リンク:仁摩サンドミュージアむ温度変化に敏感なことの実験結果体積計算法テープ年表のテーブル直径計算


タイムスケールの思想    (このファイルは16kBです)

 砂時計と紙テ…プ年表の理念(砂時計哲学誕生)

 最近JR大阪駅中央コンコースに奇妙な一時間砂時計様の展示物が出現した。製作したのは東京の柴田科学器械株式会社だ。この会社と私の出会いは今から十数年前のことだった。その頃の図面を勝手に持ちだして作ったに違いないから、当時の部長を呼びだしたら、私は会社を退職しましたから知りませんという。「会社人間は無責任だ。」と言うと調べて「少し変わっています」と弁解。それにしても時間待ちのためにとはなんと理念なき話。金を使うならどこかにこだわりや高邁な理念があってほしいものだ。

大きな砂時計への挑戦は1986年に始まった

 私は1991年スタートした、1年ながれ続ける巨大砂時計を作る計面に夢中になっていたことがあった。出雲から西へJRで1時間かかるという辺鄙な地(島根県仁摩町)だったから、見落とした方も多かったようだ。1986年5月4日鳴き砂を守る会が結成されて同会から私が呼ばれて講演会があった。その席に来ていた泉道夫島根県仁摩町長から突然「何でもいいから世界一の大きな砂時計を作って」と言いだした。どうせ町長の放言さと思って気にせずに帰った。連休だったから、広島からの新幹線は超満員であった。

 まもなく大真面目な松浦助役(当時総務課長)から、町長は本気ですよ。いい枝ぶりの松を探しておけと言っていますから(命がけの意)」。後から聞いた話だが、実はあちこち当たって誰も本気で相手にしなかったという。

 

 この巨大砂時計は工業製品だから、冷蔵庫や冷暖房器並に寿命は10年を越えないはずだが。いまでも検索キーワード「世界一 砂時計」で出るから、一位を保っているらしい。

 費用は一億円。当時地元出身の竹下総理の肝煎りだった。要するに時間を見えるようにしようというわけ。町はただ巨大な砂時計を地元の鳴き砂の浜、琴ケ浜の砂で作って欲しかった。 同年10月15日付の私の町への公式計画書によれば、「同町の琴ヶ浜の砂を使って出来るだけ大きい砂時計たとえば1日計を作り、それに付随して各種大小さまざまの砂時計(たとえば中国14世紀の砂時計の模型など)を配置する。パネルで、もし琴ケ浜の砂で作ったら、どんな大きさになるかを図示する。」とあった。文献によると世界一はシリアの王様が作らせたという1日計(日本でも展示された)だった。

17世紀に シリアの王様の1日計(高さ47cm直径24cm国立Dマスカス博物館蔵(1977年時の記念日)

次第にふくらむ計画

琴ケ浜の砂の粒度は250-180ミクロンであったから、限界粒子径(孔を通過できる最大粒子径)が1.75mm 、嵩密度1.5ton/m`3、流出速度0.9226[kg/h],

安息角40度と次第にデータが出るにつれて、1987年4月になると10日計いや、1年計にと町長の要求は次第にエスカレートしていった。まるで暴力団との付きあいに似てるなと思った。そして全高15m、砂充填量15tonと出た。さあ大変だ。

 毎年年末に除夜の鐘とともにこうやりたいと。このマンガが結局最終図面になってゆく。

 ガラス円筒の容器はガラスにこだわりたい。当時直径1mのガラス管を使えば高さ15mになるという計算になったとき、町長はこう言うふうにやる気ですかと言って町長に見せた絵が上図である。

砂を求めて--郷土の砂にこだわらず

 高さ15mは余りにも大きい。地元の砂は断念して、どこか鳴き砂の浜辺にしようと決まって次の目標は日本一細かくて風船爆弾に使われた勿来の砂をと現地を訪ねたが、なんとその浜はすでに土建業者が占領して立ち入り禁止の立て札があった。このときNHKの取材班が同行していたがどうしようもなかった。最後の手はガラス用に販売されている遅谷珪砂から取りだすことになった。しかし珪砂は静電気を帯びやすい。ことに洗浄するから当然である。この頃珪砂を1トン洗浄できる大型機械を平塚市の徳寿工作所で開発中だったので、これを利用することになった。その機械はそれ以外には使われずじまいだった。      

