リンク:希代の名工・太良兵衛


高遠臼は会津にもあった探訪記(このファイル13kB)

 郡山地方史研究会会長の田中正能さんから「あなたの著書『石臼の謎』に福島県の臼が一つも出ていないのは残念です。当会で調査に協力しましょう」というお便りをいただいた。福島県は東から浜通り、中通り、会津の三地区に分かれ、風土、気候、民俗、気質などが三分されている。田中さんのお便りが機縁で、福島県へ四回にわたる調査旅行にでかけることになった。 1977年11月17日(昭52)、はじめて福島入りし、初日は猪苗代の駅に降り立った。晩秋の猪苗代湖と会津磐梯山の紅葉を期待していたが、曇り模様で山麓と水辺だけしか見ることができなかった。

 田中さんの友人でいずれも当時の国鉄マンが長時間労働の空けを利用してのドラーバーを引き受けていただいたので、悠々の長旅が可能になった。   

左から私、田中正能さん、あと国鉄マン2人

野口記念館http://noguchi.atmark.gr.jp/memorial.html

 でも臼さえあれば何もいうことはない。まっしぐらに野口記念館 へ向う。ここには三組の石臼があった。表の縁側に二組、もう一組は表入口の縁の下で床の土台につかわれていた。野口英世はこの石臼で育てられたのだ。数々の野口の遺品よりもこの方が私には貴重に見えた。この石臼の一つに予想通り三角手かけ穴があった。

 

屋内には小型の木臼と二人挽きの木摺臼もあった。記念館のすぐ近くに会津民俗館がある。会津特有の「曲り屋」を移設し内部には生活そのままの展示を主として、豊富な会津の民具類が見られる。

くびれ臼土臼(籾摺り臼)炭箕(皮炭とよい炭の分離用)すり鉢籠どうし(ふるい)皮箕(豆ころがし)

非常にたくさんの石臼や木臼があったが、代表的な2件の二件の石臼だけ計測した、ごれには三角穴はなく、、さきに信州飯山で見た扇形手かけ穴のものであった。これもひとつの流儀かも知れないと考えた。茶臼が流用され・しかも上臼が極度に磨耗した珍しい例として藍引臼があった(このような摩耗例は木曾徳恩寺がある)会津・坂下地方のもので、藍玉を挽くのにつかったという。また反時計方向の目を刻んだ石のすりばちもあった。

 ひとまわりしたところで本館の佐々木長生氏に会った。突然の訪問で、多方に近く詳しい話をする余裕もなかったが、知り合いになれたのが何よりだった。

//大きなふくみ

中村館跡

 『福島県考学年報」(1975)に報告されている中村館跡(郡山市片平町菱池)は、天正13年、伊達政宗に味方したために佐竹美重の遠征軍に攻められ、籠城者200余人が全滅した館跡である。以来再建されずに放置され、畑地として残っていた。昭和49年に発掘されたが、ここからおびただしいし石摺臼が出土し、建物の焼失した炭化物が全面にあった」と報告されている。この発掘担当者であった田中正能氏はその様子を次のように手紙で知らせて下さった。「本丸の屋敷跡・丸太木組の井戸枠、数多くの井戸、堀立と石土台の建物などもあり、地表下10-25cm、高さ10cm前後のものが20個体近く出土した。形には統一はない。粉挽き臼、茶臼のように多数の刻み目のあるものは半数に満たず、茶臼の受鉢のところをわざと欠いているものもあり、上下の刻み目は10本以下である。下茶や粉はこれでは挽けない概報では報では集中して埋められている現状より、多人数の共同作業場と、その使用と見たわけである。それで木炭を粉状化する作業工程のひとつとして、木炭をくだき、あらい申訳程度の石臼で粉状化し、多量生産し、さらに薬研の工程が用いられた。戦国末期、鉄砲使用の発射薬として黒色火薬製造には効率的にも石臼使用がより効果的であったと思われる」。

 本書でもたびたびふれたが、最近中世館跡からの石臼出土例の報告が多い。これらが何につかわれたのか明らかでなかったが、田中氏の説は傾聴すべきものがあった。このことをはじめて知らせて下さったのは鉱山の臼を調べておられる日本金属学会付属博物館の野崎準さんだった。直接田中氏にお会いして火薬製造説をおききし、また中村館跡の臼を見るのが今回の訪問の主目的であった。11月18日、郡山駅で田中氏および同地方史研究会の鹿野正男氏と会い直ちに出土臼が保管されている中央公民館へ向った。

