リンク:03全国鳴き砂サミットIN門前|今は浜なき角海浜|
サミット帰りの列車の中での独り言(車内メモに後で追加したもの)
03全国鳴き砂サミットIN門前(能登)を無事終わって、金沢駅で大阪行の急行サンダーバードの座席で独りになると、昨日から2日間にあったことが次々に蘇った。そしてある不安感に襲われた。サミットはこれでいいのか。鳴き砂はこれで保護されるのだろうか。そもそも保護とは何だ。人間の力で自然の保護などできるのか? 集まった人たちは殆どが浜辺の掃除に参加している人たちだ。しかし座敷や神社の境内の掃除とは意味が違う。掃除だけやれば保護できると思っているのか? 私が考えている鳴き砂のイメージとはおよそ違う。グルグル思考の輪が不規則に回り続けた。これが現代の鳴き砂の問題点だ。
1. 鳴き砂をトラストが初めて取り上げた頃は観光資源保護財団と称していたものだ。鳴き砂を「観光資源」という呼び名はふさわしくない。という声もあったらしく、その後日本ナショナルトラストに変わった。これはイギリスにある機関の名をそっくり輸入したものだったが、ナショナルとは国家主義が見え隠れて気になる。本来なら鳴き砂はインターナショナルな存在だが、名前に追加するには長すぎる。これもやむおえぬかとあきらめて今日に至っている。まあいいかと理解した。サミットとは首脳会議の略語だ。全国から鳴き砂がある市町村の町長が集まる趣向だ。実際には2ー3人は町長だが、あとは箒を担いだ代理ばかりだ。
2. 高温石英:鳴き砂について考えるとき、その正体は高温石英だ。その砂粒がただものではないことをわかるには地球創生の謎を秘めた高温石英結晶を自分の目で確認してはじめて納得できるのだが、これには難行苦行が待っている。私が三途の河原の苦行と称する5グラムの砂粒全部を詳しく調べてようやく1粒あるのが普通だ。日本一粗い琴引浜の砂でも3万個調べてようやく1個あればいいところ。たいていの人は途中でダウンする。イタンキ浜へ学生を連れて行ったとき、学生は一晩でようやく1個を見つけて大騒ぎだった。1個見つければそれを顕微鏡で見て顕微鏡の取りあいになる。「それを見つけたら幸運(高温)になる」といえばなおさらだ。今年の夏休みに網野町で実施したセミナーでも30人中たった一人の子が見つけただけだった。数が多いと目が散って認め難いためだ。(琴引浜の砂については、拙著『粉体工学通論』第一章の問題1.6にデータと計算がある。これをもとに計算すると1kgの砂の粒子個数は6.17×10の6乗個、5グラムの中に1個見つかればオンノジだとして、3万個に一つというわけ。これを顕微鏡で見てゆくのだから容易ではないわけだ。
今回も金沢工大の教授は石英質の岩が壊れて砂になったと考えている。ただものではないことは全くわかちゃいない。こんな教授を担いでいた門前町が気の毒だ。困ったことに町長はそれに気づいていないようだ。琴引浜の砂とイタンキ浜は特別粒子が大きいと、それも格別大きな声で言ったが、「イタンキ浜は日本一細かいのに何を言うか」と琴引浜から来ていた人たちはクスクス笑っていた。
3. 沙漠のブーミング サンドを体験しなければ海浜の鳴き砂も理解できない。私はそれを体験したくて、アメリカと中国調査では駱駝の沙漠の旅をくりかえして、ようやく海の鳴き砂も沙漠のブーミング サンドも同じものだということをはっきり理解できた。ところが全国鳴き砂サミトに参加した自治体の方々は琴引浜以外はブーミング サンドを見ていないから、話が通じない。
4. わかっていないこともある。沙漠の砂には高温石英が見つからない。なぜだ。同じ風化ならあってもいい。あの膨大な砂の起源は。未知は夢だ。
5. ブーミング サンドのある場所には必ず小さいながら、湖があって、そこには貝や蛭や魚まで棲みついてひとつの生態系を構成している。どこから来たんだ。鳥のせいか。
6. 角海浜は浜そのものが全部失われました。と鳴き砂を蘇らそう会の遠藤さんが言った。でも浜は無くなったとしても、鳴き砂が失われたとは限らないのでは。鳴き砂は海の底で救助されるのを待っているのかも知れない。角海の砂は私が極端に長い時間をかけて復活に成功した。それは何と現存する日本のどこの鳴き砂よりも発音特性が優れていた。日本一達成であった。しかしその時の泥の発生はすごく、これも最大であった。
現在海中に存在するとしたら、浜にあるのと違い、乾燥しないので、こんどは復活が早い可能性もある。すでに女川をはじめ、琴引浜や島根でも海底の砂を調査したことがあった。いずれも浜から海中約1キロまで鳴き砂が存在していた。
遠藤さんに調査してもらおうか。
7. 皇太子殿下も秋篠殿下も蛙砂はご存知
皇太子殿下には島根・仁摩町の仁摩サンドミュウージアムへ行啓の際私が見せたら、自ら試して「ああ蛙の声ですね」と、また秋篠の宮には宮中宛にある人物に託したところこれからもって行きますと電話があった。
8. 今回のサミットで私は再度鳴き鳴り論争(鳴き砂;鳴り砂論争)を取り上げた。これはすでに江ノ島サミットで話したことだが、反応がなかった。参加者が変わるので、以前の記憶がない方もあろうかと再度取り上げた。門前町の浜辺にはお小夜が浜で泣いたので泣くの方言「ごめき」と呼ばれている。それを役場の衆は琴ケ浜と呼んでいるのはなぜか。国土地理院の地図には確かに琴ケ浜とある。私がなぜ現地にはごめき浜と看板が出ているのに、地図に琴ケ浜とあるのはなぜかと現地で聞いたら、定梶さんという剣地の有力者は「これは近年つけたもので、私の父定梶宗次が昭和初年に付けたと聞いています」と聞いた。この話を今回の講演でも話たが誰も反論しなかった。これでもなお鳴り砂と呼ぶ人がいたら相手にせず、声高な某教授同様自然消滅を待てばいい。
9. 室蘭のイタンキ浜の寺地さんが現在の同浜を守る会会長である。はじめてイタンキ浜が鳴き砂だといいだした人物は牡鹿半島の鳴浜の対岸にある小屋取浜の住民だった山下信雄氏だ。彼は十八鳴浜と同じ宮城県なので鳴り砂と呼んだ。氏は早逝されたが、私が女川原発と対峙しているとき、鳴き砂を知り、自ら建設中の原発施設の中に入って捕まりカメラを取り上げられた方。そのご「北方は私にまかせてと、北海道まで調べて、小清水海岸の鳴き砂を発見した方だ。一度NHKテレビで鳴き砂の話をされていたものだ。それまではイタンキ浜が鳴き砂とは知られていなかった。現在の同浜の守る会会長の寺地憲一さんもそれ以後のことである。講演中寺地さんを呼び出し事情はこうですと言った。なおイタンキ浜は砂の中に前述の高温石英がたくさん見つかることでも注目すべき浜である。今年はイタンキからは会長以下11名という大挙の参加者であった。大部分が浜掃をしているおばちゃん連である。琴引浜と同数で、しかも汽船で往復1週間かけてとはすごい思い入れだ。それにしてもこのおばちゃん連も高温石英を見ているだろうか。その浜の重要度をどこまでわかっているだろうか。