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星野芳郎氏との出会い

 岐阜工業専門学校時代の学友との議論で技術の方法論を学ばねばということから、星野芳郎氏の技術論ノートなる本を借りて読んだのがはじまりだった。「 技術とは生産的実践における客観的法則性の意識的適用である」という難しい文章に出会ってそれが生涯頭にこびりつくことになった。

 大学時代にもたびたび学友の間で話題になったが、星野芳郎主宰の現代技術史研究会に入会したのは会社時代だった。実際の現場での経験を機関誌に投稿した。その後現場経験がある大学出ということで、ある雑誌のインタビューに呼びだされたとき初めて対面 した。さっそうとした姿が印象に残っている。「粉体といえば東大で粉体をやっている神保元二というのが会員にいるよ」と紹介された。私はすぐ訪問する癖があったので、神保さんを田園調布の自宅へ夜分に訪ねたのを記憶している。その後神保先生とは粉体工学会でたびたび会うことになるが、不思議なことに互いに現代技術史研究会を話題にすることはなかった。

 現代技術史研究会が松本市で開催されて、近くにいた私が呼びだされたが、このとき先生は不在で、会員だけだったが、そのムードにいやな東京臭を感じて脱会することを宣言し研究会とは縁が切れた。会員だった友人によると先生は「退会とはいかにも惜しいといっているよ」だった。

 会社から京都の同志社大学へ移った頃、星野先生は同じ京都の立命館大学へ来ておられた。あるとき大学の神学部のチャペルアワーの講義に星野先生が来られるのでと司会を頼まれたことがあった。「よく大学は仲間を知ってるな」とは先生の言。

 岩波文庫で当時のベストセラーだった『マイカー』が出た頃、大阪で現代技術史研究会の会合があり、その帰途先生の車に便乗させていただいた。「先生が高速で事故でもやったら話題になりますね」と冗談を言ったものだ。

 それから30余年を経て、星野先生に会ったのは何と神保先生の追悼式だった。

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