リンク:2004年第三の神様出現|網野町の白滝大明神|


京都・先斗町の石臼大明神

 京都・先斗町臼大明神の祠(ほこら) 京都先斗町を四条から三条の方へ上がると、一もう一本西側の木屋町へ通りぬける路地が32本ある。ゆきどまりの道と区別するため、通りぬけられる路地にはナンバーを書いた札が吊下っている。なかでもナンバー5の路地は「ウスの路地」という。角には、「三輪」という表札の家があり、ここを入ると路地の中程北側に「臼^大明神」と刻した石が立ち、目なしの下臼が祀ってある。いまも参詣者が絶えない。  井上頼寿著『京都民俗志』によると、「大津紺屋関に棲んでいた八九郎狸が住み所を失って此処の臼の内に移った。ご託宣によって一度に祠を営まず、漸次に築いて行くのであると云ふ。此の神は願を一つだけ聞いて呉れると伝へられてゐる。此の神は徳川時代から同位置にあった。(岡本橋仙氏談)」とある。大正15年に菱屋募兵衛、清水やす、清水八重という三人が基台部を築き、そのあとで屋根がつくられ、今日にいたっている。『週刊朝目』82巻22号「先斗町大百科辞典」に「臼大明神」が紹介された。それには猪熊兼繁京大名誉教授の説がのっている。「天正年代のころ,この近くにあった天主教会が、キリシタン禁圧で消え、その後デウスと臼をひっかけて信徒がひそかに、おがんでいたものではないか」また、今もお参りをかかさたいという茶屋「清水八重」の女将、深草正美さんの談がのっている。「その昔、臼に足をかけて格子をふいていた女中さんが、気がふれてしまった。ところが八重さんが臼をきれいに拭いて神主さんにお祈りしてもろたら、女中さんの病気はぴたりと治った」と。

 私が始めて大明神を訪ねたのは、1977年頃だった。それから、すでに30年余を過ぎた。2005年8月28日田舎の友人達(岐阜県郡養老郡上石津町に2005年秋にオープンで建設予定の世界臼類文化館準備スタッフ)と再訪し、あのおばちゃんとの再会を楽しみにしていたが、われわれがどんなに騒いでも上の部屋の窓は閉まったままだった。そして灯明も消えていた。下の方に丸い出口があった。「もう大明神は上石津へお出かけになったんだ」と語りあった。あの先斗町と木屋町との通り抜けは途中に店が出来、通れるようだが一見通り抜けとはわからない。この世の移り変わりであろうか。

戻る