家業は立てられないのでショボショボやってたんだ。
浅井: では,先生のご兄弟は何人みえたのですか?。
三輪: 兄弟おれへん,一人や。それで貧乏でしょ,学校なんて行けへん。小学校は行ったけど。
司会: それでどんな子供だったんですか。
三輪: いうなれば理科少年だったんですよ,小学校のときから。先生が面白い先生だったので,家庭訪問で来たときに,何か月も前に死んだ兎を埋めてあったの,どうなっているか見たくてしょう がなくなって,待ちきれず掘り出したらまだ白くなった肉があった。骸骨をきれいにして飾っとった。先生は大いにおどろいた。それに,ポケットにはその頃見つけた石をいつも入れていたんです。きれいな石で親父が火打石やいうて,こうするんやと教えてくれた。この石だけは興味があったんや。これが大学で火打ちを研究するスタートだった。
理科しか興味がなかった。高等科1年になって,陸軍の有力者(野田 豊大佐)の世話で,突然お前学校に行け,金の事は心配すんな(上田石灰株式会社が支援),ていわれて行くことになった。(第一の転機:この助言がなかったら現在はない)
だからこのあたりから履歴書は年をごまかしているんですよ。どうしても数が合わないんですよ,何回もとばしてるから。学校にいったら数学のほか国語があるでしょ。国語をせにゃあかん言われたから,一生懸命勉強した。英語もやらにゃあかん。でも,しばらくして英語が禁止されましたわ。そんなときでも良い先生がおって,こういう時こそ自分で英語をやっとけ,いまなら参考書はただ同然だといわれましてね。これ,後でずいぶん役に立つんですが。
激動の時代を乗り越えて
司会: 大垣市の岐阜県立第二工業学校(現在大垣工業高校)ですよね。小学校を出て,高等科の途中で工業学校に入ったということは,これは中学校と同列になるんですか。
三輪: いや,そんなことはなくて工業の一年生からちゃんと入ったんです。
司会: 普通は小学校を卒業したら中学が5年ありますね。中学に行かなくても工業学校という道があったんですねえ。
三輪: あったんですよ。
司会: それで,小学校では理科好きで,国語が嫌いで,英語が嫌いな少年が,一気に工業学校ですね。ぼくは化学が好きだから化学を選んだ。口頭諮問のときに化学を第一志望で出願する者は一人もおらんかった。君はどうして化学に来るんだと化学の先生に言われて,好きです,と言うと,おおそうかと喜んでいただいた。あの頃は皆んな機械志望で化学は珍しがられた。一番困ったことは。
三輪: 一番困ったことは体操が大嫌い。出来ない。その頃は軍事教練でしょ。真っ先に体育がいる。僕は懸垂だけね,これだけで通った。学校に入ってから成績の平均点が悪いんですよ。困ってねえ。そうしたら面白い先生がおってね,お前 ちっとも体操できんけど,ほかはいい、これからは皆がやるのをじっと見ていて点数付けえって言われてん。それで僕のところはトップの点を呉れた。それ以後は,その点数があるもんだから別の先生が来てもスッと通ってん。岐阜工事にいってもそうだった。
浅井: 普通だったら体育をしっかりやれって尻たたかれるんでしょうが,すごい先生がおられたんですね。
三輪: すごい人だと思いますよ。一昨年亡くなったんですが,アダナはチンピ(チンピラ,不良)といい生前に同級生と会いに行ったときに体操の点の件をバラしたんだ。そうかそれでお前成績が良かったんかと同級生に言われてね。あ、こういう話は良くないね。森総理みたいで。
浅井: それで先生は,工業学校時代にはどんな勉強をされたんですか?。
三輪: 化学です。染料主体の先生ばっかりで製造化学科,今でいう工業化学です。それと,勤労動員で日本合成化学に派遣されて仕事をしていた。そこでやっていたことは爆弾の起爆薬(ペンタエリスリット)で,陸軍の兵隊さんが来て,お前の命もらった,と言われて仕事をしていたんです。二年生の途中からは授業がなくて労働ばかりですよ。あの頃,戦争が激しくってねえ。友人は何人か特攻隊に行った。私はは眼が悪くて駄目で。そしたら陸軍の戦車隊の募集があったんです。親戚の大佐に喜んでもらえると思って言い出したら,当時大垣地区の司令官だった大佐に,バカモンとどなられました。もうすぐ戦争は終わる,おまえは戦争の後の時代を担うんだ。何のために勉強しとるんや一ってね,えらい怒られた。まったく意外な話でした。(第2の転機 このバカモンがなかったら現在の私はない)
司会: やっぱり上層部は知ってたんですね。あの戦時中ですよねえ。やっぱり誰かが先生を見ていて,誰かが引っ張ってくれているんですねえ。後から聞いたらなるほどって分かるんですけど。それで先生は第二工業学校を短期で卒業されて岐阜工業専門学校,今の岐阜大学工学部へ入ったのですね。
三輪: ええ,あの頃は工業学校を出てもよっぽどでなきゃ上へは行けなかった。でも,この時丁度昭和20年で戦争が終わるんですよ。4年生だったのに,お前ら卒業せえ,と言われて一年短縮で卒業したんです。それでも,そのまま今の職場におって仕事せいという命令で,夏休みころまでそのまま日本合成化学にいました。めちゃくちゃですよ。
浅井: すごい時代だったんですね。当時の工専は学科制でしたか?先生は何を専攻されたのですか?
