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希代の名工-石工太良兵衛

       -- 信州石工の流れを追う旅 ーー つづき 

6. 戸隠の石臼そば
 紅葉の戸隠ドライブが今回の旅,最大の期待であったが,地元の人達は「今年はどうもおくれている」という。それよりも枯葉が目立つた。北信の紅葉が,鮮かでないのはもみじや,いちょうなどが少なく,常緑樹が目立っためだろうか。紅葉は木曽路がいちばん美しかった。長野市駅レンタカーを加藤達夫君が運転しバードラインを経て戸隠に入った。

 信州そばのなかでも,とりわけうまいことで有名な戸隠に,石臼製粉工場があり,「石臼挽」と銘うって売出されている 。長野から戸隠へ通ずるバードラインが切れたところで,北へ向えば中社を経て戸隠民俗館へゆくが,反対に南へ約3キロ下ると尾上バス停がある。その少し手前で「大日方そば工場」の看板が目に入る。製粉工場では石臼増設中だった。


 

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工場へ入ると正面に3台の石臼が並んでいた。その奥にはロール製粉機も稼動していた。日産1トン,そのうち120-130kgが石臼挽である。最近石臼挽の需要が増して,割高(20kg入り,1977年現在で7000円)だが特注してくるところが多いという。当時1.7尺臼と2.0尺臼2台が稼動していたが1日8-9時間稼動で20kg入り約6袋,時間当り15kgの生産量だった。これでは需要増に追いつけず,さらに1台を増設中であった。1組の臼は1馬力のモーターで駆動され,下臼を貫通する回転軸で上臼を毎分約30回回転させている。現用の石臼は,かっては水車でまわしていた古いもので,木の歯車取付穴が上臼まわりにみられる。黒くてやや多孔質の,当地産安山岩製だ。稼動中だったので,戸外におかれた別の臼を計測したところ,直径47cm,上臼高さ15cm,下臼高さ12cm,6分画,12溝で,ふくみは4cmもあった。典型的な信州臼の形態をそのまま保っている。目たては年1回で,目の形は「かまぽこ形」に近い。臼を通ったものはシフターでふるい分けされる。約80メッシュの絹網が使われていた。参考のため,石臼挽きとロール挽きの粉のサンプルをいただいてきた。石臼挽の粉でつくった手打そばは,主に中社のそば屋さんに出ているというが,確認するまでにはいかなかった。ある店で「石臼挽」のそばはありませんかと聞いたら,「戸隠のそばはどれでもうまいですよ」と,店のおばさんのご気嫌を損ねたらしいので,それ以上の追求はやめた。

 

 なぜ石臼挽がうまいのか,その秘密は一言で言いつくせないが,次のデータは一つの事実を物語るものといえよう。ロールと石臼との製品をいただいてきて,絹網(SS-シフター)を用い粒度測定してみた。その結果,ロール製粉は粒度がよく揃っているのに対し,石臼挽きは,広い粒度分布をもつ。とくに60メッンユ上の粗い粉は,風味を出すのに役立つ。また180メッシュ下の微粉が多いことも注目される。
表一1石臼挽きとロール挽きの粒度測定結果比較
 

 また顕微鏡で見ると,石臼挽きの粉は,大きい粒子のまわりに微粉がまつわりついているのがみられる。これはブレンディング効果(石臼面で練る作用)を示していると考えた。
7. 戸隠の石工
 戸隠村役場のすぐ近くに木村石材店がある。ご主人の木村又蔵さん(当時69才)(戸隠村豊岡)は,今も手づくりの石造物を作り続けている珍しい存在。機械加工の墓石を外国産の石でつくることしか能のない金もうけ第一主義の石屋さんとはわけがちがう。又蔵さんの話によると

「以前戸隠には石屋がなく,隣村の鬼無里から石屋が回ってきたものだった。15才の頃,鬼無里の石屋の仕事を熱心に見ていたところ,学校を出たら弟子にこないかと話をもちかけられた。農家の次男坊ゆえ,卒業後鬼無里へ弟子入りした。3年半の修業を終え,ここで壮事をはじめたが,当時は石臼つくりが主であった。石臼の材料には近くから出る安山岩をつかった。

