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本願寺側から見た織田信長 (本願寺側から見た信長年表

      本願寺文書と西美濃の児童遊戯の民俗の対比から

 火縄銃の構造

秘密裡に縁の下の土を掘る『硝石製錬法』(文久3)

上図のカラー版

 民俗学に出てこないもう一つのマル秘民俗がある。これはその一例である。

1. 昭和20年までひそかに語り継がれた秘史

 信長の時代,美濃、飛騨、近江、加賀、越中、越前は当時の本願寺の強力な地盤だった。養老郡上石津町での私の子供時代には、.下山の唯願寺住職が門徒を率いて石山寺合戦や長島の戦で信長と戦った歴史が生々しく語られていた。「お寺の住職に従った村中の壮丁は長島で全滅し、老人と女だけ残った。お前たちはその生き残りの子孫だ。お寺の柱の傷は信長勢の矢の跡だ。攻め込んで来た連中をたぶらかし、お寺を焼いたように見せかけるため、下の田に藁を積んで火をつけた。東山から眺 めていた信長は喜んで帰っていった。 」 お盆にはお寺でありがたい御文が朗々と読まれ、門徒は平伏して聞いたものだ。それは石山合戦へ参加したことへの教如上人の感状だった。戦後それは中止された。住職によれば理由はお参りがなくなったから。

2. 悪童の火遊び

 子供の遊びは民俗学の対象になるが,悪童の遊びにも歴史がある。古い家の縁の下にもぐって、ほこりをかぶった白い結晶をあつめ、これを炭火にくべて、パッバッと美しい火花を出す悪童の遊びがあった。年上の友達が教えてくれる遊びで、大人に見つかると「小便塩だから、きたない、よせよせ」と叱られた。残念ながら、その家はなくなったが、私にこれを教えた証人がまだ健在である(90才)。この白い結晶が、その昔、火薬原料として珍重されたことを知ったのは、私が燧と火薬の歴史を考えるようになってからである。このような遊びが残っていたのは、その昔各地で煙硝が製造されていた名残である。明治時代には派手に青年は花火を競争でつくったという。  今でこそ火薬製造は珍しい話だが、当時は誰でも知っている「あたりまえ」のことだった。私が火打石で火を起こすと誰でも珍しがるが、これもあたりまえのことだった。忘れてしまっているのである。火打ち三点セットの火口は火薬の一歩手前である。戦国時代の文書に詳しい記載がないのも当然だ。日本の家屋と気象条件で縁の下で硝化菌の分解生成物の硝酸アンモニウムが土に浸透し、何十年の間には、縁の下で濃縮、結晶化する。屋内の焚火の灰から来る炭酸カリウムと反応して、部分的に硝酸カリウム(硝石)も生成するので、子供の遊びに役立った。自然本来の機能が生きていた頃,土の毛管現象が造り出した自然の科学物質の傑作であった。煙硝製造法の古文書『陽精顕秘訣』^文化八年(1811)に曰く。「古き山家の縁の下には、必ず煙硝あり」と。簡単に危険物が造れるので、昔は秘密にする必要があった。だから縁の下の土を掘った話があっても、なぜか知らされていなかった。だが現在の日本の家屋構造では生成しそうもないから心配ない。縁の下の土を掘って、草木灰をまぜて、水を加え、濾液を煮詰めると、硝石が結晶になって析出する。食塩も一緒に析出しそうだが、塩化ナトリウムと硝石(硝酸カリウム)の溶解度の温度変化が違うため、硝石だけが析出する。この溶解度曲線は初等化学の教科書には必ずのっているが、なぜかそれが火薬製造法の話だとは化学の先生は教えなかった。現在は国際過激派が爆弾製造法をインターネットで公開している時代だ。マルヒ事項でもあるまい。

3. 戦国時代の火薬製造工場

 日本の戦国時代は世界一の鉄砲技術と鉄砲保有国だったといわれている(ノエル・ペリン著川勝平太訳『鉄砲をすてた日本人』(紀伊国屋書店、1984))。しかし「鉄砲も火薬なければただの筒」。戦国時代以来、明治21年まで塩硝産地であった富山県東砺波郡平村で全国的に散逸した資料を集約した報告書『塩硝一硝石と黒色火薬)全国資料文庫収蔵総合目録』(1995)、平村郷土館一がある。これによると鉄砲伝来当初には、火薬のひとつの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入したが、まもなく本願寺の仲介で国産化した。それは日本独自のすぐれた技術だったとある。 悪童どもの出番だった。西洋や中国では気候風土の違いで,家畜の糞や壁土から採取した。確かに日本独自の技術だ。別の塩硝の産地として東北地方では相馬藩が幕府に献上したり,東北諸藩へ輸出していた。

4. 法敵信長打倒の激しい戦い

 私は図書館で『本願寺文書』をあらためて読んでみた。当時の本願寺の顕如や教如という高僧たちの生の書簡や日記を読むと、その淡々たる表現ゆえに伝わる戦国時代の切迫した情勢が生で伝わってくる。現代の小説家の作り話を読むより、はるかに迫力がある。「法敵言語道断之次第無念至候」「よろず一味同心に申し合、法敵を平らげ」「大坂本願寺は敵対する。(信長)欝憤(うっぷん)少なからず。五月三日大坂勢鉄砲千挺をもって打掛打掛戦いければ信長勢思いもかけず逃散」。これは天正4年だから何と長篠で武田を破った翌年のことだ。日本史で一般に習う長篠で信長が鉄砲を使ったのは,それから5年後のことだ。私は図書館で二日間、夢中で読んだ。信長側からの記述だけからは分からなかった事実だ。表1のような年表をゆっくりたどると、つかず離れず信長と戦ったり、和解したりしながら門徒に残忍な仕打ちをなす信長をあやつるための火薬だったと理解できた。現代マスコミの無批判な信長礼賛を門徒は許せない。

5. 西濃地区の特異性

 美濃の国は西部の西濃から富山へ抜ける地帯は,戦国時代には山賊が出没する無法地帯だったという。そして本願寺と信長の戦記に必ず出てくる雑賀衆はもともとこの地方からの出稼ぎ者から構成されていたという。険しい山岳地帯をかけめぐることに子供の頃から馴れていたからであろう。この伝説は第2次大戦まで生きていた。岐阜県下の1市5郡(大垣,不破,海津,養老,揖斐,安八 )は福井県の敦賀の第9師団に属し,歩兵を主体とする軍隊で,日本最強の軍隊とされていたことにつながっていたわけだ。

(美濃民俗文化の会:美濃民俗,第358号(1997)に加筆)

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