リンク:角海浜鳴き砂発見の動機|巻町町長殿|東北電力への提言|03東北電力断念の記事|


鳴き砂発見から現在まで23年の動き

        1980年ー2003年の推移

1980年に週間朝日に列島草枕の記事を見た東京在住の大倉陽子さんから,角海に鳴く砂があるとお便りをいただいた。その砂は農業廃水で猛烈な汚染を受けていたので、鳴き砂の復活は容易ではなかったが、長い時間の機械洗浄で鳴き音を復活した。1982年3月30日、私は現地を訪ねたが、入口の立ち入り禁止の看板で進行を阻止された。このあたりは日本列島鳴き砂一直線ライン上にある。すでに山形県飯豊町遅谷で鳴き砂発見があり、その延長線上であった。意外にも女川原発で私を案内した人物がここでも動いていることを知った。

年月日 メディア 記事
1980.10 週間朝日 連載『列島草枕』
        書簡 現地出身の東京在住大倉陽子さんより角海は鳴く砂だったと
1981.8.22 新潟日報 投書(大倉さん)
1982.3.30 現地調査 間瀬→越前浜間を歩いた
1982.8.1 新潟日報 巻原発用地に鳴き砂があった
1982.8.19 ダイヤモンド社 著書『鳴き砂幻想』発刊
1982.9.9 現地調査 同志社大学生3人と現地砂試料採取 日報武井氏同行
1982.9.12 新潟日報 優秀な鳴き砂採取
1982.10.12 新潟日報 投書 巻町主婦賛成
1982.11.22 書簡 東北電力へ「角海の鳴き砂について」
1982.11.4 新潟日報 投書 大倉さん
1982.12.5 新潟日報 よみがえった鳴き砂
1982.12.6 書簡 長谷地質調査事務所(仙台市在)小貫義男教授への書簡の返事
1982.12.9 現地調査 巻町 東北電力原子力準備本部訪問 報道各社同行
1982.12.10 新潟日報 鳴き砂はほんもの
1982.12.10 朝日新聞 これでも鳴かぬか東北電力さん(首都圏販)
1982.12.11 朝日新聞 鳴き砂めぐり論争
1982.12.12 読売新聞 波乱呼ぶ鳴き砂論争
1982.12.13 朝日新聞 「登場」保護しよう自然の芸術品
1982.12.20 書簡 角海浜鳴き砂調査のこと
1982.12.23 書簡 小貫教授へ反論

1982.12.20

来書簡 東北電力巻原子力建設準備本部 渉外立地課長より
1983.1.28 現地調査 東北電力巻原子力建設準備本部訪問 アカハタ記者同行
1983.1.16 共産党赤旗 記事「鳴き砂のふしぎ」
1983.1.25 共産党赤旗 研究余話「滅亡寸前の鳴き砂」
1983.1.29 共産党赤旗 砂が鳴く キュッ キュッ
1983.2.26 新潟テレビ TNNイエスマイニイガタ PM10:00
1983.4.15 新潟日報 投書 大倉さん 鳴き砂の音を消すな
1983.4.13 書簡 「角海浜の鳴き砂に関する提言について 知事 県議 町議
1983.3.7 書簡(衆議院) 予算委員会第五分科会
1983.4.21 現地訪問 準備本部 副調査役宮本一正氏対応
1983.4.21 朝日新聞 原発か自然保護か論議 県と巻町に直訴する三輪教授
1983.4.22 新潟日報 鳴き砂9月に結論
1983.4.22 朝日新聞 東北電力が再調査を約束
1983.4.22 読売新聞 上半期中に再調査
1983.4.29 新潟日報 投書 鳴き砂保護は感傷
1983.6.3 現地調査 準備本部訪問(懇談会開催報告)
1983.6.4 懇談会開催 巻町公民館(原子力の金で作られた施設利用)
以後はわれわれがやるからまかしてと。    
     

 

 私がたびたび角海浜を訪ねたのは1980年代はじめの頃だった。 当時同浜は原発建設反対運動にゆれていた。現地で反対派に呼ばれて講演に出かけて、原発の看板を見て「こんにちは」と入ったら「ここは賛成派の事務所ですよ。このすぐ隣が反対派です」といわれてあわてたものだ。

1983年7月16日.砂供養を浜で実施した。角海の復活した砂を鳴かせてお鈴の代わりにした。

 反対運動の仲間の一人がそのご今日まで鳴き砂復活運動を進めている遠藤寅雄さんだった。1983年7月には浜辺で砂供養と称して浜で私が仏説阿弥陀経の一節を読んだ。(この町近傍の浄土真宗の寺すべてに参加を呼びかけたが、どこからも申し出がなかったので、私自身が読経するほかなかった。もしすべてのお坊さんが来るかもとお布施も十分準備していたが不要になった。このとき私に随行した研究室の学生がいた。彼はお経の一節を大学で習って出かけた。お鈴は鳴き砂の音だった。NHKテレビも取材しこれは全国ニュースになった。

はじめて洗ったときに発生した泥水の写真がある。

その洗浄は大変な時間を要した。右から左へ1月,1.5月,2月,そして更に2月連続運転してようやく濁りがほとんど無くなり、鳴き砂が回復した。それぞれの時間に出た水の写真である。このデータはいままで公表していなかった。あまりにも激しい汚れで現地の人々がガッカリするのではという思いからであった。こども達が洗浄に挑戦してもここまでは絶対に到達できないことだ。このとき出来た鳴き砂は現在、琴引浜鳴き砂文化館で保管している。なんとその発生音は現在日本に実在しないほど優秀な発音特性である。しかもこの砂がただ物ではないことは、キラキラ光る粒子はほとんどが高温石英であり、それが地球創生時に結晶した粒子であり、俗にいう岩(花崗岩や珪石)の破砕片などではないことを示している。これは重大な事実であるが角海の人たちに理解いただくのは容易ではない。

 その当時は浜は十分広がったが、その翌年頃から浜の侵食がはじまった。まず反対派が作った団結小屋が水没して流され、その後も浜の侵食は続いている。現在ではほとんど浜は姿を消しているという。3003年には遠藤さんは能登の門前町で開催された全国鳴き砂サミットに同町の町長らとともに参加して、「浜自体が失われています」と報告した。実は彼は同サミット第一回以来出席し、熱弁を振るって異色の存在だったが、2002年以来町長も同行するようになった。そして日本ナショナルトラスアトの全国鳴き砂サミットに正式参加を表明した。

 1969年に原発計画が公表されて以降40年近い厳しいたたかいがあった。日本で初めて住民投票を実施したのも巻町である。現在も原発は建設されていない。遂に原発を追い散らしている。今年も町長に聞いてみたら、「あそこには原発はできませんよ」とにこやかに町長は答えた(二次会の席上で)。

 ところで浜辺の砂は海に没したが海底に残っているはず。私はそれを確信している。以前琴引浜と琴ケ浜で海底浚渫器具を使って1キロメートル以上沖合まで鳴き砂が存在した事実がある。ここで浚渫試験をしたいものだ。

 なお2003年8月18-20日網野町の琴引浜鳴き砂文化館では、夏休みの自由研究で、この復活した角海浜の砂を試料にして、高温石英を拾い出すのを一つの課題にした小学5-6年生を対象にしたセミナーが開催される。私はこども達がどんな感想文を書くか楽しみにしている。このページのリンクで発表する予定だ。

戻る