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般若心経の謎

百瀬明治著『般若心経の謎』(PHP文庫,495円)

 超ミニ教典である276文字の般若心経はiばしば話題になるが、深く考えてみたことはなかった。謎の文字にさそわれて覗いてみるとお坊さんではない,いうなれば歴史家の書だから読む気になった。そして石臼や茶臼(茶道)を通じて親しんできた高僧や武人の名前が続々出て来た。日本の石臼を考えるには聖徳太子にはじまる仏教史が関わる。奈良大仏、平安遷都、鎌倉時代を経て、室町期の茶臼の全盛そして戦国時代の石臼の全国普及と、日本文化の底流にある偉大な思想群に出会うことができた。

 般若心経の単なる解説書ではなく、インドから玄奘、中国を経て聖徳太子に至る伝来史を概観してから、日本での仏教史をまとめている。石臼の歴史を追う過程で出会った高僧や史実と関係する。聖武天皇の大仏建立の頃は仏教は鎮護国家の国家仏教体制の確立にあった。276文字なので短時間に一巻を写せる簡便さが信仰性とともに写経が盛んになった。東大寺の写経所は有名である。招福除災の信仰が広がった。奈良時代には南都六宗(三論、成実、法相、倶舎、華厳、律)が成立し、東大寺の宗所を通して国家の統制下にあった。

 都が京都に移って平安初期の弘仁9年(818)全国に疫病が大流行した。嵯峨天皇は自ら写経するとともに『般若心教秘鍵』を著した弘法大師空海に命じてそれを供養させたところその霊験あらたかであったと伝えられている『古今著聞集』。空海は延暦23年(804)遣唐使の船で中国に渡り唐の都長安で密教の第一人者恵果に出会って密教の世界を2年で究めた。しかし帰国しても無視され朝廷から平安京に入ることすら許されなかった。数年の地方布教の末嵯峨天皇の新任を得た。 そして空海は中国ではまだ出たばかりで完成していなかった密教を日本流に発展させ完成させた。マンダラは密教の真理の核心に直感的、視覚的に参入するための図画である。

 末法思想:永承7年(1052)は無明の末法突入の年とされた。その永承7年が迫るにつれ、日本国内には衝撃が走り、人心は極度に怯えて一種の社会的パニックのような状態がまきおこった。そこへもってきて、時勢もぐんぐん険しさを増し、全国的な大飢饉や平安京をなめつくす大火災、さらには律令体制を揺るがす戦乱などが相ついで勃発し、末世はひとつのピークに達したかの観があ った。要するに彼らの眼前の光景は、あたかも末法思想の終末観的な予言が適中したかのごとき惨状を呈したのである。一末法思想の説くところはついに顕現し、この世は無脚げ末法の時代に突入した。陸奥での内乱、前9年の役が2年目となり、関白藤原頼通が宇治に平等院を仏寺にあてた年であった。

 人間がどれほど辞を低くしてすり寄っていったとしても、末法思想によって築きあげられた人間界と仏教とのあいだの壁はあまりに厚く、仏教は冷淡に拒絶をもってこたえるのみであろう。だとすれば、人間は仏教から絶縁された現況を冷静に見きわめ、仏教に訣別して別の救いの道を求めてもよかったはずだ。あるいは人間のほうから仏教に三下り半を突きつけ、無信仰の道を歩みはじめてもよかったはずなのである。

危機にさらされた日本の仏教信仰

 しかし、事態の展開はそうはならなかった。人間は、いったんは末法思想の呪縛に押しひしがれたかに見えたが、そこからしぶとい底力を発揮する。仏教の原点に回帰することによって末法思想の強大な壁を超克し、新たな救済の確信をつむぎ出そうとつとめる。そして、そのような試行錯誤のすえに人間がかちとった輝かしい成果が、いわゆる鎌倉新仏教である。中世の日本人は、この鎌倉新仏教という画期的な地平を拓くことをとおし、喜寿として信仰の安楽境へと駆け戻っていったのだった。

