リンク:巨大そば挽き巨大石臼出現

 


臼は亡びない

別冊食堂『そば・うどん』誌への連載石臼関連記事目録

柴田書店(東京都文京区本郷3-33-5) 1998年現在は池田取締役編集部長です。

(Tel.03-3813-6031)

 題目
5 1978  石臼の話
9 1979 1 蕎麦と日本刀
10 1980 2 金の拇指
11 1981 3 蕎麦とファインセラミックス
12 1982 4 東福寺
13 1983 5 歴史への誘い
14 1984 6 幻の碾磑
15 1985(S60) 7 石臼の精度
16 1986(S61) 8 粉を見る目
17 1987(S62) 9 馬の尻尾と絹
18 1988(S63) 10 篩の歴史
19 1989(S64) 最終回 臼は亡びない

最新号 1998(H10) 石臼製粉の魅力を探る-復活した石臼

 

これがその後の石臼ソバ全盛時代到来のきっかけになったようです。

以下は最終回の臼は亡びないの再録(入手できないので)です。

この連載をはじめて、いつか十年の月日が経過しました。ここで総集篇で締め括りたいと思います。いろいろな話が出ましたが、主流は粉づくりの道具としての臼でした。

臼は亡びない   三輪茂雄

1. 文明は粉づくりからはじまった

 10年くらい前のことだが、岐阜市外の田園地帯にある中学校で、輿味深い授業が行なわれた。先生が小麦の穂を見せて、「これは何だと思いますか」と質問する。ところが答えたのは40人中ただ一人だった。そこで、先生はこの穂を食べる工夫をしなさいと指示し、口出しは一切せずに、約一週間子供たちがやるがままにさせた。その過程を記録した映画(「わたしが見つけた小麦粉」日清製粉製作で、同社に言えばビデオを借用できるでしょう)がある。粒のままフライパンで煎る子にはじまって、石や金槌で粉にする子までさまざま。 それはまさに新石器時代初期から、紀元前数世紀までの人類のたどった道をありありと再現したものであった。小麦は粉にすればおいしく食べられる。小鳥しかたべないような草の実も、粉にすれば食べ物の素材になることの発見は、実は人類が一万年以上も前にたどりついた偉大な発明なのである。旧石器時代にはチッポケな石製の粉づくりの道具だった石臼が、次第に大型化してゆく過程は、人類文明のもっとも基本的な生産手段にかかわる発達過程だ。考古学者の発掘遺物によると、すでに1万7千年前ころの遺跡から、原始的ながら一様な製作様式を備えた石臼が見られる。そのことによって、人類は飢餓から脱出して、文明への道を歩んだのである。エジプト文明はサドルカーンと呼ばれる臼で粉をつくった。それは往復運動である。これを回転して使う道具にしたのは、紀元前数世紀に出現したロータリーカーン(日本の石臼と似た形)だ。それは中央アジアで発明されたと考えられている。ロータリーカーンの歴史を考えた二人の技術史家はこう書いている。「そこには、おそろしく険阻な知的飛躍が存在した。かかる進歩は非常にすぐれた技術者あるいは数学者の創造物以外ではありえない」。それから現代までの一万年間、さまざまな粉をつくる道具や機械がつぎつぎに出現して人間の生活を変えてきた。この年表では現代は右端に押しつめられて見えていない。ギリシャ、ローマ文明を経て、次第にこれが機械に発達した。中国では漢の時代に回転式の臼が、碾磑(てんがい)と呼ばれる完成した形に発達した。しかし、日本に回転式の臼が入ったのは、なんとそれより千何百年もあとのことだ。それまでの粉づくりはもっぱら杵と臼で行なわれていた。豊かな自然、山の幸、川の幸、海の幸に恵ま机た日本では苦労して粉をつくる必要に迫られなかったのだろうか。

