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希代の名工-石工太良兵衛

       -- 信州石工の流れを追う旅 ーー 
 石臼は霊が籠っており、人を呼ぶという。ことに名工の作ともなれば殊の外。私は3000点に及ぶ石仏を作ったという希代の名工が親爺のために作った作品に1977年に出会い、その源流を追って信州の高遠(たかとう)にいたり、その確証を得ることが出来た。しかもその縁が2004年までも続いている縁の深さに驚嘆させられる。

 曽根原駿吉郎著『太良兵衛の石仏』(講談社,1971)

 長野県高遠(たかとう)http://www.town.takato.nagano.jp/kawaramn.html(石工の名は石仏研究者の間で広く知ら、れていおり、守屋貞治は『貞治の石仏』で有名になった。)現在の上伊那郡高遠町には,昔石切稼ぎが多く,全国に出かけたので,その名がひろまったものらしい。それらの石工は,石臼もつくった筈だ。石臼を追えばその足どりもつかめるかも知れない。信州臼はその形態に特色があり,見は分けやすいからである。そんな仮説を追って信州および周辺を調査して高遠へたどりつき、動かすことの出来ない証拠発見までは長い道のりはだった。これは僅かな手がかりで人物を見つける探偵に似た作業だった。

 
2. 太良兵衛の石仏

 『貞治の石仏』(講談社刊)の著者,曽根原駿吉郎氏が,雑誌『銀河』に「石工・太良兵衛」について書いておられた。その作品リストのなかに,石塔や石仏にまじって石臼があることを研究室の学生だった森貴英君が発見した。彼は図書館好きの学生で、思いがけない石臼に関する内外の文献を見つけて来てくれた。その一つが『太良兵衛の石仏』という同じく講談社の本であった。曽根原氏によると太良兵衛は江戸時代の文化、文政のころ,越後国魚沼郡五十沢村舞台で活躍した石工であるが,彼が一生を通じて制作した石造物は実に三千点におよび,その超人的な仕事に驚欺させられるという。彼の作には必ず印がある。『大福細工覚帳』に丹念に記録もされていたことによるもので,曽根原氏はその文書にもとづき,石仏を中心とする彼の作品を現地調査された。そして,太良兵衛が信州・高遠石工の系統をひく石工であることも明かにされたのである。氏は雪深い同地を何度も訪れて、太良兵衛の墓石を発見し、その法名は「茲雲玄道信士」嘉永三年(1850)十月三日没、61才まで確認されている。さらに太良兵衛の父は吉右衛門は高遠から来ていた出稼ぎの石工だったことまで確認された。

 後になったが、曽根原氏は長野県穂高町有明出身で1918年生まれだから私より10才も上で富士電機におられたという。

 石臼を追う筆者にとって「高遠石工の系統を引く・・・」となれば私の出番だ。

 曽根原氏の業績はきわめて重要であった。現存する石臼は殆どが無名の石工の手になり,その作者を追う術(すべ)はほとんどなかったからである。氏の著書には太良兵衛の刻銘入りもあるという。これはジッとしてはいられない。さっそく出版社に連絡して曽根原氏の住所を確認し,ご教示を仰いだ。折返し返信が来て,大部の『大福細工覚』の抜書きも送って下さった。たいていの場合著者に連絡しようとしても連絡がつかないか、返事をもらえないか、漠然とした返事が来るのが普通だ。)膨大な石造物リストのなかに,石臼47個が出ていた。もうじっとしてはおれない。現地探訪の機会を待っていたが、1977年10月13日、まったく偶然の機会から私は見知らぬ六日市へ出かけることになった。臼には霊が籠るという。私はこれは太良兵衛の臼が呼んだと現在も思っている。

3. 訪問のきっかけになった麦飯石
 当時私は日本粉体工業協会iの東京事務所をもっていた。ある日有名な浄水器メーカーのセールスマンが私の新聞に書いた水の話題を見て、名水をつくる麦飯石(ぱくはん石)なるものを使った浄水器のカタログを携えてやってきた。そのカタログにはすばらしい渓流が出ていた。「この渓流にある石ですか」と聞いたらいう「そうです」という。それはどこかと聞くと「新潟の六日町付近だ」という。「その付近の水はほとうにうまいのですか」と聞くと「もちろん」と。「じゃーその辺に行きたいところがあるので、明日行きます」と言うと、「ご案内しましょう」という。その石は駒ケ岳北山麓の花崗岩だという。翌日上野駅で待っていると、彼が現れて「急用ができてご一緒できませんが」と、何だかそわそわした気配だった。なんかあるなと察したが後になってそれがバレた。