 世が末法に入ったという認識はむろん時人のあいだにも浸透しており、たとえば『扶桑略記』はこの年正月26日の条に、「今年始めて末法に入る」と記している。あるいは、参議藤原資房の日記『春記(しゅんき)』も同じく8月25日長谷寺の焼失にふれて「末法の最年、この事有り」と、心の戦慄を吐露する。

 これ以後、貴族の日記類には、「王法無く、仏法なし、恐るべし、悲しむべし」「仏法王法、破滅の時か」「返す返す無益の代なり」、といった悲嘆の念が続々とつづられるようになった。末法思想がどれほど人々の心を痛撃し、時代精神を苛(さいな)んだかが、よくうかがえる。

[浄土信仰]

 しかしこの暗澹たる位置づけをされた末法時代においても、人々が救われる道 がないではなかった。その救いの道とは、阿弥陀如来を教主とする浄土信仰にひとすじにすがることである。

 仏教の謂う諸仏、諸菩薩はいずれも衆生救済の誓願をたてているが、そのなかで阿弥陀如来の誓願(本願)は、とりわけ寛容性に富んでいた。すなわち、いかなる末世濁世であれ(末法の時代も例外なく)、一向他力にわが本願を信じる者であれば、その者の前世の所業の善悪を問わず、またその者の修行の深浅に関わりなく、自分のほうから娑婆(人間界)に出向いて、必ず極楽浄土に迎え入れてやる--阿弥陀如来は本願のなかにはっきりそう言明しているのである。そして、阿弥陀如来の救いにあずかるには、自力に固執せず、ただ南無阿弥陀仏と念仏を称えるだけでよかった。

 そのような浄土信仰にもっとも寄与した人物に比叡山延暦寺の高僧、恵心僧都源信がいるが、一方で般若心経にも末法を乗りきる可能性を託していた。

仏説に従えば、末法という暗黒の時代はなんと五十六億七千万年も続き、そのあとに弥勒菩薩が人間界に現われて(下生)一切衆生を救ってくれることになっている。だが、人間はいくら頑張っても五十六億七千万年を生ききることはできない。そこで、何とかして弥勒菩薩下生の日まで,自分がかつて生きていたといろくどうbんねくげんう証拠を残し、その慈悲にすがって六道輪廻の苦患から解放されたいと願い、高野山などの仏教の霊地に埋経するという信仰が生じるようになった。埋経とは、一定の作法に従って写した経典を筒に入れ、地中に埋納することである。この風習は加法経ともいい、埋納された場所には経塚が築かれた。

埋納する経典を写経するには金泥が用いられることが多く、またそれを納める筒は銅製や陶磁器製、石製のものが一般的だった。金や銅、陶磁器、石は、たとえ五十六億七千万年後でも腐朽することなく保ち伝えることができると考えられたから力わらである。同様の考え方から、粘土に経文を刻んで焼成した瓦経が用いられることもあった。

[平家]

 平清盛は保元・平治の乱を勝ちぬくことによって権勢の階段をかけあがっていったが、その生活環境は王朝公家と一体化していたので、神仏に対しても厚く崇敬する心をもっていた。そこで清盛は長寛二年(1164)9月、一門や家人ら32人に分担させて金銀の箔や泥をふんだんに用いた美麗な装飾経を作らせ、金銅製の箱におさめると、ふだんから氏神のように深い信仰心を寄せていた厳島神社の主殿に奉納した。

 これがいわゆる平家納経であり、全32巻の経典は、『法華経』一部28品、無量寿経、観普賢経、阿弥陀経それに般若心経各一巻からなっていた。ここで注目されるのは、般若心経を書写したのは清盛自身だったということである。全32巻のうち、清盛が特に般若心経一巻を選んでその書写を担当したというのは、清盛が諸経にまして般若心経に深い思い入れをもっていた証左と解してよいであろう。清盛は、同じく自筆で記して納経に肘した願文のなかでこう述べている。「今生の願望すでに満ち、来世の妙果宜しく期すべし」