三輪: 学科は電気,機械,化学,土木,紡織とか。私は応用化学。
司会: 工専時代はどんな具合でしたか。
三輪: 昭和21年頃,先生方は元気ないんですよ。皆んな腹減らしてて。終戦直後で教員の宿舎もなくて寮の小さい部屋に僕と一緒に住んでいた数学の先生もおられた。先生が勉強もせずに授業をして途中で式の誘導につまづいたりで,「教官はここで止める」てな調子。こんな時代に付き合っていたら駄目だと思って一年間休学にしました。この休学の一年間は田舎でオヤジの百姓を手伝いました。生まれてはじめて田んぼに入るとき、草履を履いたまま入ってバカモンといわれたり、いうことを聞かない牛を叩いて馴らせることなどみんな新しい経験でした。
田植えの前の田ごしらえに,鋤を牛に引かせる仕事など,春夏秋冬の百姓仕事の一セットを経験できました。全部を記録しなかったことが悔やまれますが、たとえば稲から米までの精選過程を図解した私の絵は博物館で利用されています。このすべてを体験しました。
牛の尻を叩いて農作業に出るが、この直後死の恐怖が・・・
ある日突然牛が猛然と走り出した。その先は高さ約10m崖でヘヤピンカーブだ。私は倒れたまま引ずられた。あわやと思った時、急ストップップ。「アーア助かった」。別の日田圃で農作業中、雷雨が来た。川が増水すれば、板橋だから牛は渡れない。家に帰れなくなる。スワ急げと板橋までくると、激流で渡れそうもない。回り道するしかない。ところが親父は行こうという。仕方なく川に牛をいれて、板橋から手綱を持つが牛は激流に落ちそうになり、手綱一杯。あわやと思った瞬間向こう岸に渡り着いた。2度目の生還だった。
親父が亡くなって母親が独り暮らしの時、もう一度危機が訪れた。豪雪地帯だったから、2メートル位積る。私が四国へ石臼調査で出かけていたとき、田舎から電話が来た。母からだ。「屋根の雪が危ない。すぐ来い」と。行ってみるとその通り屋根まで達している。屋根に登るが到底上がれたものじゃない。やむおえず下の方から掻き落としたがそれ以上進みようがない。そこで作業は危険で中止。母は私が帰ったので安心したらしくそれ以上は催促しなかった。3度めの危機だった。その頃北海道大学の雪の権威だった黒岩教授が同じく雪下ろしで転落死を報じられた。この危機に総てを捨てて駆けつけて呉れた人がいた。粉体工業技術協会教育委員会事務局の井上良子さんであった。もしこれがなかったら私はへとへとになって雪崩に巻き込まれていた筈だ。彼女は私の命
真夏の田んぼで田の草とりをしたときの腰の痛みや、牛の糞を肩にしょって坂道をのぼりながら、こんな仕事をするつもりなら世の中のどんなこだってできると。そして俺はやっぱり勉強するしか道はないとしみじみ考えたものです。ただこの頃の農業は古い時代の農具を使っていたので、それが後に民具研究に入るとき大いに役立ちました。カラウスという米搗き臼もおやじと一緒に作って、それで米搗きをしました。今なら博物館ものです。二宮金次郎はカラウスを搗きながら本を読んだというのをやろうとしたら、頭が上下するからとても読めたものじゃない。あの美談はツクリ話ですね。
食べ物が無い時代で,食料と燃料の木炭を運ぶために岐阜と養老の約40キロを自転車で往ったり来りしてたんです。親父はわりと利口で百姓を始めていたんで飯は腹いっぱい食えたんですよ。終戦前後で皆んな勉強してなかった。
岐阜市の焼け跡をあるいていたとき、むしろを敷いて1人の手相占い師がいた。好奇心から手を出したら、彼いわく。「君は幸せな人だ。金は必要なだけ天から降りてくる。しかし余分にはないぞ」
司会: その時代の方々は皆さんそうおっしゃるけれど,相当に勉強されてた顔をしていますよね。
三輪: いやいや,そういう顔をしてませんよ。ぼく,大学辞めるときにね,教授会で言うてん。ぼくには教授の資格は無いはずなのによく雇ってくれはったと。大学の先生というのは別に高校・大学を出なくてもなれるんですからね。幼稚園の先生は駄目ですけど。教授も助手もみな免許書なしの無免許運転だ。
名古屋大学の学生時代
司会:話を元に戻しまして,岐阜工事を卒業されて,そのまま名古屋大学工学部に入られますねえ。それで名大を卒業してそのまま昭和電工に入社されたんですね。あんまり受験勉強しなかったとか。
三輪: はじめから僕は大学に行く気はなかったんです。一年生の頃から受験準備をしているやつがいてね,僕は冷ややかに見てたんですが,ある男(共産党だったI君)が私に「君は大学に行くべきだ」というんです。そこで受験準備をしているやつの家を訪ねて受験勉強法を教えてもらいました。いまから何ができるもんかという顔して教えてくれた参考書を本屋で揃えて全部ガツガツ読んだ。田舎の家では雨戸を締めて薄暗い部屋にし集中させた。英語は当時英字新聞を一人で読んでいたんですがそれが救いになった。試験でtaxationが税金だと僕は読めたんだ,英字新聞で勉強していたから。受験法を教えてくれた人が落ちて僕だけ通ってしまった。(第3の転機:友人のこの助言がなかったら現在の私はない)
