浄土真宗のお葬式に思う

 20日に親戚のお葬式があった。98才まで元気で生きてきたタフな人で、なんでも「威怪(いかい:地方弁ででっかい)」ことが自慢だった名物男だった。腰を痛めたとき見舞に行ったら「おれはイカイ鍬で田起こしをやって腰を痛めたんだ。その鍬はただものではない。鉄工所に特注したもんだ」とやっぱりイカイ話になる。病院に入っても自分で勝手に帰ってきたり、病院内を裸で歩きまわったりで、家族の苦労は大変だったろ。近年老人病の一つで、買い物癖がこうじて家財道具などめっぽう高い値段で骨董屋にだまされ、ついにどの居間も応接セットや家具でイッパイ。どうしようもないとブツブツだった。

 すべてが終わって白骨になった姿に病んでいる箇所だけは燃え残るというが、スッカリ燃えつくして、咽仏もなく人生を燃えつくした感じだった。親鸞のお文(名文)

「野外におくりて夜半のけむりとなしはてぬれば

    ただ白骨のみぞのこれり。

       あわれというも中々おろかなり」

と真宗門徒の心にひびく。

 老人の葬式は孫の親睦会とか。昔は 葬式で自宅と隣家を解放して村中から集まった婦人たちが料理の腕前を競い、名人おばちゃんが五目飯やみそ汁、煮物、漬物など、さながら料理講習会だったものだが、今は出前で済ますので、伝統の料理は姿を消した。伝統料理の一つにソーメンがあった。この地のソーメンのタレは酢味だ。有名な食物史の先生に話したらおおいに驚いた。

    「それは室町時代にあった。今は九州の片田舎に残っているのを聞いているが」

と。

 ところが今回はただのソースだった。まずくてドーシヨウモナイ。抵抗を感じて手をつけなかった。これを毎日(同じメニューをたべさせられているお坊さんが哀れだ。お坊さんはそれぞれの地の文化の担い手だったはずだ。お行儀よく黙っていないで文化についても語るべきだ。

 もう一つ気に入らないことがある。確かに火葬場は人家を避けて山あいに建設され、クリーンである。お坊さんが最後の読経するまではいいが、つぎに係員が軍隊式敬礼をして太い声で

   「ナンマンダブツ・・・・」

これがなぜか気味悪い。ついで釜のドアが開いて引き入れて無常の戸がしまる。スイッチ オン

ボッと火が入る音。私はその寸前に外へ出た。

 このときなぜか最近建設された京大病院地下のX線撮影場の風景が目に浮かんだ。火葬場と同じ建設方式だ。

 美意識も本物のこだわりもそしてプロの誇りも忘れて、商魂だけの連中を親鸞上人はなんと見るだろうか・・・五濁悪世。

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