[鎌倉仏教]

 浄土真宗 「まず浄土真宗(ないし浄土宗)についてみれば、この宗派は浄土信仰にもとづいて阿弥陀如来への絶対的な帰依を説く他力の信仰を至上とし、般若思想の自力主義と相容れない側面があったからである。さらにまたこの宗派は密教の呪術的なあり方に反発し、純粋な念仏他力によっての浄土往生の実現を究極の目標としているので、その教義もやはり般若心経を遠ざける一因になったのではなかったかとみなされる。こういう傾向をもつ浄土信仰の水脈は、『往生要集』を著わしてさかんに「厭離穢土、欣求浄土」を鼓吹した例の忠心僧都源信以来、末法思想のなかでの最大の救いということでずっと時代の底流をなしてきた。仏教が、「完成された人間」を目指す方向から「凡夫の救済」へと特筆にあたいする理念の変換をなしとげたのも、浄土信仰の盛行の途上においてであった。 一遍 一遍は信仰の純化のために次々と大胆に余行を捨てていった。浄土門の先輩たる法然や親鸞は、念仏に絶対の価値を見出しながらも、なおかつ行や信を重視し、強調した。浄土に往生したいという発願を、念仏に必須の前提としていた。それに対し、一遍は右引用文に明らかなように、それらのことごとくを捨てよと言うのである。一遍にとっては、浄土往生をとげたいと願う心さえ、信仰の交雑物でしかなかった。まさに一遍の宗教は他力信仰の極北といってよい。   茶の湯 茶湯は仏前への献茶儀式に埋するが、中世に入ると豪壮絢欄とした賜物を伴う闘茶あるいは格式ばった書院台子の茶などとして独立した芸能への道を歩みはじめる。そしてその系譜のうえに「茶道の開山」と呼ばれる村田珠光が出現したことにより・現代のわれわれにも馴染ぶかいいわゆる露地草庵窪び数寄の茶湯の歴史が本格的に開幕することになる。佗び数寄茶の大成者とされる手利休が「伝(流儀作法)ハ(鎌)じ糠つ蹴二律申、道(精神)ハ珠光二律申」(『随流斎延紙ノ書』)と述懐しているくらいだから、珠光の後世に与えた影響がどれほど大きかったか、よくうかがいとれよう。ところが・伝えによると、この村田珠光なる男、はじめは闘茶の判者などなかばばくち打ちに近いような生活をしていて、もし一休禅師と巡りあうことがなければ・とても「茶道の開山」などという地位につくことはできなかっただろう、と言われる。、,珠光は応永三+年(西二三)、村田兼検校という者の‡よ止み三昧良に生まれた。その経歴は不詳のところが多いが、幼いころいったん奈良称名寺の小僧になったものの、僧としての修行に嫌気がさし、寺をとび出して各地を放浪するとともにいろいろな職業を転々とした。 利休 利休は周知のように泉州堺の納屋衆の出身だが、すでに15歳のとき、大徳寺の大林宗套に参禅し、珠光伝統の茶禅一味の境地を磨いたという。生家は納屋衆としてはそう大身ではなかったようだが、利休は商人としてよりも茶人としてしだいに頭角をあらわし、51歳の天正元年(1573)、折から天下布武の道を驀進中の織田信長により茶頭に召し出された。その縁で利休は信長配下麾下の諸武将とも交遊をもち、豊臣秀吉の茶会には天正9年(1581)6月、はじめて奉仕している。信長が本能寺に横死し、豊臣政権が成立して以来、利休は政治向きでも秀吉に重く用いられるようになるが、利休が真に目ざしたのは露地草庵の佗び数寄の茶湯を大成することであった。 