浅井: 大体そういうもんじゃないですか。先生はやり始めたら何でも凝るほうでしょ。
三輪: はい,凝るほうです。試験ならテキストを丸暗記したら通る。あの頃の記憶力はすごい。今考えられんわ。
司会: 名古屋大学の応用化学科に入って専門以外にもいろいろ勉強されたと思うんですが。
三輪: そう,これは一寸前に戻るんですけど,岐阜工事時代,共産党の男と付き合うようになったんです。僕は共産党のやつは気に入らないから,ノンポリでした。彼等は自治会を立ち上げるのに僕を引っ張り出した。そして第一回の全学連大会に出席しました。岐阜には全学連がなかったのでお前が行かないと具合が悪いって。その共産党のやっが面白いんですよ。40年後に会ったら,一人の男は有名会社の社長、一方は高校の先生なんですよ。流れが違う方向に行っちゃうもんなんですねえ。
浅井: それで名大に入ってからはどうされたんです。名大は全学連が弱かったでしょう。
三輪: 大学では武谷三男が大将だった民主主義科学者同盟の仲間に入って『資本論』の勉強を始めた。ドイツ語で資本論を読んだんだけど,これがドイツ語のすごい勉強になったよ。この中に間違っている所があることを見つけたんですよ。経済学者だから仕方ないのかも知れないけどそこで出てくるミューレは石臼なのに,水車となっているんですね。今でも資本論の訳はそうなったままだ。.ロシア語のマルクス著『機械装置の発展史』の本をを調べて分かったんです。
浅井: 先生のロシア語もこの頃ですか? 僕,同志社で先生のところで何故かロシア語の本を読まされたんです。
三輪: そう,君もあの中にいたのか。名大時代に町のロシア語の講習会に行ったら,先生がロシア大使館付武官の陸軍中将でね。
浅井: どうしてロシア語を勉強されたんですか?
三輪: それは資本論を読むためですよ。ドイツ語だけでは面白くないんで,ロシア語と一緒に勉強して、ミューレの所はきちんと読んじゃったよ。
浅井: 名大で先生が卒論で研究室に入られ森田徳義先生のところはロシア語を読ませる研究室だったらしいですね。
三輪: あの先生の部屋へ行って読み出したら俺のほうがロシア語を良く知っているねん。(笑)
司会: ところで先生,名大の応用化学科て卒論はどのようなものだったんですか。
三輪: 卒論は今でいう反応工学でした。「トルオールの気相酸化における金属酸化物の酸化機作」でした。日本合成に行っていたときに火薬に関係してトルオールの酸化をやっていた。先生がこれを耳にして僕にあのテーマにしたんだ。ガラス細工ばかりで苦痛だった。論文はまともじゃなかったですよ。このころはやりの統計的手法で実験計画法なんかを使ってやってましてね。品質管理の有名な先生の講義をわざわざ東京まで聴きに行こうと助教授が言い出してね。学部生が勉強するということで学校で費用を出してくれた。森田研の学生として行ったんですが, そのとき,東京の宿舎でひょっこり会ったのが井伊谷鋼一先生だったんです。当時は機械の助教授になったばかりで,このかたは若い先生で優秀な人だよって紹介してくれた。粉体工学とは知らんかったけど感心して見てた。そのことを後日井伊谷先生に言ったら,「忘れたな一」って。(笑)卒論は先生を適当にごまかして,通ったんですわ。
司会: 聞いていると,何かやらされていることがお茶の子さいさいでやられてきた感じがしますねえ。それで名大を卒業してそのまま昭和電工に入社されたんですよね。
昭和電工時代 粉体工学創成期と人との出会い
三輪: 入社は昭和27年ですね。一年目は研修期間ということで現場でカーバイトの炉を焚く仕事で,これが厳しい。当時は開放炉だったんで吹き上がって爆発すると火傷するでしょ。まわりの人たちはそれがおもしろくて慣れてない僕にやらせるんだ。現場でいろんな問題があって,このときに現場技術者という表現を言い出したんです。星野芳郎の技術論なんてものもやってましたからね。僕,会社人間でしょ,だからなんて言うか東京風とか御本社流っていう空気が気持ち悪くてね。この時期,現代技術評論家の星野先生とよくお付き合いをしましたね。
司会: 星野先生と最初にお会いになったのは,どういう風にですか。
三輪: 最初に対談がありまして,現場の技術者のお話しを先生とやったんです。先生はあの頃はまだ若くて,海軍士官って感じだった。その後,星野先生が立命館大学にいた頃,同志社の神学部が星野先生を呼んで,その時司会をやらされた。案外付き合ってないのに気が合っているんだよ。
司会: 研修期間が過ぎてからの先生のお仕事はどんな風に展開していくのですか。
三輪: 2年後にね,僕は研磨材の粒度偏析からはじまった。当時昭和電工は品質管理全盛期の時代でした。統計の応用でデミング賞を取るなど。その品質管理の現場に行って僕が「品質管理なんてなんにもならへん。見とるだけやん」と言い出したんです。その後,特別チームに3人が抜擢されたんです。
浅井: その特別チームっていうのはどんな物を開発するグループだったのですか?
