リンク:九州に残るお潮斎取の行事塩と祭り、盛り塩の民俗|第一の網野町の白滝大明神|第二の京都先斗町の石臼大明神恋の浦伝説


福岡のNHKスタッフの福岡付近の鳴き砂取材に同行して

 鳴き砂探訪の旅を続けていた1980年の7月初旬頃のこと、金尾宗平『地球』11巻1号,44-46(1929)「福岡地方の地學的新事實」という文献に「奈多の七不思議の中に”雀が歩く、砂が鳴くとあるのをもってしても、昔から地方の人には解っていたらしい」と書いてあるのを見つけた。そこでそこで福岡県教育委員会の天然物記念係に間い合わせてみたが「初耳です。そもそも歌い砂とはいったいなんですか」という頼りない返事が帰ってきた。伝説や民話の本を調べても見つからない。

 週間朝日の原稿の取材で一度訪ねたことがある。しかしその頃は現地に詳しくなくて、漫然と歩いただけだった。

 2004年2月 17-18日NHKの鳴き砂の取材があった。私は体調が悪くて福岡行をためらっていたが、「奈多の七不思議のほかの6つがわかりましたよ」というので探訪を強行することにした。 担当者は計画の変更を考えているようだったが、こうなれば万難を排して行くしかない。

 17日は奈多の海洋博物館でスタジオ取材を済ませ、翌日「福岡の海の中道、奈多および恋の浦を訪れた。レポーターは環境音楽家の勝木ゆかりさん。海の中道の道標に従って行くと、志式神宮(福岡市東区奈多778-1)があった。ここで同神宮の宮司さんからお潮斎取の話を聞いた。私にとって鳴き砂を訪ねて出会う第三の神である。同神宮のHP:http://www.fuku-c.ed.jp/schoolhp/elwajiro/gakkounomawari.htmによれば、聖武天皇の頃(740年代)に肥前の国、五嶋の志々岐大明神を勧請し、1597年に二社を合祈、志々岐三郎天神と称した。明治維新後の1872年神社号制定によって今の志式神社と呼ばれるようになった。毎年7月19日と20日は、この志式神社の境内において志式座と呼ばれる祇園芝居が行われている。この芝居の起源は、1874年に大飢饉で疫病も発生し、病死者・飢餓者が続出したため村人たちはこの志式神社に祈願したところ疫病もおさまったことから、神様へのお礼にと芦屋から大蔵組を呼び、歌舞伎奉納をしたのが始まりという。

志式神宮という本殿へ向かうNHK取材班一行

 七不思議とはあとの不思議は何か。宮司さんによると1には奈多に火事がない。2には盗難がない3には難産がない。4にはここは玄界灘の波の音が聞こえない。5には穴蜂がいない。6には砂がものを言う。7には雀があるくだという。これが「雀が歩く、砂が鳴く話につながっていた。。なるほど、積年の謎が解けた。たしかに玄界灘の荒波の音が聞こえないとは不思議である。その日もまったく波音は聞こえなかった。本殿前にはお参りする場所に机があって、そこには供えた砂が小さな山になって並んでいた。この砂を浜辺から持ってくる道が、松林の中を浜に向かって続いている。この道の脇には往時の祭日には出店が並んだという。

 宮司さんの案内で奈多の浜辺に出ると、当日も雀の足跡がくっきり見つかった。そして確かに砂も鳴いた。この砂は確かに鳴き砂だった。 すなを神聖な物として大事にした古人の思いが蘇る思いがした。

志式神宮の拝殿には参拝者が供えた砂の小山が並んでいた。


 

奈多海岸には雀の足跡があった。鳴き具合を確かめたのか足跡の交叉もあった。

しかしすぐ近くで漁港建設が進行中であり、さらに付近は不法投棄の廃車もあるゴミ捨て場でもあった。

 いまどき漁港建設でもないと思うが、それを悲しむように砂が泣くのは哀れで悲鳴に聞こえた。4月のNHK特集番組「ニッポン ファンタジー紀行」で放送される予定という。

恋の浦訪問

 海の中道の取材を終えると津屋崎町の恋の浦へ向かった。ここは藤七と嘉代の悲恋伝説で知られている。

2004年の恋の浦の砂もまともに鳴いた

この浜はうみがめの上陸で知られているが、鳴き砂の看板はない

看板の後に見える柵は飛砂防止竹柵である。

http://www.yado.co.jp/tiiki/munakan/koinoura/koinoura.htmに町の観光案内があって、嘉代、仙吉の伝説が紹介されている。

うみがめも砂のうえを歩く時は、ここの砂の音を聞いているはずだと思う。

戻る