 地下倉庫に保管されていたので、写真はうまく出なかった。ストロボ写真は平面的になり、石臼の場合に具合がわるい。

なぜ火薬説を考えたかについて田中氏は次のように話された。「私は終戦前、神奈川県藤沢の近くの火薬廠で黒色火薬を製造する仕事に従事していました。その労働の体験から、この石臼は火薬用の木炭を挽いたものだと直感したのです。硝石や硫黄はもろくて、「やげん」でも容易に粉になりますが、木炭は「やげん」だけではとても粉になりません。ところが石臼をつかうと、うまく粉をつくれるのです」。なるほど、火薬説にはこんな労働体験というバックがあったのだ。これを聞いただけでも郡山まで来たかいがあったと思った。

 会津民俗館の藍引き石臼は茶日の転用だ(営業用だったのでここまで減るまで使われた
目は抹茶用ではなく、普通の臼目であった

 石臼はいずれも作り方は粗雑で、その割れ方は明らかに故意に破壊された形跡があり、朝倉氏遺跡や葛西城趾で見たものに類似していた。

 奥会津への道

 

 1978年5月1日(昭53)郡山を再度訪問した。郡山地方史研究会の方々が、奥会津探訪を企画して下さったのである。郡山駅から車で奥会津へ向う。かつて国鉄のSL機関士だった田中正能氏、副機関士の松田市郎氏が本日のドライバーそして現役車掌・鹿野正男氏。これはまさに国鉄ディスカバージャパンならぬ「臼発見の旅」である。郡山から南下して、まず古い城下町で、猪苗代方面へ通ずる勢至堂峠と奥会津へ通ずる鳳坂峠越えの要所であった長沼町で、地元教育委員会の立会いのもとに、二、三の民家と郷土館の石臼五件を調査した。いずれも三角手かけ穴であり、とくに久保初五郎さん方で5は、反り三角ではないが、中溝式を発見し、幸先のよいスタートであった。なお直径五六cm、6分画の水車臼が方々で庭石になっていたが、この地方には水車が多かった名残りである。石質は判定し難いが、他の石造物と同じく、この地産の長沼石であった。

この地では1940年(昭和15)頃まで長沼焼が栄えた。コバルトの青色紬薬に特色があり長沼町郷土館に若干の資料が保管されている。陶芸用の石臼も期待したが見つからなかった。

長沼町を出るといよいよ奥会津への道に入る。鳳坂峠をこえ、昭和三七年、鶴沼川をせき止めてつくった人造湖、羽鳥湖をすぎると、道は険しい下り坂となり、前方に連なる那須連峰は五月というのにまだ深い雪におおわれ、奥会津を感じさせる。美しくてひょうきんな二岐山や、いま花ざかりの白いコブシの花が印象的であった。湯野上温泉の少し北で会津若松から南下する国道一二一号線に出ると、奥会津の入口、田島町は近い。車の左にみ高遠石工作の石臼田島市合同庁舎に隣接して、奥会津歴史民俗資料館がある。建物は昭和四六年に南会津郡役所を移築したもので、明治一八年の木造洋風建築である。この資料館の完成に努力された館長・佐藤耕四郎氏が案内して下さったが、石工道具をはじめ、太鼓屋の道具、山仕事の道具、木地師の道具など、仕事別の道具類を、それぞれほとんどもれなく整理して展示されているのに目を見はった。収蔵されているいくつかの石臼のなかに、一組の見事な作晶を発見した。新潟の六日町で見た太良兵衛の石臼に匹敵する完壁なものであった。石は穀物の油と煤で真黒になり、はんぎりや挽手も備わっていた。新潟の六日市で見た太良兵衛の臼や『謎』一四九ぺージ、昭和五〇年夏の、東祖谷、平家屋敷の石臼のとき感じた石臼の美がここにもあった。しかも、上臼には反り三角中溝式の穴が高遠石工の誇を示すかのように、彫られていた。
この逆三い角形づにき出会ったとき私は迂闊にもそれほど感激しなかった。30年近い年月を経た2003年になって、ようやく太良兵衛との接点ができて再認識した。

縄文時代中期の石皿
会津藩主保科氏は信州高遠藩から出羽山形を経て移封された大名であった。そして田中氏によると石工を伴って来たことも確かで、偽書のおそれもあるが、高遠石工の文書も発見されているという。筆者の仮説、「反り三角中溝式手かけ穴は高遠石工の印」を追って、奥会津まで来たかいがあった。私はこの石臼の前でしばらく座りこんで動くことができなかった。「よく来た、ゆっくりしてゆけ」高遠石工の声がする。館岩村貝原出土、縄文時代中期の石皿一組は、六日町で見た石皿に似ていた