三輪: ふるい分けの品質管理なんです。あるとき係長が東大の森芳郎先生に相談行ったんですが,突然行ったもんで「先生に剣もほろろに」追い返されてね,彼怒って帰ってきた。突然行ったって無理だよって,ところがおれ神保さんを通して行ったらうまくいってね。後で,おまえはうまくやりおったって言われてね。
司会: あの,神保先生とはどのようなお付き合いだったんですか。
三輪: 昭和電工で星野先生から神保さんを紹介されて,東大の現代技術研究会で会ったんですよ。これが先ですね,その後,森先生の所に行ったのがきっかけで,「粉体」の神保さんに会う訳です。当時,たまたま森先生の門下で流動層の混合をやっていたんだよ。まだマスターかなんかで。その後,粉砕で博士論文を書くんですね。
浅井: ということは,結局,ふるい分けは先生が独自で考えられたんですか。
三輪: しょうがないでしょ。その頃からDallaValleの"Micromeritics"を読んでいた。マイクロメリディックスは粉体工学の基本でしょ。係長が井伊谷先生のところからその本をもらってきたんです。僕も海賊版を買ってもってる。それでその勉強会を始めようって井伊谷先生が言い出してたんで始めたんですよ。
司会: その頃,三輪先生と井伊谷先生とのお付き合いはあったんですか。
三輪: ええ,例のプロジェクトで。それで,マイクロメリディックスって本には絵がなくって字ばかりで,それで英語の勉強になった訳だよ。全訳だけでなく式も全部誘導せんといかんのです。そうなると,原論文も19世紀のも含めて全部取り寄せてね。手書きのガリバン刷りで文献紹介って言うので全訳を回し読みしたんです。それで原著論文を全部取って式を全部誘導して,間違っているところは訳註と書いて載せた。後で粉体工学という本を書くもとはこのときやってた。それと,アンドレ-エフのロシア語の本を読んだんだよ。ロシアはあの頃は優秀だった。平均粒子径の式の誘導を俺が全部やった。皆はやらへんやん。あれを全部やったから,出し方が間違っているのが分かったよ。私が誤りを指摘した論文を出したら間髪を入れずロシアの文献紹介誌に出た。そんな経費を会社で全部出してくれたんです。コピー代は私が会社で最大でした。でも研究会で真面目にやったのは僕一人で,あとは不真面目で(笑)。
浅井: 毎月1-2回名古屋に出てくるなんて普通ではないですよね。そういうきっかけは何だったんですか?
三輪: そのころね,ある本社の偉い重役が,あいつに学位論文を書かせろって,うちの課長に言ったもんだから,「あんたの出張には黙ってハンコ押すからな」って言われてね。
浅井: 私は先生が読まれて,随所に先生が色々なことが書き込まれたアンドレ-エフの本のコピーを持ってますよ。それで学生時代に授業で式の誘導をさせられたのですね。でも,アンドレ-エフの本は私が博士論文を書くときに大変役に立ちました。勿論先生が日本語に翻訳された資料を読まさせていただいたのですが。
司会: 会社の中でも勉強されたんでしょうねえ。その頃のメンバーにはどんな方がおられたんですか。
三輪: いや,会社の中では勉強しません。粉体工学研究会だけです。メンバーとしては,名工研でふるい分けしてた橋本建次さん,内海良治さん,そして理学部の佐野先生(粉塵の)がいましたよね。
司会: そういう研究会に出入りするのはどなたが引っ張ってくださるんですか。
三輪: 井伊谷先生ですね。毎月きて研究会に出入りしてましたから。
司会: 先生はドクターを取れといわれて井伊谷先生のところに配属されたんですか。
三輪: はい,そうです。
司会: じゃ,なぜ井伊谷先生だったんでしょうか。
三輪: それにはある事情があります。じつは,化学工学の東海支部長の恩田格三郎先生の親戚に家庭教師に行.っていたことがあって,俺にいきなり論文を書けよって言われたんです。そして原稿出せって言われてね,研磨材のふるい分けについて出したら京都でやった粉体に関する討論会でボーンと発表でして。それであっちこっちから雑誌の執筆依頼が来るようになっちゃってね。後で,不思議なことに井伊谷先生に論文の下書きが廻って行ったんですねえ。
司会: それで井伊谷先生に掴まったんですか。その頃,名古屋に中部懇話会でしたっけ,粉体工学会ってありましたっけ。
三輪: 昭和三十何年でしたか,八木先生が工業技術試験所でやってたんだ。
司会: 大山幾年先生なんかもその頃ですか。
三輪: あの人はもうちょっと後になるなあ。雲の上の人だったから。
浅井: 大山先生は,確かあの寺田寅彦先生を知ってみえた方でしたよね。
三輪: そうそう。先生に聞いたら知っているって。寺田先生から,粉体っていうもんを勉強せんとあかんっていう葉書をもらっているというので,頼んでさがしてもらった。公害技術研究所の所長のときに手紙を借りて,それを「粉体と工業」に出していますよ。手紙は確実に大山先生に返したけど,あれ貰っておけばよかったなあ。(笑)
司会: われわれは,三輪先生はふるい分けの大家だというイメージでいたんですけど,今までのお話によると独学なんですね。
三輪: えそう,独学ですよ。誰もやってませんでしたから,僕の言うことは皆とおってしまう。それが最終的にドクター論文になったんです(篩分に関する研究で昭和36年工学博士)。そうすると,なんでも通ってしまうという習慣になって,考古学なんかでもでっかい事を言う癖が出来ちゃったんですよ。(笑)。この頃出た大山先生の岩波全書『化学工学』を勉強したんです。2-3年後になって,同じように『化学工学通論』(朝倉書店)を出したんですけど,大山先生に序文を依頼したら,はいはいと書いてくれたけど,先生が渋い顔をしてましてね。「俺の本と競争する気か」と。
浅井: 私の学生の頃は,粉体に関する教科書はなかったですよ。先生の書かれた本には粉砕に関する内容が2章にもなってずいぶん充実してましたね。そしてそこには先生が誘導された式もありましたし。
三輪: それと井伊谷先生が『粉体工学ハンドブック』(朝倉書店)を作るから目次を作ってこいと言われたんで,案をもっていくと,専門分野の執筆者がいないところはおまえが書けって。あの本の中には僕が無理して書いたところがあるんです。それが皆私の分野にされちゃって。
浅井: 確か,粉体工学ハンドブックの件は,井伊谷先生が昭和40年に京都大学に移ったばかりの時でしたね。私も当時のことは少し聞いていますが。
三輪: そしてしばらくして,同志壮大学の話がきた。あのときはすごいんだなあ。奥田先生が決めとったみたいで,もう大学のカリキュラム 決まってますよって見せられてね,まいっちゃったんだよ。
浅井: 奥田先生に.は学会とかで,既にお会いしていたんですか?