 又蔵さんの仕事場には門柱用につくったという鷹がいくつか並んでいた。これらはいづれも手づくりで,見事な石の彫刻であった。東京などで開かれる展示会へも出品されるという。そ のほかに虎や,非常に手のこんだ作品があり,また戸隠民俗館には道祖神を納めておられる。石臼については,又蔵さんの記憶によると,とくに石質に注意し,直径1尺,6分画,そば用は副溝を多く,米用は少なくつくった。そば用の臼で米を挽くと粗くなるが,一般農家では区別なく使っていたという。
8. 風来坊の旅
あとは飯山まで何のあてもない風来坊の旅だ。

二の倉のおばちゃん

 戸隠中社の民宿「さわらび」で四件の計測をしたのち,野尻湖の近くの一茶記念館へ回ることにした。上水内郡信濃町二の倉で,民家の軒先に下臼片を見つけた。北村誠さん方である。おばちゃんが出てきたから,「これ見せて下さいね。日本中歩きまわって,石臼の寸法を測ってるんです」というと,「かわった人もあるもんだねえ。うちのは上がなくなってねえ。あ,あの隣のおばちゃんとこには揃ったのがあるよ。」

 たまたまそのお隣りのおばちゃんが通りがかって「なんだね」とやってきた。「あんたとこ,臼あったやろ」「そんなものもうなくなった」「そんなことないよ,あるよ,この人達,日本中回ってるんだって,見せてあげてよ。」お隣のおばちゃん忙しそうだったが,見せてくれることになった。小林かるさん方である。「奥の方にしまってあってね」,「私達出しますから」とついて入って行く。掃除を手伝っていると、「あったあった」。いろんな農具の間に下積みになっていた。外へ出してみると,黒光りした見事な石臼,いまもときどき使うという。どうも私たちは古物屋に見えて警戒したらしい。私たちはさすが現役の石臼の威厳に圧倒された。それよりももっとうれしかったのは,「三角穴」が実にきれいなことだ。太良兵衞のとは寸法がちがうが,これも同じ手法の信州石工の流れを示す物的証拠そのものであると思った。
二の倉の「かごどし」と石臼,これは笊ではなく篩なのだ


 石臼の計測をすませて北村のおばちゃんを見ると大きなザルをもっている。途中のおみやげ店で竹細工をたくさん見たので気になっていたが,おみやげ品とは風格が問題にならない立派なものだ。「これ何に使かうんですか」「かごどしっていうね」。大豆の殻をより分けるののにつか。何と「ざる」と思ったのはまちがいで「篩」なのだ。一辺約8cmの六角目である。大豆殻は軽くて嵩ばっているので,ふつうの曲物とうしよりも,この「かごどし」の方が便利なのだ。この地方は大きな竹がない。細い竹をうまく組み合せて作ってある。「籾どしもあるよ」と藁の網枠の篩も見せてもらった。「籾どうし」は細かい目で,ふちは藁でつくられている。網目は8mmである。土臼で籾摺りをしたあと,この篩で分別する。網上は再び臼にかけるが,それでも穂からとれないのをこの地方では「ごっつあ」(岐阜県では「やた」)というが,これは火をつけて燃やし,残を石臼で挽き,米の「こうせん」をつくった。「あれはうまかったなあ」とおばさん達は頷きあっていた。失われた食味である。

 とび入りで貴重な情報をえられたことに感謝したあと、信濃町柏原の小林一茶旧宅に向った。その隣家で珍しい臼を見た。

営業用豆腐臼の「たて臼」(固定側)の石臼

その臼が何かその時は理解できなかったが,この謎は後程,飯山の松沢さん訪問で解くことができた。豆腐屋さんで使うの動力臼用で,臼面をたてにして使い、もの入れを上にして,ここから豆を供給するのだという。そのご京都ほか広く全国の豆腐屋で使われていることを知った。

   矢印のような落し込み溝は太良兵衞の生家でも見た
9. 飯山の館跡
 長野市から千曲川に沿って約30キロ下流の野沢温泉の少し手前西岸に飯山市がある。高井地方史研究会刊『高井』40号「飯山市静間の二つの館跡」によると,二つの石臼出土が報告されている。著者松沢芳宏氏から詳しい資料をいただいていたが,1977年10月22日(昭52)実地見聞の機会に恵まれた。現在,静間神社がある位置,ここに静間小太郎館と伝承されている第一の館跡があり,静間館跡と名づけられ本殿の脇の小高い土盛りが,往時の土居(土塁)の形骸を僅かにとどめている。第二の館跡は北畑館跡とよばれ,静間神社の東方約200mのところで,民家が点在し,さいきん水道管敷設のための掘削が行われたさい,水堀の存在などが確認された。