 当時、信越新幹線はなかった。東京から上越線で約3時間,スキー場で有名な湯沢をヘ経て六日町に着くが、初日はそこを通りすぎJR小出(こいで)で下車、バスで駒の湯まで入った。当時「うまい水を作る石として騒がれていた麦飯石の産地というが、現地付近を川の渓流に沿って行くと田圃の中に石ころが積み上げてある場所があった。いまどき田圃に砂利が積んであるのは不自然だと思ったがあまり気にもせず上流へ歩いて見た。

 

 確かに渓流だがそれらしき気配はなく、山歩きでくたくた。

山歩きには自信があるという日本粉体技術協会の井上良子さんもこの辺でふらふら。

2004.12月の現地情報

 宿で旅の目的を話すと、なんと「東京から来た連中がうちの田圃に無断で石くれを積んでいるんです。それが彼らの正体ですよ。あれはただの石ですよ」。上野の駅でそそくさと姿を消した連中の正体がそれでわかった。多分故郷の花崗岩がある渓流で石の商売していたらしい。これ以上の深追いはヤバイのでここで追求はストップした。

4. 飯綱考古博物館 六日町のHP

 翌日,六日町市の駅に降り立つ。見知らぬ土地で途方にくれて、何か手がかりを探さねばならぬ。駅の案内をぼんやり見ていると,飯綱考古博物館案内が目に入った。とにかくそこに行くことに決めた。館の前には見学者らしいおばさんが一人いて、「どうも留守らしいですよ」という。お宅の戸は開いているが,いくら呼んでも返事がない。やむなく庭を見てまわっているうち,ご老人が錠をぶらさげてゆっくり博物館入ロヘ向って来るようだ。この方が館長さんだった。若井義嗣氏(現在は若井 綾さんが跡を継いでおられる)で,筆者の石臼研究(著書『石臼の謎』)に刺激されて石臼を集めといわれる。館内を見学して,珍しい石皿,木臼や,茶臼片などを見た後、太良兵衛の話しをすると「それでは 私が生家のある舞台まで案内しましょう」と車を出して下さった。 
展示の縄文期の石皿

太良兵衞の生家

 途中,畔地(あぜち)の観音堂で太良兵衛の作品と刻銘を見学し,この地唯一の石屋,上村英男氏を紹介していただいた。上村さんのことは曽根原氏の著書にも出ておりもっと話を聞きたかったが,先を急いで舞台の太良兵衛の家へ向った。バス停「舞台入口」のすぐ上にあった。六日町大字舞台,大塚喜策氏宅である。太良兵衛から六代目にあたる大塚さんは,今は石工をしておられない。突然の訪問なので失礼を承知で,ごあいさつだけと思い声をかけた。奥さんがご在宅だったので,戸外にある石臼を見せていただくことにした。木材の下敷になっている一組の石臼を引っぱり出してみて,私は「あ,これだ」と声をあげた。

 

左から館長の若井さん、大塚さんの奥さんそして私

舞台にある太良兵衛の観音像の一つで2003年の現在も私の夢枕に出てくる

自然の木に埋め込んだ作品 

 「天保五年十一月ブタイ吉右衛門」と刻銘があり,太良兵衛の作を示すカネ三角印が明瞭に刻りこまれている。太良兵衛は「此印有之候物何によらず私細工に御座候」と先の覚帳に書ている。天保5年(1834)は太良兵衛45才,吉右衛門は太良兵衛の父で「ブタイ吉右衛門」というのは当家の屋号だったという。吉右衛門は天保12年(1841)没であるから,まだ父在世中に太良兵衛が作った石臼であろう。さすが名工の作、これほど迫力がある石臼はその後、四国の東祖谷村の平家屋敷の石臼に出会うことはなかった。