三輪:そんなに会ってません。僕,同志壮大学に工学部なんかあるんですかと聞いたら,あるよって。(笑)現場経験があるからプロセス工学やれって言うので,僕は知らんって言うと,勉強したらいいって。
司会: ところで,昭和電工の方は円満退社になったんですか。
三輪: 円満じゃないですよ。僕,年末の31日の夜に塩尻に帰って来たんですよ。部長の家は僕の向かい側で,正月の一日に突然その事を「部長でない森さんに言いにきました」ってね。そしたら部長に内緒だなけど聞いたら怒るだろうな」って言われました。あくる日会社に出たら,「もう部長に聞こえちゃったよ」とね。そのとき部長から,あんた,これからのことをちゃんと整理して引き継いで行けよって言われたんですよ。それで,いままでの実験装置や実験のやり方なんかの手順書を3ヵ月間で全部俺一人で作った。これが会社の引き継ぎの手順書になって,後で『粉体工学実験技法マニュアル』(日刊工業新聞社刊)の基礎にもなったんだ。同志社に行ったら学生実験があったんだ。講座もないのに。で,いきなり4月から何個かの具体的な実験をやれって言うんで,会社の実験装置を持ってくことになった。それで会社にトラック代も出してといったら出してくれたんだ。トラックー台分ドーンと運び出したら昭和電工の方は空っぽになっちゃったんですね。
浅井: それだから,私らが入った時から既にいろんな実験装置が揃っていて,直ぐに学生実験がスタート出来たんですねえ。
司会: ただ会社のほうはそのような事をよく許されましたねえ。
三輪: あの会社は面白い会社でね,鷹揚でしたよ。そもそも昭電入社の時技術枠で採用するというんで,宮川先生が私を推薦したんだ。宮川先生は伝熱の杉山先生の先生でね。あと5-6人応募者いたけど皆落ちた。その後本社の斎藤技術部長だったんだけど,結局裏切っちゃったわけだ。最後に大学に行きますって言ったら「勝手にせい」って言われて(笑)。最後には「よいこっちゃ,君はそうせにゃあかんよ」って言ってくれてね。
司会: まあ時期的には一番いい時期だったんですよね。
三輪: まあね。あの時期はね,僕は限界を感じてましたよ。篩分について全部やっちゃったし,これから俺どうしようかと迷ってた時期で,井伊谷先生は京都へ行っちゃうしで。井伊谷先生からはその後いくつか転出のお話しがあったんですけど,皆んな断わったんです。(第4の転機:同志社に止まった)
同志社大学工学部での粉体工学旗揚げと活動
司会: それで三輪先生は同志壮大学に昭和41年に移られて助教授,42年に教授になられて粉体工学関係の研究室を立ち上げられたんですね。
三輪: 粉体工学の看板を挙げたの僕が最初らしいね。それで井伊谷先生は,rおまえのとこはいいな,勝手に学科の名前をつけられて,俺のところは国立だから計測ってのを付けとかんとあかんのだよ」ていわれた。浅井さん,あなたの入学と一緒でしょ。1,2年目は著書『化学工学』(朝倉書店刊)を作らんといかんかった時なんですよ。それで出す予定の本の原稿で授業をやってたんですわ。
浅井: 私らは朝9時には教室に入らないと教室の戸が閉められちゃう。そうして先生の判が押されたレポート用紙を研究室の人が配るわけですよ。時間前に入った者はいいのですが,遅れた者は授業中に出される演習問題を,自分のレポート用紙に書かないといけないんですよ。それで最後に提出するわけですが,今思い出せば,化学工学の演習を全部やらされていたわけですね。式の誘導も含めてですが。
司会:大学に来られて粉体工学会とはどのよ うな関わりをされていたんですか。
三輪: 粉体工学輪講会を毎月やってましたよ。何回やったか分からないけど相当続いた。うちの卒業生をいっぱい出してね,いわゆる文献を訳すわけだけど,京大の連中もいっも勉強にきてて,田中書之助先生,湯先生,増田先生,あの人達も学生やった。金岡先生や江見先生も時々きた。同志壮大学でやると会場費がタダで,きれいなんで皆喜んできよって。
司会: 先生は東京にもずいぶんお出になっていらっしゃったでしょう,教育委員会とかなんかで。昭和46年の粉体工業懇話会の発足には先生は参加されたんですか。
三輪: はい。懇話会のときは別に東京で東畑先生と川北先生に会いました。これ岡山でもやっていたんですがね。粉体工学懇話会ができる前から講習会を何年かやってたんでね。教育委員会はそのころ講演会が中心で,よう儲かってね。独立採算だったよ。そのうちに,うちの名簿を分科会グループ会が上手に使い合って金儲けしようとしたわけですよ。それで頭にきて,だれがやるか一!って,放り出したんですよ。
浅井: 当時は懇話会の時代でしたから大変儲かったことでしょうに。