 粉と粒の境界線ギリギリ。 砂といえば粒が見える。粉は粒子が肉眼では見えない粒々から出来ている。粉時計ではなく、砂時計でなければならない。その境目は100ミクロンである。いっぽう限界流出口径は粒径の6倍というのが粉体工学の通念である。とすれば限界流出口径は600ミクロンと出る。      

 最初は1分計製作からはじまり、次第にスケールアップしてゆく、化学工学の典型的課題だった。一日計から見ても365倍である。こういうのを化学工学ではスケールアップ比というが、異常に大きい。

私の研究室は砂時計専門店顔負けのショウ ウインドウとまがう状態だった。このなかの最大は1日計であった。どれもそれぞれ種々の私のアイデアを込めていた。この製作は東京の筒井理化学器械だった。

 

 

ようやく1日計完成〔1987年3月

途中でたどった苦心の道中

 細い部分を今後ノズルと呼ぶが、ここを巡っても種々の試行錯誤があった。耐摩耗性を要求されるので、石英ガラスやパイレックス ガラス、SiC,アルミナセラミックスなどの平板に正確な孔を開けた部品をそれぞれのメーカーに依頼して試作した。そして平板オリフィスではなく、ノズルに落ち着いた。ノズルの口径測定にはピンゲージと称する精密機械に使う0.005mm飛びで0.075から1.000mmまでのピンゲージという道具(精密に加工された真っすぐな鋼線)を購入して利用した。これはノズル径測定に大いに役立った。

 ここから365倍への道中はガラス器具の試行錯誤の長い紆余曲折があった。その一例がノズル部分の設計であった。まず作ったのは細い部分に詰まる下記図の特殊粒子だけ除去する装置であった。5リットルのフラスコを2個連結して砂時計を作る。気密な連結は完全な磨りあわせで対応。上下フラスコの中間にノズルその下に閉塞したとき、それだけを外へ取りだす。

 ところが閉塞粒子ではなく、衣類からの糸屑が見つかった。赤いセーターの日は赤、青の日は青。かなり気をつけているのにこれではたまらない。特殊な滅菌質がいるかとも考えたが、糸屑ならふるい分けで対応できるはずだ。これはふるい分け機械メーカーに任せることに決定した。徳寿工作所なら経験があると判断。

閉塞粒子除去装置、後にノズルテスト装置に変わった。

 

ボイルーシャルルの気体法則の関与を知る

 1日計は東京の科学技術館に展示することになった。ところがなぜか途中で止まる。それも子供が球部に触ると止まるという。あわてて現地へ行ってみるとその通りだ。これは下手な魔術師が私はこの砂時計を止めると称して手をかざすことがある。pv/T=一定という中学時代に習ったあれだ。結果を知ればナーンダだが、大きい砂時計でなければ問題にならなかった。

ガラス細工の名人出動

ノズル部分(ここだけは名人の手作業

あとはノズル部分の製作だ。筒井理化学器械にはお抱えのガラス細工の熟練工がいた。そこでその職場を私自身が訪問して、無理を承知で頼み込むことになった。「上の図のように作ってほしい。上下対称で角度も寸法も寸分も狂いなく。もちろんそれは無理だが、100個つくれば、一つや二つはできるでしょう」。下町の木造の家が職場だった。そこでガスバーナーの火が上がっている。「大丈夫ですか」というと昔からやっているから、火事はないと。折から夏が来るが「やってみるか」と。下町の江戸っ子気質だ。

 でき上がった幾つかが納入された。「残りは」ときくと「びしゃっチャッタ」。だめなに決まっているのができたら、バチンと捨てるのが楽しみだった」と。そして箱一杯の屑を見せてくれた。職人気質だ。この職場は後にNHKテレビで大砂時計の一部始終が放送されたとき紹介された。

Pin ゲージと孔の投影写真による比較T5が実用された。

 それを先の閉塞粒子除去装置にビニールパイプで接続して、流量と上下反転しても変化がないのを選んだ。ようやく1個が試用可と判定された。(後日談:この職人の工場は火事があり、その語病死されたので、もはや製作を引き受けてくれる人物はいない)

 

上下球部をパイプで連結

上の球は常に減圧状態になっている。そして粒子の流量を半分以下にすることも分かった。

だから適当に減圧状態に保つ必要もあるのだ。ということは空気圧力の自動制御が必要なことも分かった。

 