会津貫通臼の発見

会津貫通臼発見

 田尻町を出てさらに奥の南郷村へ・いよいよ雪に覆われている山間へ入るのだ。駒止峠へ向うにつれ残雪量は急に増し、景観は激変して雪どけの濁流が車の右や左に躍る。地肌は茶色、そこにやっと蕗の蔓が頭をもたげまんさくの黄色い花が春近しと告げていた。ついさっきまで新緑一色の初夏の山を見てきた目には、あまりにも異様な眺めであった。

 駒止峠をこえると、急にカラーから白黒テレビに-切り替えたかのように、冬の世界、真白い只見の連山が冷たく横たわる。これぞまさに奥会津である。「近くこの下にトンネルが開通すると、こんな峠の情緒も味わえなくなることでしょう」と語り合った。といっても私達は車時代の人間だ。その昔、旅人たちはどんな深い感激を味わったのだろうか。文明は人間から心の世界を消してしまうのだ。南郷村につくと郵便局長さんに調査の手配をお願いし今日の宿、村営さゆり荘に落ちついた。ここはさいきん工事中に発見された温泉。局長さし入れの酒で、ディスカバ石臼の旅の夜を語り合った。

 翌朝は朝飯前真中にあり・毒套心木の頭がのぞいている。供給。が真中にあるのは主として豆腐屋にあり西洋のリンズ式である;しろが…の上臼には-ン曇く、下臼の心木が上臼を貫通している。茶臼の錫合と同じだが、粉挽き臼では見たことがない。そこでとりあえず「会津貫通臼」と名ずけることにした。

 さゆり荘の入口に奥会津南郷民俗館がある。ここで典型的なリンズ式豆腐臼があったから、五十嵐さん方のはその変形であろうか。なおこの民俗館には鮭を捕えるための漁労用具が保存されている。なぜこんな山奥にと思うが鮭が川を上ってきたときのものだ。今はダムができて鮭はのぽってこなくなった。ここにもエコシステムを破壊する現代文明の顔がのぞいていた。

 中世の茶磨と篩

 南郷村総合開発センター資料室には中世の茶磨が保管されている。表面採集されたものであるが、この地には天正18年、伊達正宗に滅された山内氏の館跡があり、それに関わるものかも知れない。ほぽ完形であるが火にかかった形跡がある。放射状の目があるが、これは不自然で、のちに手が加わったのであろう。もうひとつ珍しい京都製の「粉ふるい」があった。そば粉ふるいで、簡単なものながら、すぐれた職人の作品と思われ、その軽さと、精巧な作りに感心させられた。

 桧枝岐村へ向う途中で木伏の土橋武吉さん方を訪ねた。-立川市の増田昭子さん(民俗研究者)の紹介で「ゆり板」(『臼」133ぺージ)見学が目的である。もみすりのあと、籾と玄米を分別する用具で、残されている例が少ない貴重な資料である。

揺り板

揺り板寸法計測図

 ところで石臼一組が軒下にあった。このほかに一組が屋内にあったが、これがなんと、さきに和泉田で見た「会津貫通臼」なのである。五十嵐さん方のは特例ではなく、この地にはかなり普及しているらしい。

福島県の石臼

 中通りと会津の石臼を通覧したので次は浜通りだ。12月10-11日(昭52)、と1月29日(昭53)の二回にわたりいわき市教育委員会の大塚一二さんを訪ねて数件の調査をした。しかし全く気まぐれな話だが、海岸で「鳴き砂」を見つけたために、重点がそちらに移って、臼調査は中断してしまった(『自然』昭和53年!0月号(中央公論社刊)参照)。福島県の石臼についてこれまでに得られた結論は次の通りである。
1. 圧倒的に六分画の信州型である。

2. 手かけ穴は三角形のものが多く、反り三角中溝式の高遠石工系と思われるものも発見された。石質はそれぞれの土地の石で花こう岩は中通りと浜通り、会津は安山岩と砂岩。特例として「会津貫通式」が発見された。

3. 会津の木摺臼は小型の一人挽きが多い。これは籾よりも雑穀用が主であったためであろうか。

4. 土摺臼は小原田臼(『臼』一一九ぺージ)である。
追記
 本章でのべた反り三角中溝式は、高遠石工ときめつけることはできない。筆者が臼を追う上でたてたひとつの仮定にすぎない。筆者は自分でもこれをつくってみたが、両刃のたたきをつかうと、この形がもっとも彫りやすいのも事実である。そしてただ一例、九州長崎の臼に、粗末ではあるが信州臼にみるような三角穴がみつかっている。

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