三輪: そう,儲かった。協会になってから,儲かった半分を納めて,半分がこっちにきてそれを一年以内に全部使えとか,使い切れなかったら召し上げだとか,いろいろな規制がきたんですよ。これはもう面倒臭かったし,アホらしかったんで放り出す気になったんです。それで教育委員会もやめたんです。別に井伊谷先生と喧嘩したわけじゃないんですよ。ただ,なんで協力せんねん,と機嫌が悪かったんですよ。
司会: 工業会も京都に本部があるんですね。
三輪: そうなんです。実は思文閣を京大と同志社の間に探したのもそのつもりなんですよ。でしょ。東京の事務所は徳寺の命尾さんと行ってや二人で決めちゃった。おまえ,またやったなってて言われたけど。その頃はは良かったですよ,好きなことができたんで。(笑)
司会: 先生にも他の大学へ転出の話しはいろいろあったんでしょうね。
三輪: それは聞いてます。国立からもいくつか話があって。でも国立大学は窮屈にきまっている。「私は同志社が好きですから」で通した。
浅井: 生臭い話もあったんでしょうね。
三輪: きくな。
浅井: ところで先生と徳寺工作所の命尾社長さんとのお付き合いはいつ頃から,そしてどんなきっかけからですか?
三輪: 最初のきっかけは,昭和電工におる頃,ひょっこり親父さんがやって来て,僕に顧問になれ,そして取締役にと言ってきたんだ。昭電時代には会社に内緒でしたよ。工場建設設計なんか僕が図面書いていました。僕の設計した工場でどえらい品質がよくて景気良かったのがあったけど,別の会社に取られてねえ。こうしてチョコチョコやってましたよ。5,6年前まではね。
r粉体と工業」誌との関わり
司会: 先生は「粉体と工業」に最初から関わりをもっておられたんですね。第一号ができる状況はどんな感じだったんですか。
三輪: 高橋社長)に聞こうと思ったのに今日来てへんね。なんでか知らんがM徳寺工作所の工場に来て,そのとき僕がおったんだよ。
司会: 命尾社長が第一号に書いてますよね。
三輪: あれ実は僕が書いたんです。ゴーストライターですよ。昭和電工であったことがでていますよ。ゴーストライターと言えばもう一つ面白い話があるんだ。隅野隆子(スミノリュウコ)ってのが。あれは,粉体工学会誌に出した論文が一部修正になるんだけど,学会誌の修正は面倒臭いから,違う人がうまいこと説明したという格好にしたということなんですよ。編集委員の荒川先生が,あれは誰だって聞いたことあるんですが,あれは僕の知らない偉い先生ですって誤魔化したきりです。隅(コーナー)野隆子,よ一く見たら分かるんですよ。バレてるかなあ。(笑)粉体と工業のほうは編集長ってことで一人でやっとってん。一時私物化してるなんていわれてね。それで間もなく辞めたんだ。
司会: 昭和54年には協会の正式の後援誌になり,その翌年には正式の監修誌となって編集委員会ができたんですね。初代編集委員長は山下憲一さん。うるさいので最初は高橋社長がかなり気にしてましたよ。部数も出なかったですからね。
司会: 一時は危なかったですよね。
三輪: そう,本当に危なかった。それと発行が遅れて遅れて。
司会: あれは深刻だった。最初の課題は月の初めに出すって。よくがんばったですね。今じゃ32巻,たいしたもんですよ。
石臼と鳴き砂の出会い
司会: 大分時間も経ってきたんですけれども,何といっても先生には石臼と鳴き砂のお話しを伺わないといけませんね。
三輪: 石臼の方は,さっき言った大学時代のマルクスのミューレから始まったんだ。同志社に来るまで空白期があったけど,会社にいるときに僕は現場の連中と話すのが好きだった。ある日一人の男が「三輪さんは粉砕の専門家といっていばっているが、蕎麦は石臼でなきゃダメダジ。」といって挽いた蕎麦を喰せてくれたんだ。
僕は蕎麦好きじゃなかったからその時はあんまり関心を示さなかったんだ。ところが大学へ行く前日にその男が新品の石臼を持ってきて,「大学へ行けは暇だろうからこれ研究してくれや」と。彼は私に指示した神様ですわ。それで大学へ来て突然臼の問題点が見えてきたんだ。岐阜県の家に転がっていてた目の刻みは8分画なのに長野県は6分画だ。九州の親戚から送ってもらうとまた6分画。なんでヤ?。この発見は今では通念になっているが誰も知らない秘密だった。そこでミューレを思い出したんですよ。石臼を調べなあかんって思って女子大に行ったんですけど,そのとき紹介してもらったのが篠田統という当時75歳の食物学の偉い先生だったんです。石臼を調べたいんですけどって言ったら,それをやっている人はいないから,あんたやってよって言い出してね。文献なんかすぐに出してくれるし,紹介してくる友達は皆70歳以上のその分野の第一人者で達観している人達だからなんでなんでも教えてくれるんだ。