「茶の湯の真味は草庵にあり。真の書院台子は格式法式の厳重を調へ、世間法なり。草の小座敷、露地の一風は本式のカネを本とすると雖も(いえども)も、終にカネを離れ、わざを忘れ、心味の無味に帰する出世間法なり」  利休が禅の悟道に達し、般若心経の精神をふだんから服膺していたらしいことは、辞世のことばからもうかがいとることができる。  利休は天正19年(1591)二月、秀吉に切腹を命じられて自害するが、検使との最後の茶湯をゆったり済ませると、やおら筆をとって一気に次のようにしたためた。「人生七十 力囲希咄 わがこの宝剣祖仏共に殺す  提(ひっさぐる)わが得具足の 一太刀いまこの時ぞ天に抛つ。 信長 ちょっと意外な組合わせだが、織田信長の名をあげてよいように思われる。一般に戦国武将がもっとも頼りがいがあるとみなして信仰を寄せた宗派は、人間の限りない可能性を肯定し、大悟徹底すれば迷わずひるまず動じない境地を獲得できると説く、禅宗であった。だから、名ある戦国武将はほとんど例外なく、ブレーン栄心の師として禅の高僧を招聘したり師事したりした。よく知られた例としては、武田信玄と快川紹喜、上杉謙信と天室光育らの関係があげられる。禅僧は前述のように宗派の趨勢として般若心経と深くつながっていた。それに般若心経は鎌倉の昔から、武士が武運長久を祈る経典という根強い信仰を集めていた。それゆえ、禅僧を師と仰いだ武将たちは、きわめて般若心経と観衆しやすい位置にいたと言いうる。その点、信長はどうであったのか。信長は序章でも触れたように、比叡山延暦寺を焼き打ちしたり、一向一揆殲滅作戦を強行したため、とかく生まれつきの信仰不感症と見られがちである。しかし、信長の一連の仏法弾圧は、子細に点検すると、そうしなければならない動機がかならず介在しており、信長が他の武将と違うのは弾圧の力加減がいささか乱暴にすぎたという点だけである。  いわば、信長もまったく無信仰の徒ではなかったのだ。少なくとも〃第六天魔王々などと自称する以前の信長は宗教に心を通わせており、とくに若いころは妙心たくげんそうおん寺沢の禅僧沢彦宗恩に師事して人格の練磨につとめている。つまり、この時期の信長を取りまく宗教環境は武田信玄や上杉謙信らの諸武将とほとんど変わっていないわけであり、したがって師事する禅僧を通して般若心経の知見を得ていたであろうこともそう無理なく首肯されるのである。信長は二十五歳の永禄三年(一五六〇)十一月、人生最大の試練にさらされる。東海の太守今川義元が駿河・遠江・三河三カ国の精兵二万五千を率いて、信長の領国に攻めかかってきたのだ。その報を得た信長は、迷ったすえ、夜半にいたって断固出撃することを決断する。そのころ信長はまだ尾張半国を領するにすぎぬ小勢力だったから、義元の大軍と戦ってもとうてい勝算はない。出撃の決断は、前途に死をみすえてなされたものであった。そしてその覚悟のもとに信長が清洲城を出陣しようとする寸前、かねてから愛好する幸若舞の「敦盛」の一節を舞い、次のように吟じたことは世に喧伝されてい血中"・..一りる。寸も。.エ人間五十年げてん下天のうちに比ふれば"  ゆめまぼろし夢幻のごとくなり一たび生を受け滅せぬもののあるべきか信長は悠然と舞い、吟じ終わったあと、立ちながら食事をし、鎧を着し、暗夜の城外へさっと駆け出していったという。