「天保5年11月ブタイ吉衞門」の刻銘と太良兵衛作のがある

 

独特の落し込み刻み(上臼の隅に粒が残ることがない。)1

目は下臼だけ7分画(これも太良兵流のこだわりか。

信州石工の反り逆三角手かけ穴

ところで,この臼を詳細にみるうち,手かけが特有の逆三角形であり,さらにもの入れのところに,落しこみの溝があることに気がついた。これは昨年の調査のさい山形県西置賜郡飯豊町で発見した特色であり,「小国臼」と名づけたものである。これは穀物が残るのを防ぐちょっとした工夫である。「あった,小国臼だ」と,またも大声をあげた。この二つの特色はどの範囲に分布しているのだろう。私にとって,二つ目の発見だから何ともいえないが太良兵衛は信州高遠の系統をひいている。この特色はもしかしたら,信州高遠にもみられるのかも知れない。
 この臼の発見について曽根原氏に報告したところ,「天保五年の細工帳の明細をみると石臼は三組しか作っていません。何れも近くの部落の人達から頼まれたもので,大塚家にあるものは細工帳には記入されていないものです」とのお便りを下さった。
 現在は今は飯綱考古博物館に収蔵されていると聞いている、

5. 信州臼を訪ねて
 太良兵衛の臼にみた特色は信州にもあるのかどうか。高遠から六日町へのルートは十日町一津南町をへて飯山,長野へぬける現在の国道117号線にちがいない。タイミングよく,飯山市の松沢芳宏氏から,発掘臼の情報が入ってきた。これも偶然とはいえ石臼の縁と言いたくなる。津南町にも知人がいるので,1977年10月21-24日(昭52)に調査を実行した。同行は当時研究室の学生だった加藤達夫君がドライバー兼助手として同行した。彼は子供のころからあだ名が「うす」だったゆえに私の研究室へ来たという臼因縁男であった。

臼が大好きな加藤君
 途中,筆者の古巣,昭和電工塩尻工場に立ち寄った。輪湖 明工場長(私の昭電時代の上司)はじめ多くの方々に以前から臼調査のご協力をえていたが,今回は熔業研究所日野所長のご甚力で,さっそく石臼情報にありつくことができた。塩尻市桟敷,高津英明氏宅はもと,田川にかかる水車屋さんだった。しかし今では直径55cm,6分画8溝の花崗岩,時計回り臼   (これは佐渡系以外ではきわめて稀),直径51cm,8分画11溝の安山岩臼とが遺物である。ここで一組の石臼に,三角形の手かけ穴をみつけることができた。太良兵衛の臼のように美しいものではなかったが,全く同じ形と寸法である。他にも2個の上臼があったがこれには三角穴はなかった。籐兵衞屋敷出土臼類計測図

 もうひとつの情報は松本市内に「藤兵衛屋敷」と云い伝えられている場所があり,現在は畑地であるが,炊事場と考えられているところから茶臼片などが出土したとのことである。清水達也氏(松本市大字寿,字小赤在住)が保存されている。下臼1/2片で受皿の周辺部は殆ど欠け落ちているが,臼面は19cmで,茶臼の一般的な寸法を示している。石質は当地に広く分布する粉挽き臼と同じ多孔質黒色安山岩で,作風はかなり粗雑であり,目は殆ど認められない。ふくらみが5ミリにも達しているのは,関東地方の臼の一般的特色である。火炎に遭って割れた場合,中央の心棒孔のところで割れるのが普通と思われるが,これは孔を完全に残している。同じ場所から,火切り石と,小さい搗き臼片らしいものが出ている。これも同質の安山岩であるが,茶臼よりもさらに古い時代のものと思われる。このほか三つの石臼が表面採取されていた。

1.は松本市中山字植原,仙石の畑から出た下臼1/2片で,多孔質安山岩製,目は摩滅してほとんどわからない。奈良時代に朝廷の牧場があったと伝えられ,古くから人が住んでいた場所である。2.と3.は清水氏宅に先代からあったもので付近の畑から表面採取された。いずれも安山岩製ではかなり新しいものと思われる。ふくみが大きいのが目立つ。

北信州探訪地

 

隠風景

戸隠への道

続く

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