3リンク:お寺や神社に寄進された石臼参道京都先斗町の臼大明神|佐渡にもある臼塚(下記 URL 参照)http://www.shinsyoren.or.jp/hamochi/homepage/meisyo1/meisyo1/siseki.html|http://www.sado.co.jp/hamochi/containts/ruins.htm


石臼供養-東京・中野区・宝仙寺の臼塚

  新宿から大森ゆきまたは代田操作場ゆきバスで数分、青梅街道をゆき宝仙寺前で降りるとりると,真言宗・.宝仙寺がある。

 仁王様の山門をくぐった左手に,りっぱな石造物があって、よく見ると無数の石の挽臼と搗臼が見事に配列され、その間を熔岩様の火山岩とセメントで固められている。

 この臼塚は先代の住職が昭和初年、長野市信更町三水の近くに捨てられていた石臼を荷車で少しずつもちかえって築かれたものという。三水は住職の生地であった。昭和初年といえば動力製粉、精米機が発達して、古くから使われてきた石臼が、つぎつぎに新しい機械によっておきかえられていった頃である。先祖代々使ってきた石臼が路傍に放り出される運命にあった。人々の生活を支えてきた石臼が、ただ無雑作に捨て去られるのを見た住職は、人々の非情にはげしい怒りを感じ、石臼の供養を思いたったという。

 当時これらの石臼を駆逐したのは、ほかでもない。老舗を誇る現在の著名粉体機械メーカーのオヤジ連だったはずだ。当時の人には新しい機械の開発と販売と金儲けには血眼だったが、その繁栄のかげに、冷たい文明の追いうちにあって、その千年余の歴史をあっけなく閉じねぱならなかった石臼達、それにもまして冷たくポイとすてられる運命をなげく石臼たちには目をむけなかったらしい。粉体工学を学び、なかでも粉砕技術の開発に努力している筆者白身、この東京のど真中にある臼塚の存在を知らなかったのは、たいへんうかっなことであったと思う。

 訪ねた時は11月も末だったから、傍に立つ銀杏(いちょう)の黄色い落葉が搗臼の窪みにたまった水面を一面に覆っていた。空はぬけるように青く、明るい日ざしが安らかに眠る挽き臼の刻み目を鮮かに照らし出していたのは、何よりも救いであった。それは静寂で、そしてときに異様な絵模様を現出し、ときに恐ろしいまでの造形美をみせていた。頂上に配してあるのは甘酒をつくるのにつかった臼といい、ここにも御住職のやさしい心づかいが感じられた。 宝仙寺の臼塚 はいずれも信州の臼だから、挽き臼の刻みはすべて6分画,例外はひとつもなかった。ひとつくらいは8分画がないかと調べてみたが、見つからなかった。下臼のふくらみが非常に深いのが特徴で、やや曲線状の溝のものが多かった。また手挽き目よりも、やや大きめの水車用のものが多かった。見事な美の世界を創出するために,

 住職が一つずつ、ていねいに積み上げられただけあって、その配列には無駄がなく、どの角度からみても、またどのコーナーもみごとな美を形成していたし、それに感心したのは、雄臼と雌臼を対にして並べであることだ。これは離れ離れにして並べなかった住職の心にくいまでの配慮に頭がさがった。現代人がもう久しく忘れてしまっていることを、強い警告とともに。想い起させる力が、この臼塚にはあるのだ。帰り路、私達は使い捨て時代というものについてあらためて反省させられた。

なかよく肩をよせあって並ぶ雄臼と雌臼を銀杏の葉がやさしく覆っていた。

頂上の石臼は甘酒を挽いていた美しい石臼だったという。

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