2. 粉挽き臼の歴史

 今までにものべたように日本には回転式の巨大な石臼が天平時代に入った形跡があるが、これは広く普及するにはいたらながったようだ。鎌倉時代ころに中国に留学した僧侶たちによって、はじめて抹茶をつくる茶磨(ちゃうす)と、粉挽き臼がもたらされた。すりばちもこのころだった。第4回(12号)でのぺたように京都の東福寺には、「大宋諸山図」という寺の設計図の最後に石臼を水車でまわす工場の図面がある。米やそば、小麦などを挽く石臼が、庶民に普及したのは、なんとそれより何100年もあとの江戸時代初期のことである。なぜこの時期に急速に普及したのか。その訳は、その前の織田、豊臣、徳川の戦国時代の歴史が関係している。当時の戦いの遺跡がら、前述の茶磨と粉挽きの破片がたくさん発見されている。実はそれは当時の新兵器だった鉄砲に使う火薬の製造に使われたようだ。火薬は硝石と硫黄と炭の粉の混合物である、硝石と硫黄は粉にするのが容易だが、炭の粉づくりはたいへん難しい。それに役立った石臼が戦跡から発見されている。当時築城に動員さ机た石工たちは、同時に石臼の技術を学んだ。築城の仕事がない時には石臼をつくったという記録がある。そして泰平の世になると、百姓の道具としてひろく普及した。この石臼は当時の水呑み百姓たちにとって思いがけない用途があった。米は年貢で残らずとりたてられる。残るのは屑米とそば、稗、粟などの雑穀だけ。これを粉にした。晴れの日には豆腐もつくった。飢饉の言い伝えに「粉にすれば何でも食べられる」というのがある。弥生時代以来の杵と搗き臼よりも粉にする能率がはるがによい石臼の出現は、飢饉の耐久力を高めて徳川幕藩体制を支える重要な役割を果たしたといえそうだ。日本の石臼の歴史は、西洋や中国とは全く違う経過をたどったのである。大正、昭和にかけて食品加工の工業化がすすむにつれて、石臼は衰退していったが、第2次大戦末期の食糧難時代に、再びかつての飢饉の記憶がよみがえり、代用食を挽く風景が見られた。現在の年輩のひとびとの記憶にある石臼はそれである。しかし当時は熟練した目立て師が少なかったから、見よう見まねで粗末な目立てが行なわれた。「ゴロゴロと石臼を回したもんだよ」と語るひとたちがいるが、石と石とがぶつがりあって異様な音を出したのだろう。熟練した本物の目立て師の臼はシーという音をたてながら粉をつくる。現在各地の民俗館などで見る石臼はほとんどが当時のものだ。現代の年輩のひとたちの記憶がいかにいいかげんなものかは、手真似するときの回す方向を黙って観察するとよくわかる。十人中九人までが時計方向に回す。次にのべるように、臼を回す方向は反時計方向が原則である、逆方向では粉が出ない。このことは日本中いや世界中に伝えられてきた、塩ふき臼の民話が教えているところである。しかしなぜか佐渡近辺の石臼だけは時計方向に回る(これはも知らない謎です)。当然のことだが、水車で回した石臼は歯車の都合で時計方向のもあった。

3. 石臼文化圏

 石臼の日本地図を見ると目のパタ-ンや形に地方性が明らかにみられる。石材もそれぞれの地方にある

石臼に適する花こう岩、安山岩、砂岩、溶結凝灰岩などの石を使っている。黒丸は八分画、白丸は六分画といって、目のバターンが違う。上臼を反時計方向に回転すると、上臼と下臼の目の交叉点は外方向へ移動する。これは粉を送りだす働きをしている。もう少とつ粉砕しながら送り出す仕組みに、上下石の合わせ面の微妙な間隙がある。これを〃ふくみ”と呼び、中心部から外周方向へ向かって次第に狭くなっている。したがって、上下の円い石は周縁部分だけで接触している。この接触部分の幅が広いか狭いかにより、粉の性質は微妙に変化するから、この調整が、いわゆる「目立て職人」のもっとも重要視する技術であった。この密着部は完全な〃すり合わせ加工面〃で、これらの調整作業は相当の熟練を要し、昔は臼師と称する専門職人の仕事だった。石と石とは巧妙に粉をはさんで浮き、衝突しないのが原則である。「ふくみ」と呼ばれるくさび状隙間のつくり方は、挽くものの粒の大きさによって変化させる必要があり、このあたりに秘伝があった。

 目立てで大切なのは溝を掘ることよりも、粉に挽く物に応じて、目の頂上部分に適度の粗さを与えることで、ここをタタキと称する道具で叩いて加工したのである。熟練した目師が出す加工精度は、現在の機械加工の精度に匹敵するものであった。石臼は、外見の粗末さからは想像もつかない、精密機械だったといえる。

4. むすび

これからの日本で石臼の技術を保存してゆけるのはそばやさんだと思い書す。そば天狗さんがたくさんいて、どれがほんものかわかりにくいのやすが、それだけにできがいろいろと評価されて、熱も入ります。蕎麦屋さんにおおいに期待しています。

 臼類資料室 三輪茂雄

京都・四条烏丸のそば屋でも石臼挽き手打ちの提灯があったが、最近消えた。

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