このころガラス管は日本では最大直径1mしか入手できない。ドイツかアメリカからなら、1mが可能になる。町長はドイツへ飛んだ。彼が話し出すと、「すごい。われわれは国威をかけてやります」と。さすがドイツと感激。これは正解だった。、                                        

最新鋭の光センサー導入

ただ大きいだけでない砂時計がもつ意味

 一年計砂時計の慨形設計図1988.11.20提出図

 総ての条件を考慮して町に提案した慨形図は上である。砂時計の標準設計がこれで決まった。砂時計は出来るだけ簡単化し、円弧と直線の組み合わせを考えた。円弧部と直線部の接触部は切線接触である。この段階では砂の充填量は正確には決定できなかったので、余裕を20cmとった。砂の充填量を計算する計算式も誘導しなければならなかった。

徳寿工作所の協力

1988年4月ころから、平塚市のふるい機械メーカーが1日計の実験に協力することになった。当時同社社員だった志波靖麿氏が実験を担当した。(彼はその後一年計を監視する専任者として仁摩町ヘ移ることになった。砂をふるい分け機械で処理する仕事であった。1日計が大学と同社で平行して実験が進んだ。 

  意匠登録や特許や特許申請した図面(1988年3月)

巨大砂時計をつくる意味

 この仕事の意味を考える時間が1日と長くなると、いつしか私は哲学の世界に入っていったようだ。砂時計哲学ともいうべきか。 当時砂時計計画を訝る向きもあったが、砂時計では、今流れている時間が見えるし、過ぎ去った時間は、豊かに蓄えられて砂の山になり、残りの時間もおおよそであるが見える。1年計の前に立って、同じ砂で、同じプローションで作るとしたらと想像力を働かせていただく。人生100年の人生計は球部直径4.6メートル、全高16メートル。なるほど人生の偉大だと実感できる。

 人を待つ時間は長く感じるのに、楽しい時間はアッという間に過ぎて行く。そんなラフな感覚で悠久の3000年といったり、人類史500万年を論じたり、さらに褒境問題を論ずるときには地球46億年を考えたりする、億という数字も竹藪に落ちていた1万円の札束を連想するぐらいが、せいぜいである。時間の感覚はあやしい。ことにデジタル時計の出現はそれを極端にした。

「46億年の地球の歴史に私たち人類が出現するのは、ほんの最近の出来事です。 地球誕生から現在までを1年間として考えると、人類の登場は12月31日の午後11時59分ごろのことになります。」

 高校の先生もこういう説明をしたが、私はマヤカシだと思った。 従来このような説明がなされてきたが、私はワカラなかった。 実感できない時間を時間に置き換えただけだからだ。
 人間が実感できるものの大きさは長さと体積と重量しかないからだ。 科学のあらゆる測定器具か器械はすべて長さと体積と重量に基づいている。 電流計だって目盛という長さだ。

  マンガ家の手塚治虫氏はこう書いてる。「 想像もつかない、とてつもない長い時間をかけてこの地球はできたのだ。」さすがの 手塚先生でも、46億年と いう時間を想像するのは難しかった。 それは頭の中で 考えるから、手に負えなくなる。手をつかって形にして 示せば、もっと分かり易くなる。

地球46億年とは

 地球の歴史計は直径1.6キロ、全高5700メートル、富士山を遥かに越えて天空にそそり立つ。それを考えただけで誰でも哲学者になる。日頃の喧曝から離れてこんな瞑想にふける幻想的な施設が実現したのは1991年だった。

想像力を働かせばとその脇に置いたパネルのイラスト

 私は1年計を丁度1トンの砂でつくることにこだわった。1億年計には1億トンの砂がいるが、これは日本のセメントと骨材の年間生産量や、鉄鋼の生産量に比肩する量である。現代日本の巨大な生産力、それがもたらす結来についても考えさせられる。これで日本文明を考えてもらいたいと思った。だがこれだけではただ驚くだけ。もう一歩進めてほしかったが、島根の田舎では無理な注文だった。「そういうのは東京でこそだ。ド田舎では無理だよ」と言われた。この話は銀行協会での講演会で出た話でさもあらんだ。

 

1991年7月22日付け書類:

 たまりかねて仁摩町の役場へこの絵を携えて企画課長の机を叩いて示したことがあった。その脇にあった添え書き

 島根のど田舎のミュージアムに来れば

  八岐大蛇が(大蛇の子はコロチ) 群れ騒ぐ

     なまはげ頭を叩いて見れば

        チャランポランと鳴りわたる

           ソレ ストトコトントン ストトコトン

 頭には町長以下課長連の似顔だった。どこまで真意が通じたことか。

人類500万年史 (タイム スケール)

 人類の歴史は500万年という。これはどれくらい長い時間が経過したのだろうか。それを可視化する別な方法をNHKテレビ市民大学講座で実演したことがあった。人類の痕跡が認められる時代まで遡って500万年史年表をつくって見た。時間は今とほぼ同じテンポで過ぎ去ってきたのだから、目盛は当然、等間隔にして、時間の長さをテープで実感できるようにする。また現在から書きはじめ、私自身が生きてきた長さもはっきり記入しておきたい。自分自身が体験した長さをひとつの確かな基準とするのである。最小限、百年を1ミリにとれば、なんとか私が見える。信長や秀吉どころか、ローマもエジプトもごく最近のことのように見える、千年が1センチ、一万年が10センチ、10万年が1メートル、百万年が10メートルだから500万年で全長50メートルになる。ずいぶん長いので、7色の紙テープを使うことにした。はじめの10センチ一万年は白、あと50万年毎に黄、青、ピンク、緑、紫、赤色にすると直径約 センチのハンディな虹の歴史年表になる。先史時代になると一万年毎に目盛をつけるのはかなり振気のいる仕事だが、けっこう楽しいしい作業である。先史考古学、人類学などの本を見ながら書き込んで行く。これを巻きとってしまったのでは意味がない。引き伸ばして机の上に山積みする。その机からこぽれ落ちそうになったボリューム感は、現代につづいている歴史の重みをはっきり印象づけてくれる。

 テープは文具店で一本(約25メ…トル)60円、7色買っで420円そこそこであるから日曜日の手頃な遊びである。、

恐竜年表

 しかし古生物学や地質学になるとこれでは間に合わない。そこで恐竜が栄えたジュラ紀、1億4000万年前までを作ってみることにした。透明アクリル製リールの直径は1メートルになった。さて、これに先に作った人類500万年史を巷きつけてみたら、外側に辛うじて見える薄い層になった。恐竜は2億4000万年前に地球上に現われ、1億7000万年以上栄えて6500万年前に突然絶滅したという。このテープ全部よりもはるかに長い期間である。だからこそ、その巨大な骨が地層に残る。

、それを復元した姿が子供たちの人気ものになっている。それに比べると、人類史はとても問題にならない。地層にプラスチックスやコンクリートの破片、放射牲廃棄物の痕赫を、記念品として残せるかどうかさえ疑わしい。

地球46億年年表

 島根県仁摩町では1年砂時計の建物の中で直径2.5メートルの透明リールに巻いた地球46億年テープ年表を作った。そのリールは東京の理化学器械メーカーで作ったので、その運搬は島根まで船便で送られ仁摩港に陸揚げされ、あとトラック便だった。そのままでは山陰線のトンネルを通過できなかった。テープは東京のメーカーから購入し、大学から宅配便で送った。

 46億年.はテープ全長46キロメ…トル.。紙テープ1840本であった。これを製作する作業は私が指揮をとり、新任のコンパニオン4人を動員して始めたが、それはそれは壮観だった。まず広いと思ったミュージアム構内では最大25メートルしかない。外では風に揺れる。テープを延ばして引っ張る係、スケールこれに恐竜年表をつなげば、これまた外側のうすい層になってしまう。これを延ばせば大講堂一杯になる勘走だ。   46億年.はテープ全長46キロメ…トル.。紙テープ1840本であった。これに恐竜年表をつなげば、これまた外側のうすい層になってしまう。これを延ばせば大講堂一杯になる勘走だ。さて巻終わったと思ったら、テープの上面がデコボコだ。これではガラス板が乗せられない。「さーどうするべ」。近くの大工さんから鉋を借りて来て、私が一日掛で鉋掛でなんとか収めた。

 現代人に世界観の変革を迫る七色の地球年表は現在仁摩サンド ミュージアムで展示している。これも文字通り世界一である。

おおいに感動した父子は揃って説明書を口にくわえて聞き入っていた。

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