結局,民俗学の宮本営一さんの所へ行ったら,いまそれをやろうと思っているんだ。「民俗学だけじゃアカン。物を科学の目で調べなアカン。あんたやってよ」って言われてね。民具学会ができる時期で一斉にやろうとしていたんだ。それで全国から資料が僕のところに来ることになったんだよ。全国を調べて歩いた。丁度家庭の中から臼が放り出される時期だった。そうするとだんだん勘が働くようになってね。臼の出そうなところが分かってくる。臼は人を呼ぶという俗信ももっともだと思うようになった。見知らぬ土地でよその屋敷をジロジロみていると、あやしい奴だとオバチャンにとがめられるから、訳を話すと、そうかそうか。そのうち隣のおばちゃん達が寄ってくるんで説明してやると井戸端会議が広がってさらに臼の在りかの情報が集まる。もう面白くなっちゃって。
浅井: 先生そのころ大学のキャンパスで石臼も作っていましたよね。
三輪: そう,作り出したんですよ。一般教養の建物の間の所で,全学部の教授が通る所でね。ある先生が通り掛かってそれは碾磑とも呼ぶと言うんです。碾磑は石臼のことらしい。昔九州の太宰府に碾磑なるものが来たって日本書紀に書いてあるんですよ。それは飛鳥(あすか)の石亀の時代ですよ。高麗にもあるとか,えらい騒ぎになって。このへんのことは考古学の人はだれもやってない。それでいま,僕は考古学のなかに大論議を巻き起こしているんですよ。
浅井: 石臼は最近また注目されているんですね。展示会等で良く出品されてますし。
三輪: そう,以前,井伊谷先生から1977年には化学プラントショウ、次ぎには第1回粉体工業展(1978)の粉体工業協会のブースで臼を紹介してほしいと頼まれて,石臼コーナーを作って歴史やら臼の目立ての実演とかお茶や蕎麦挽きなんかもやりました。そうそう,石臼で作らないと出来んもんがあるんですよ。この黒いもん(火口)ですけどね。(三輪先生やおら火打ち石を取り出し鉄片と打ち合わせて火花を出し,その黒い綿のようなものに火を付けて見せてくれる。一回で見事に着火。一同感嘆の声) 左手に火打ち石と火口,右手に鉄片を持ち見事に黒い綿に着火するところを見せて戴いた。
浅井: ほう,その中味はなんですか?
三輪: 火口(ほくち)だ。これは不思議なことに誰も知らないんですよ。これはね,黒色火薬と同じ成分なんです。モグサ(艾)にカーボンと硝酸カリウムがほんの僅かに入ってんの。モグサは伊吹で作っているし,硝酸カリウムは縁の下にあることを田舎のお祖母ちゃんが教えてくれたんだ。こんな風にパッと着くのは日本では忘れ去られているんですよ。鳴き砂の調査で中国の敦煙に行ったときに骨董店にぶらっと寄ったら,こういう袋にほんの一握りあったんだよ。私はこれをやっていたから一目で分かった。
会: 先生,その鳴き砂はいつ頃から始められたんですか。
三輪: いつだったかな一。大学2年目くらいですよ。ある学生がテレビで鳴き砂ってのがあるって教えてくれたんですよ。高校の先生(仙台在住渋谷 修先生)がやってたんです。それで冬の最中に琴引浜へいったんですが,その時は砂が湿っていて鳴かなかった。琴引浜が鳴き砂やということはその時に知ったんです。
浅井: 要するに,鳴き砂ありますよっていわれて,これは面白そうだと感じてですね。
三輪:そう,面白いだけで,なんじゃな一思って,それだけだったんだ。鳴き砂と環境の関係を考えるなんてもっと後の話しでね。春になって砂を採りにいったら今度は良く鳴くんですよ。しぱらくしたら,その浜に遊歩道を作るって新聞に出たんです。遊歩道作られたらいっぺんに駄目になるから町長宛に公開質問状を出したんですよ。そしたら町長もびっくりしてね。春先になら鳴くというのでまた出かけた。日高君もそこに行ったんだよ。それで彼はそこの本当にいい状態を知ってるんだ。僕らもあのとき最高の鳴き砂体験し、感激した。
司会: なぜ砂が鳴くのかというのは,もう研究に入っていたんですか。
三輪: 日高重助教授が解明したんだよ。そういうことは僕にとっては当時はどうでもよくって,遊歩道を作ったら鳴かなくなりそうだと。
司会: きれいだから鳴くってことは直感的に分かっていたんですか。
三輪: そんなことは知らん,考えてませんよ。ただね,環境問題の基本文献であるEnvironmentの表紙に鳴き砂が書いてあったんです。当時アメリカに行っても全然知られてませんでしたけどね。今はインターネットになってからは大分教えてくれる人が出てきましたが。アメリカ,オーストラリアそれに東南アジアにもきれいな砂の海岸がいっぱいありますよ。そして皆マナーがよくて浜辺をきれいにしているんですよ。
司会: 確かに仁摩町の浜を裸足で歩いてみた。よく 鳴きますね。