思い浮かべれば、鬼気迫り、悽愴(せいそう=すごい)の気みなぎる場面である。しかし、信長のこのときの心境を思いやると、実に透徹したものが伝わってくる。ここには、いさぎよく放胆でありながら、人間の生というものを正面から見据えて得心した厳しくも澄み切った死生一如の心根というものが脈動している。その不退転の心根は、禅の悟道に通底するものであり、般若心経的世界が信長という人間の姿をかりて、つかの間現前したかのように思われて仕方がないのである。かりにその境地が師僧に学んだのではなく、自得流でいたりついたとしたのなら、それはそれでまたたいしたことだ。  信長にとって、「敦盛」を舞い、吟じるのは、部下の士気を鼓舞する出陣の前の儀式といった意識もあったのかもしれない。だが、その言動を総体としてみると、「空」観を無常観として解する日本的な意識構造がそのはしばしに表出しているのも否定できないところである。その意味で、時代を超えた天才だの日本人ばなれしだ異辮児だのと言いはやされる信長も、精神の深層においては伝統的なるものと無縁ではな♪っ,たわけだ。な.お、中世から戦国時代にかけて、修験道においても般若心経が広く用いられるようになρたことを付言しておきたい。修験道が般若心経を採用するにいたったのは、むろんその無常観に惹かれてのことではない。般若心経が備えるその現世利益的な功徳を頼りにして修行中の身の安全を祈願したり、あるいは行者自身の霊力の向上することを祈って般若心経を唱えたのであるが、とくに峰入り修行の際は必ず心経を読諦するのが慣行になっていたという。思えば戦国時代は、武将と修験道の結びつきの強まった時代でもあった。武将は修験者に命じて戦勝を祈らせたし、また修験者の踏みわける独特の山の道に着目し、そのルートを情報収集などに活用した。そのような両者の交流のうちに、般若心経がひそやかに信仰圏を拡大し、根づいていくというようなこともあったのかもしれない。 *** 沢庵 一休や良寛と並んで知名度の高い沢庵宗彰である。沢庵は京都大徳寺の第百五十四世住持に任じられた臨済宗の僧だ。沢庵が剣と密接に関わるようになったのは、徳川将軍家の剣道師範柳生但馬守宗矩と親しい交遊をもったからだと言われるが、当代一流の傑僧であったことはまちがいない。沢庵は正保二年(1645)江戸品川の東海寺に七十三歳の生涯を閉じたが、示寂に先立って弟子らに告げた「遺戒」は何とも凄まじい気塊に満ちみちており、その到達した孤絶の禅境をしのばせてあまりあるものがある。「遺戒」において沢庵は次のように言うのだ。「われに嗣法の弟子なし、若し万一我が弟子と称する者がいたらそれは法賊だから大罪に処せ。我が死に臨んで、経を読んではならぬ。鉢孟・供物をいっさい供えてはならぬ。我がために禅師号の授与を受けてはならぬ。祖師堂に我が位牌を祀ってはならぬ。長老遷化に恒例の斉を設けてはならぬ。我が息がすでに絶えたなら、夜間を待って速やかにかつ密かに野外に送れ。火葬をしてはならぬ。ただ野外に深く穴を掘り、埋めたのち芝をもって覆え。塚の形を造ってはならぬ。我が墓を探し出すことができぬようにするためだ。近侍の者も二度とそこに詣でてはならぬ。年忌と称するものも営んではならぬ]

