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東大寺転害門の謎

 第2の事実は観世音寺を末寺としていた奈良の東大寺にある。南大門の西門を「転害門」というが、変な名前である。その門前にはバス停があって「手貝町」と書かれている。この門の呼び名の由来はさまざまで、手貝、天貝、手蓋などのあて字が使われている。婆羅門僧正がはじめて東大寺に入ったとき、行基菩薩がこの門で迎えた。その姿が手で物を掻くようであったので手掻門というとか、小野小町が落ちぶれて乞食になって云云などの俗説もある。

 ところで耳よりなのは『南都七大寺巡禮記』などの古文書に度々でてくる碾磑に関する記述である。「西向の南より第三門也。碾磑御門堂と號す。此の門の東に唐臼亭あり。故に碾磑門と云う。」また、「碾磑亭は、七間瓦屋なり。碾磑を置く。件の亭は講堂の東、金堂の北にあり。その亭内に石唐臼を置く。これを碾磑と云う。馬瑙をもって之を造る。その色白也。」ここで唐臼と書かれているのは、俗にいうから臼(足踏みの米つき臼)ではなく、外国から来たすばらしい石製の臼の意味である。また享保20年(1735)刊、村井古道著『奈良坊目拙解』(村井古道、享保20)には、右の記録をまとめて「尋尊僧正七大寺巡礼記にいう。天平の朝、瑪瑙輾害、東大寺食堂の厨屋にあり。これは高麗国より貢いだ所である。その西門を碾磑と云う。輾磑は、今俗に云う石臼が是である。」と記している。これ以上、文書を調べても何もわかりそうにないが、今の転害門はもともとは「碾磑門」であり、そこの近くに人の目をひく美しい石臼があったことだけは確かだ。

 この話を学生諸君に話したところ、熱心な学生達(赤松徹君と清原義人君)が付近を調べて「臼の目らしい跡のある石が、基壇部にありました」と、写真をもってきた。さっそく見にいってみた。確かに単なるいたずらにしては出来すぎている。8分画16溝直径一メートル余りの臼の目のパターンが復元できるのである。それぞれ隣接する分画も一部分が確かに存在する。「これは偶然のいたずらだよ」と私は言い切ることができなかつた。定規をあてると、観世音寺の碾磑と同じく、完全な平面加工の形跡もある。さりとて、碾磑と断定するには、確証がない。どこかに埋まっているのかも知れない。破壊されて積石にされたのか、天平の謎は容易には解けない。

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