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砂は鳴くのか鳴るのか   
・・・・・・・・・鳴る砂などはありえない・・・・・・

 日本にはもともと鳴き砂の呼び名は古来からなかった。砂が鳴くのはあたりまえのことであった。中國では鳴沙山があった。唐代のいくつかの文書に出て来る。ただし砂の名ではなく山の名前である。西洋でも呼び名は一定していない。19世紀になって研究者がSinging sand, Musical sand, Squeaky sand, Sonorous sand,.Sound Produsing sandなどと呼んだ。日本で 日本最初の鳴き砂研究者新帯国太郎は大正15年に鳴る砂と呼んだ。新帯先生は当時の満鉄におられた方である。そのご1929年金尾宗平は歌い砂(音楽砂)と書き、1937年 栗原嘉名芽は応用物理の報告で鳴り砂。1962年 土橋正二は鳴砂、1968年には地質学会誌で坪井博士は歌ひ砂と呼んだ。橋本万平は鳴り砂だった。1966年頃千葉大学の高浜 光が網野に来て、現在の琴引浜の保護活動の総元締めである松尾庸介さんの親父さんである栄治さんのに鳴り砂と言ったのが現在の京都府網野町掛津で鳴り砂の元になったらしい。掛津にも古来の呼び名はなかった。
 私も初期には論文に鳴り砂と書いたが、高名な音響研究者(物理学者)から注意された。「科学研究者が何たることか。鐘は自由振動だから鐘が鳴るというが、鳴き砂の音は余韻を伴わない強制振動現象である。鳴き砂と呼ぶべきである。鳴く鳥とはいうが、鳴る鳥とはいわないだろう」。要するに強制振動は加わっている外力がなくなれば音は止まる。沙漠のブーミングサンドは余韻があるようだが、砂が重力(外力)で動いている間は鳴くわけだ。砂のすべりが止まれば音もとまる。平凡社の百科事典編集にあたって、編集局が慎重に調査した結果やはり鳴き砂になった。それ以来鳴き砂に統一してきた。いまでも鳴り砂と呼んでいる人がいたら、老人ならともかく、若いものならチャント日本語を勉強しろというべきだ。砂が鳴るのなら烏が鳴るというべきだ。

万葉集をもちだした国文学者
 島根の仁摩サンドミュージアム建設のとき、ある高名な国文学者がしつっこく鳴り砂説をぶった。万葉集にあると。また読売新聞の窓欄に額田王の歌を引用して万葉集にも鳴り砂の記載があると報じたこともある。さすが万葉集が出てきたのでは、私もひっこめざるをえなかった。。1999年になって当時駒沢大学院生だった伊藤達氏が調査した。原文は「紫之名高浦之愛子地袖耳触不寝将成」で万葉仮名で書かれている。これは素人では読めない。現代文にすると「紫の名高の浦の砂地袖のみ触れて寝ずかなりなむ」意味は「名高の浦の砂浜に袖が触れたけで寝ずじまいになるのだろうか」。はなはだ高尚な意味深である。語釈は砂地は組かい砂のある所。マナゴには愛児、いとしい少女の意音語があり、原文「愛子地」の表記もそれにかけているのだろう。旅先で言葉をかけた可憐な少女の袖に触れただけで寝なかったという淡い淡い恋物語。場所は、名高の浦 和歌山県海南市名高町の海岸だが、この歌は鳴き砂のことを詠んだ歌ではない。 ちなみに語釈は日本古典文学全集(小学館)による。他の注釈を見ても鳴き砂と解釈したものはない。少女との淡いかなわぬ恋を詠んだ歌だ。もしあくまで主張するならちゃんと万葉仮名を理解してからにしてということだ。同書万葉集巻七にある。
 網野町は目下ナショナルトラストが音頭をとって鳴き砂文化館ができた。ある研究者が不用意に使ったのが流布したものでトラストの'九九全国鳴き砂サミットIN湘南 平成11年11月20-21日(日)ので私が発表した。砂に関する唯一の学会誌 日本砂丘学会誌でも報告済み。査読委員からok を得ている。粉体工学会誌にも四分法の記事になった。なお仙台在住の民俗学者がクグナクというのはあって、小さい声で唄を歌うことで、やはり鳴くのだといわれた。
 十八鳴浜のルビ
 難しい地名によく出るのが十八鳴浜である。クグナリ浜と現在は呼ばれている。ところがすぐ向かいにある同じ鳴き砂の浜がクグナキ浜とよばれている。向かい合わせだから呼び名を多少変えたのかどうか不明だが、本来ルビはなかったので仕方ない。 日本列島の先住民族といわれるアイヌ語にキリキリkiri-kiriという語があり、歩けばキリキリと音を立てる砂浜とある(『地名アイヌ語辞典』)。 岩手県上閉郡大横町吉里吉里は井上ひさし著『吉里吉里人で有名になったが、現地の砂は一九八二年四月に訪たが鳴き砂ではなかった。 砂の状態が何かの原因で変わった可能性もある。
 地名から:地名を追う方法もある。宮城県では、九九鳴浜、十八鳴浜、鳴浜、十八成浜と古人はそれぞれ浜の名に、鳴き砂の存在を伝えた。この種の地名はほとんどが音から来ているらしい。九十九里浜についてはすでに大先輩の新帯が指摘し、現在の成東町には鳴浜という地名もある。九十九里浜の臨海村落で,岡、新田、納屋の三集落からなる半農半漁の村落だったが,一九五五年に緑海村と鳴浜村の一部を編入して成東町になり、残の鳴浜村は片貝町と豊海を合併して九十九里 町なった。現地を訪ねてみると、鳴浜中学校や鳴浜農協など旧名が残り、タクシーに鳴浜というとの浜に案内してくれた。しかし鳴き砂の気配はかった。成東町歴史民俗資料館に九十九里の波音をたたえた歌人伊藤左手夫の資料がある。保存された左手夫の生家に入って耳を澄ますと浜鳴りが聞こえてきた。砂鳴(さなる)といえば気になるが、'他人の空似である。浜松の近くに「佐鳴湖」があるもそれだ。高知琴ケ浜は黒い砂で松籟を琴のにたとえたらしい。

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