時代はぐっとさがるが、幕末維新の混乱期もまた、信仰というものが試練にさらされたひとつの危機の時代だったと言ってよい。この時代、開国とともに西欧合理主義思考がどっとばかりに日本に流れこみ、そこから醸成された文明開化の風潮や近代啓蒙思想が、やれ古くさいのやれ迷信だのといって日本的信仰の前に立ちはだかったのである。そのなかでもいちばんの被害をこうむったのは、明治政府までが弾圧のお先棒をかついだ仏教であった。慶応四年(1868)3月、政府の神祇事務局は「神仏判然令」なる法令を布告した。政府はすでに政権発足当初から祭政一致体制をとることを標榜し、神道を国教として扱うことを明らかにしていた。「神仏判然令」はその方針のもとに布告された法令で、神仏それぞれの信仰内容に立ち入って両者の分離を徹底することを主な目的とするものだった。日本の宗教界は本地垂遊説(ほんじすいじやくせつ)などにもとづき、古い時代から仏教と神道が協調する神仏習合的なあり方をとってきた。神社には神宮寺が、寺院には鎮守神が付属するというように、同じ境内に寺社が合祀されているというのは、明治以前の国内ではごくありふれた光景であった。参詣する人々もそういう状況に何の違和感もおぼえず、合祀の寺社に等分の信仰を寄せてきた。明治政府は、.そのような宗教界伝統の神仏混清を非と断じ、神社と仏閣を分断させるとともに国家的祭祀の場においては神道のほうが仏教を凌駕するという方針をはっきり打ち出したわけである。神仏分離に関する布告はこのあともたびたび出され、やがて神仏を分導るだけでなく、仏教そのものを排撃しようとする動きをも呼ぴおこしていった。そのような動きのなかでもっとも過激な形をとって吹き荒れ、仏教側を震憾させたのが、廃仏殿釈の嵐であった。廃仏殿釈がどれほど暴力的・破壊的なものであったか、一例をあげてみよう。日吉大社といえば全国に三千以上の分霊社をもつ国内有数の大社だが、江戸時代までは比叡山延暦寺の鎮守としてあまり高い待遇を受けていなかった。延暦寺からみると往時の日吉大社の神官は「扶持を与えて飼っていた家来のようなもの」ぐらいの存在でしかなかったという。それだけに日吉大社の憤愚は蓄積されていたのであろう、神仏判然令が布告されると神官たちはさっそく小躍りして廃仏毀釈の実力行使にうって出た。彼らの破壊の対象とされたのは、神仏習合の風習のもと、境内に安置されていた仏教関係の品々であった。彼らはトキの声をあげると、手に手に槍や棒などの武器をたずさえ、いくつかのグループに分かれて散在する神殿に走り昇る。鍵は延暦寺の管理下にあったので、神殿の扉の錠前は力まかせに捻じあけられた。それから神殿内に乱入した彼らは、少しでも石仏臭のある物が眼にとまると、ことごとく階下の土面に投げ捨てた。それまで御神体として礼拝の的となっていた仏像はもとより、僧像、経巻、法器……と、まさに手当りしだいである。放り出された仏像・仏具類は、ほどなく二宮の社前に積みあげられ、神官たちの狂気じみた乱暴狼籍を受けることになる。足で蹴る、槍の石突きで突くなどというのはまだ序の口で、頭梁格の神官のごときは大弓に矢をつがえて仏像の面を射通し晴ればれと快哉を叫んだという。そして、あげくのはて、彼らはそれらの仏像・仏具類に火をはなち、ひとつ残らず焼き払ってしまうのだ。このとき、彼らの廃仏毀釈によって烏有に帰した伝来の文化財は、あわせて124点にのぼったと伝えられる。まったく見るも無残なありさまであるが、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れている最中、このような惨状は全国のあちらこちらでしばしば見かけられたのである。ちなみに明治政府の要職にあった大隈重信は、廃仏殿釈について次のような談話を残している。「明治初年の廃仏毀釈は、神道者国学者及び漢学者が主唱したもので、彼らが仏教に対する積年の怨恨を晴らさうとしたものだ。政治上の統一力が不十分であって、大いに乗ずべき余地があった」

大谷

文学者ではないが大谷光瑞のような人物も般若心経に取組んでいる。大谷光瑞は、大谷探険隊の組織者として西域の仏教遺跡の調査を行なった功績でその名が喧伝されているが、その表向きの身分は浄土真宗本願寺派第二十二世法主である。浄土真宗といえば、すでに述べたように般若心経を用いない宗派であるし、光瑞本人も西洋文明の摂取に意欲的で仏教の近代化に貢献した人物であった。にもかかわらず、そんな立場の光瑞があえて般若心経に取組んだというのは、般若心経の展開する宗教世界に近代的視点にもたえうる種々の教えがちりばめられているということを、持前の豪胆な心性をもって看取したからであろう。.光瑞は研鑽のすえ『般若波羅密多心経講話』を著わしているが、その冒頭の部分で次のように述べている。℃9「先ず第一にこの経を撰んだ理由は、この経が空を説いているからであります。仏教を研究するには一切空なりと云う、此の空観を得なければなりません。此の門を過ぎてはじめて奥座敷に入ることが出来るのであります。」  

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