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一向一揆は百姓一揆とは次元が違う

 一般に一揆といえば筵旗(むしろばた)を掲げて貧乏な百姓が領主に立ち向かうものというイメージがあるが,浄土真宗の一向一揆は護法のために坊さんが先頭にたつた,聖なる戦いであった。さらにいうなら,信長が利用しようとしたキリスト教を阻止した一種の宗教戦争でもあった。もし明智光秀が信長を撃たなかったら,日本はキリスト教に征服されていたかも知れない。東洋へのキリスト教布教の足がかりであった。西洋の東洋制覇を阻止する戦いを本願寺が果した。そして信長と最後には和睦してその後真宗教団はますます隆盛する結果になった。

 こういう史観は文部省的ではないので,教科書にもNHKの堂々日本史でも出て来ない。しかし事実は亊実だ。もっと語られてもよいのではないか。現在の本願寺さんの坊さんは語りそうにもないから,門徒の私が書くしかない。

 私の生家は養老鈴鹿山脈に囲まれた山地にある。この地は現在岐阜県養老郡上石津町と呼び,関ヶ原の南隣,尾張と近江の間に位置する西美濃で,北陸の越前,加賀と並んで中世には強力な本願寺の勢力域だった。そこに浄土真宗の唯願寺がある。長嶋一揆の折,この寺の住職明慶・明覚が中心となつて参戦したことが古文書にある。とくに「明覚,剛毅,膂力(ひりょく,腕力)人に過ぎ、能く拇指を以て貨幣を樹幹に圧入した(時村史)とか、合戦の際,矢が尽きると,萱葺(かやぶき)屋根のやばらを引抜いて矢にしたので、人々は.一羽覚坊の矢はつきじ」と驚いたという。また、藤原町大貝戸(おおがいと)には唯願寺の屋敷址と伝える所があり,また藤原岳の頂上付近(標高約1100 メートル)に,一揆の時,唯願寺の住職をかくまったと伝える大橋屋敷趾がある。

 石山合戦は元亀元年(1570)から天正八年(1580)8月教如の石山開城までの10年の戦いであったが,その間当町より多数の門徒・僧俗が参戦した記録がある。 念通寺の寺伝に,28世真誠房念,天正4年6月、石山に奮戦死す。顕如より九字名号・自筆軍扇・念珠・文書を給うとあり,また唯願寺明慶・明覚は帷幄(いあく=陣地の幕)の中にあって事に与ったといい(時村史),証如の御影が下付されている。また林正寺には第二世鷹順, 顕如の石山籠城のとき「味方せり」とあるが,その他の寺院も参戦したことであろう。 その他,慶長2年顕如の御影が教如の裏書で、牧田庄の惣道場中へ下付されており、慶長9年顕如御影が明覚寺へ,また遍得寺へも(年代不詳)下付されている。その当時下付の御文が,時地区で見ると、証如裏書二通、顕如裏書1通・教如裏書9通あり、他に、証如裏書1通が一之瀬本善寺にあり,その他にも多く下付されていると考えられ,唯願寺の教如御書にもあるように直参衆としてかなりの力を持っていたと思われる。

 東海地方の門徒は石山本願寺を援けるため,伊勢長嶋の願証寺を拠点として元亀元年(1570)11月信長に対して蜂起した。そのため信長は次後3回にわたって長嶋を攻撃した。最初の攻撃は元亀2年(1571)5月に開始されたが,一揆の強い抵抗にあい,西美濃衆の氏家朴全(直元)は戦死し,柴田勝家は負傷したほどであった。第2回の攻撃は天正元年(1573)9月に行ったが,また信長は敗れた。信長が10月北勢より逃亡するため多芸山にさしかかったとき,美濃多芸十日講を中心とする一揆約3000人に攻撃され,130人が討死し,信長自身もようやく大垣に逃れて帰陣した。第3回は翌2年(1574)7月から展開されたが,信長の和睦を口実にした,だまし討ちで遂に一揆は敗れて全滅した。(以上は上石津町郷土資料館長辻下栄一氏提供の上石津町史資料によりまとめたものである)

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