 これら二つの館跡のうち、北畑館跡から松沢氏が上臼片一点を発見して報告された。現在の地表下50cm薬研堀を埋めたてた土の上層にあった。層位や同遺跡出土品との関連で年代をきめることはできない。石材は微多孔質で白斑点のある黒っぽい安山岩、目は磨滅し、目なし臼に近いが、この石質なら目なしでも使えるであろう。臼面はよく調整され、ふくみも大きくて信州臼の特色をもっているこ上臼推定重量約11kg,天場面の仕上げもかなり丁寧である。側面と角は著しく欠けている。このことにつき松沢氏は「打ち欠き手法」による仕上面の一部ではないかという説をたてておられるが、筆者は火災か、長い間石ころとして放り出されて、欠けたのではないかと思う。

 松沢氏に案内していただいて北畑館跡視察中、現用水溝の石垣の石組になっている石臼片を発見した。(同行の学生加藤君が、漢陽寺探訪のとき、川上ダムで臼をみつけたときと同じ調子で「うす」と低いでつぶやいたのである。彼はうす発見の名人なのだ)。安山岩、6分画7溝の上臼1/2片だった。

10 飯山の粉挽き臼

 静間の村落内を少し歩いてこの地のす特徴をとらえることにした。西の斑尾(まだらお)山いうす地から千曲川に流れこむ幾筋かの川が扇状地を形成しており、水量が豊かな地域であるから、往時は水車がたくさんあった。水車小屋があったことを想像させる溝には今もきれいな水が流れている。ある民家の軒下に大きな石が置かれていた。これはかつての「からうす」だという。どの家にも粉挽き臼が幾組か残っているのも、他の地にはない特色である。例えば田中清市郎氏宅では一組の完全な石臼のほか、上臼二個、下臼一個、豆腐臼一組があった。さらにその庭には石臼用の石材が残っている。石屋が原石のままもってきて、ここでつくったものらしい。田中さんの隣の小林政則さん宅では、扇形の手かけ穴もあった(扇形は後に福島でみつけた)。三角形の手かけ穴は三点見つかった。しかし太良兵衛の作のような「反り三角」ではない。静間の石臼の特色は次の通りである。

1) 横打込挽手、6分画、大きいふくみという信州臼の一般的特徴を具えている。

2) 石材は安山岩を主体とするが、石質が一定でなく、種々のものがつかわれている。ほかに溶結凝灰岩と、岩石名不明のものもあった。
3) 直径は一尺一寸(33cm)が多い。重量は20kg前後が主体。

4) 副溝数が20前後という目の細かいものが比較的多いのは、そば臼のためだろうか。

5) リンズ式豆腐臼もかなり多い。

6) 三角形の手かけ穴が三点発見され、その一つには落しこみ溝もあった。

 最後になったが字法花寺の山麓にあったという静間の上原幸夫氏蔵の不思議な石造物をみた。高さ12.5cm、縦横14cm、白斑点のある黒い安山岩製で、直径6cm、深さ3.5cmの一見、臼にみえるが梵字がある。経筒にしたものだという人もいるが、筆者はこえ松(松脂リッチの燃料)を焚く灯明台で仏前に供えるものと見た。

11. 高遠石工

 山形の山奥で反り三角の手かけ穴に出遭って以来、遠まきに高遠石工を追ってきた。本来なら当然、まっさきに南信州の高遠を訪ねるべきであるが、第一、高遠に知人がなかったし、あまりにも漠然とした仮説にすぎない。高遠を訪ねて、がっかりして夢をなくすのが何よりもこわかった。