三輪: あそこは人が少ないから良く鳴くんですよ。琴引浜はあまり鳴かんですね。この砂が鳴く音は400ヘルツで断然低い周波数で鳴った。鳴り砂っちゅう人も多いですが、鳴り砂は万葉集にあると高名な国文学者がいったというのは、ウソでした。いろいろ調べたら,初めは歌う砂だったんですよ。
司会: ところで仁摩町の砂時計を作るいきさっはどうなんですか。
三論: あれは竹下さんの「ふるさと創成資金」のに乗っかって,サンドミュージアムを作る話で,砂時計を作るって相談にきた。そのときは俺知らんよといっとった。そしたら5千万円の予算がついたって。そんな話しから始まったんよ。僕,粉体じゃなくてほとんど粒をやってたでしょ。それで,ここではテープ年表の話からしとかなあかん。テープ年表は千年を1センチメートルにすると100年は1ミリでしょ。この1という数字が大事なんですよ。粉体工学は顕微鏡の世界からはじまる。1mmは顕微鏡では巨岩ですよ。だから人生を1ミリとする。人間の目で粒がみえる限界は、目の分解能の0.1ミリ。それ以下は粒々が見えなくなるから粉体。それで地球の歴史が46億年とすると46キロメートルになる。この46キロは人間の体力の限界でしょう,マラソンなんかを考えると。それで砂時計も面白いんです。砂粒は0.1ミリで,あれは粒と粉の境なんですよ。そしてオリフィスの口径は流出限界の5倍より安全をみて一寸大きい0.6ミリですね。この砂はふるい分けして1トンあたり5千万ってものすごい値段ですよ。結局は総計で1億円までいっちゃったんだよ。法外な請求をした会社があったらしいが,あんなんで儲けたらあかん。
浅井: それでオリフィス部での摩耗はないんですか?
三輪: 今もずっと流れ続けてますよ。もう10年を越えたから工業製品の超寿命ですよ。摩耗して時間は狂うんだけど,コンピュータで制御してるでしょ。そんなこんなで僕はもう二度と行かんわって言ってるんですけどね。いまは元徳寿の志波さんが単身で居るけどね。
司会 :先生これからは何をやろうとお考えですか。
三輪: 一生懸命豆腐をやらなあかんな一。あれは去年の4月ごろ,突然うちの家内が家へ臼をいっぱい持ち込んだけどあれ回さないのかって言うてね。それで私豆腐を作ろうと思って始めたんだけど,回すのしんどいよって。それで筒井理化学器械Mさんに頼んで現代人に合うように機械を作ってもらった。それでやったらうまくいってね。
司会: 今までの三輪先生のお話しを伺っていて,結果こういう流れだったんだなって思うんです。その時,時,一生懸命やった結果行き着いているんですね。お父さんが彫刻家だったから先生も石臼くらい作るだろうって短絡的に思うんですが,r粉」って所に着いたのが分かるんですよ。そして豆腐に行き着いているんだ。
三輪: 初めから豆腐はやらんと思っていた。あんな面倒くさいもん。ところが,以前に僕が豆腐の臼を作って島根で実演して旨かって話をしたんだ。その話が広まってしまって,他所で作っていてうちで作らんっていう方はないって。手伝うしかないでしょ。それと京都の有名な店に行って食べてみて,これはまずいとか言ってね。そこで鳴き砂が出てくるんですよ。丹後半島では水をきれいにしょうとしてるんですよ。それで役場の人にきれいになったところで塩をつくればいいだろうなって言ったら,もう作ってますって言うんです。そして苦汁も作っているんですよ。その苦汁で豆腐を作るとソフトで丹後の海の香がほのかにしてるんです。やっぱり鳴き砂と豆腐とっながりがあるんだって。
司会: 歴史とか伝統文化をちゃんと伝えていかないといけないんですね。
三輪: 神保先生も定年になってから科学史をやりたかったんでしょう。先生にお会いしてしゃべろうと思ってたよ,あの人は僕の一番の理解者だったよ。そしてこの7月には神保先生の代わりに星野先生を呼んで大垣でシンポジウムをやることになって。
浅井: お互いにそうでしょう。それはね,僕が神保先生の本を整理していて良く分かったんです。先生の持っていた本とにて非常に大事にしてみえた資料はやはり「科学技術史」関係のものが多かったです。
三輪:神保先生は私の最終講義のときに一番前でえらい熱心に聞いとった。あのとき質問したのはあの人と菅沼さんだけだったよ。
お話しはまだまだ続く。世界の豆腐事情,臼,歴史,文化,文明,技術,環境,幅広い人脈と豊富な話題が。山本先生と浅井氏の息の合った司会進行で,5時間余のお話しは,まるで3次元ジグソーパズルのように殆ど無限に広がりつつあった。まとめ役の能力の限界を遥かに越えて。
記録日時:平成12年5月18日(木)場所:京都ガーデンパレス原文の筆者は編集担当:佐藤宗武(編集委員)