 しかしいつまでもそっとしておけない夢である。1977年11月27日(昭52)、木曽の日義村・徳音寺を訪ねた。 この寺は石臼の別の系統である滋賀県曲谷臼の源流と関係している。街道西側の山腹に建つ。臨済宗妙心寺派の寺院である。木曽義仲ゆかりの寺として、中山道を往来する旅人が立ち寄った寺だ。権兵衛街道越えで伊那に出た。峠の店で食べた御幣餅の味は忘れ難い。上伊那郡宮田村の考古学研究者、向山雅重氏を訪ね、高遠町東高遠の北原石材店を紹介していただいた。

 あいにくご主人は留守だったが、奥さんと息子さんに、石臼を見せていただくことにした。傘屋の傘骨のたとえでこの店には昭和20年頃、ご主人が作られた直径21 cm、上下臼の高さ8cmのリンズ式ミニ臼しかなかった。そこで奥さんに2、3あたっていただいたところお隣の森隆治さん(東高遠)方にあるという。いよいよ夢をかけての高遠臼との対面の瞬間が来る。いきせき切って急坂を登りつめた。野沢菜漬けの季節で、石臼はおもし石になっていた。さてこれをもち上げて、問題の手かけ穴をみる決定的瞬間。「あった、反り三角だ」。決してできのいい方ではないが、とにかく反り三角の特色をそなえていた。森さんの奥さんは、私達があまりはしゃぐのでとても不思議そうだった。「そんなに大切なもんかねえ」「大切も大切、石臼は縁起物ですから家の宝にして下さいよ」「あ、あ、そうか、上と下に重ねるからね?」奥さんのもの判りは抜群だ。「尻がおちつくともいいますね」「もうおちつきすぎちゃってるよ」

 北原さん宅では早稲田実業高校刊の『高原教室』を拝見し、田中芳一氏(東京都田無市南町在住)が同校の夏の高原教室を通じて高遠石工について研究されていることを知った。後に氏と連絡をとり、『伊那路」(上伊那郷土研究会刊)旧巻9号から19巻10号にわたって発表されている「伊那谷の印象と石造文化」を送っていただき、高遠石工について古文書をはじめ高遠にある石造物の調査結果を知ることができた。氏はとくに石工道具についても詳しく、また古文書をひろく研究しておられるので、研究成果が期待される。また、宮田の向山先生から借用した宮下一郎著『藤沢村史」(同村史刊行会昭17)に次の記述があった。「藤沢郷は耕地面積の狭少なるため、江戸時代中期から種々な出稼人を生じた。それは主として石切旅稼人、他所奉公人、旅稼人、江戸稼人、等である。嘉永三年(1850)の調査では、藤沢郷中の石切、総人員253人……である。高遠藩は勿論、村役人も是等他国稼人に対しては運上金村賦銭を賦課し、其の取締を厳にしているが、ここにも又藤沢郷の特性が現われているように思はれる。……」

「高遠領内に於ける石切の事は、元禄時代には早くも現われて居り、藩へ運上金を差出している事は『高遠地方』旧記に見えている。

 「当地方の石切業は山村の特殊現象と見られるのであって『水上村石切人員比較表」全村の20歳以上60歳以下の所謂壮年者の半数は石切業である。」
「これの他国への分布の状態は下記であった。

明和4年 駿州5 甲州1 豆州 2 郡内6 武州 3 上州2 下野1 相州1

嘉永7年 濃州27 甲州1 三州 4 飛州 2 当国(木曾)11 当国〔松本)14 当国(上田) 当国(善光寺)4 当国(海野)1 当国〔諏訪)1

 合計明和21 嘉永69

 このように広く各州へ散って石臼を広めたのであった。この中に太良兵衞が入っていたのであろう。それ以上は知るべくもない。

とにかく下図のように反り逆三角形という高遠石工の明瞭な印が新潟の六日市と高遠で発見された事実まで到達できたこことは長い旅の偉大な成果であったと自負している。不思議なことにこの石臼の計測図だけで写真のネガがどうしても見つからない。これも石臼の霊の仕業だろうか。もういちど太良兵衞の石臼を見に飯綱考古博物館を訪ねるか、夢まくらに夜な夜な出てくる観音樣に聞くほかないのか。

 2003年になって私の息子が嫁さんを見つけたと言って来た。なんとその生家は六日市だという。何てことか。その実家から、太良兵衛の生家の現地の映像をメールで送って来た。余りにもリアルだ。太良兵衞の石臼が呼んでいるようだ。

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