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お寺や神社に寄進された石臼参道

 光明寺(三重県松阪市)

 松坂木綿の藍染の藍を挽いた石臼が寄進されて光明寺境内の参道になっている。

1985.5.30訪問.すべて8分画  

興徳寺(長野県飯田市伊豆木)  興徳寺は元和年間(1615-32)建立といい、ここには山門から本堂にいたる参道に、下臼ばかり総数73個が敷きつめてある。直径は大きいもので48B、小さいもの26cm,大部分は33B。分画は表に示すように、大部分が6分画であるが、7、8分画が混在している。  石質はすべて花こう岩で、この地の石と思われる。いつの時代にどういう理由でこの参道がつくられたのかは不明だが、おかげで考古資料が保存されたわけだ。形態上とくに注目されるのは、下臼のもり上りが30@に達する点である。いわゆる「ふくみ」30@というのは、いままで見たこともなかったから驚いた。もっこり臼と名付けた。このようなふくらんだ臼には、これから先、次々にお目にかかることになるが、佐藤先生によると、これこそ古い時代の臼、いわゆる「古臼」であり、新しい時代のものと確然たる区別がある。  

興徳寺の分画分布

分画 個数
5 2
6 33
7 6
8 7
不整 1
不明 24
73

泉龍院(長野県下伊那郡豊丘村河野)

 山門前には「池康山泉龍院」とあり、曹洞宗、永楽年間(1429-40)建立の大きなお寺である。焼失により慶長6年(1601)に再建されている。山門を入ると本堂へ向う参道に全数160個の石臼がぎっしり敷きつめてある。興徳寺が花こう岩であったのにたいし、この寺は、黒色および赤褐色の安山岩と花こう岩の石臼である。赤い安山岩の臼は三個あるが、赤石山系のものであり、黒い安山岩は諏訪方面のものであろうというのが佐藤先生の意見である。ここでは下臼も上臼もつかってある。上臼の目のある面は凹みがあって水がたまるし、天場につまづきやすいので、天場の上縁を欠き落してある。6分画が主で、ほかに8分画と7分画が混在しており、曲線目の7分画という変り種もひとつあった。

耕雲寺(飯田市座光寺字城) 

 寛政年間(1789-1801)の建立で,曹洞宗の寺。山門内と、本堂にいたる参道に、合計326個の石臼が敷きつめてある。石は花こう岩、安山岩、砂岩が混在し、まるで臼の博物館だ。分画は6を主体とし、7、8などが混在する。泉龍院と同じく、上日は上縁を欠きとっている。 ここでも下臼のふくらみが30mmを越えるものが多かった。こうすると上臼の周辺部分が割れやすかったであろう。臼目の変わり種もいろいろあった。

 耕雲寺住職によると,臼を踏石につかった理由「寺の山門を通ることにより、人は煩悩(ぼんのう)を消し、清浄心をうることができる。臼は摺り潰すという機能があり、それが山門の消滅という働きに通うものがある。石臼は形あるものを摺り潰してきた罪を負っている。そこで寺の参道に敷いて、多くの人に踏んでもらって罪のつぐないをする」。後の理屈は墓石を橋に使うのを供養とするのに似ている。食う人はどうなるのだろう。

耕雲寺の分画分布  

分画 個数
5 3
6 121
7 31
8 14
不明 157
326

揖保の新宮 しんぐう荘の花壇

 揖保素麺の本場兵庫県揖保郡新宮町、町営国民石臼の花壇、宿舎「しんぐ荘」には、明治百年記念につくられた石臼の花壇がある。この地≡、い.ほは「揖保ソーメン」の本場ですたれた臼の扱い.方を考えた末、町民に石臼の供出を呼びかけて、花壇の石垣に、組んだ。石の場き目28個、挽き臼140個、大部分は家庭用の手挽き目で、花崩岩製が多く、そのほか黒い砂岩のもみられる。当然のことながらすべて八分画である。供出者の氏名を書いた碑のほかに、歌碑もある。「いつの日にひきおさめたるひきうすか東の山の雨をうけおり」

 小金井神社の臼塚 (小金井中央線武蔵小金井駅から徒歩一五分)

 

 この境内には1973年、同市教育委員会が主唱して、民家の石臼を集めてつくった新しい臼塚がある。石臼供養の心が現代にも残っていた例である。全部の臼について拓本がつくられ、同教育委員会に保存されている。当時、その調査を担当したのはその後出版社クオリの肥留間博氏である。奇しき縁で、拙著『石臼の謎』の編集を担当された。臼塚にした臼はすべて近くの五日市に出る伊奈石の臼で、いずれも6分画であった。 臼塚には石臼提供者の氏名と由来が記して島る。曰く、「石臼は遠い音、石器時代からわれわれに欠くことのできない生活の道具として親しまれてきた。何千年となく使われてきた石臼も、時代により場所により変化を見せたが、この大戦後の生活様式の急変はついに顧みられないものとたり、いつとはなしに一つ二つ姿を消すありさまに,心ある人々はこの里に残るすべてを集めて塚をつくり,感謝をこめて,人と臼との久遠の別れとするものなり。昭和48年6月吉日」

 

石臼稲荷 (埼玉県大里郡川本村)

 埼玉県の熊谷と寄居の中間、秩父鉄道・武川に、通称「石臼稲荷」で知られる神社があるという。5月5日(昭51)、「たけかわ」駅におりたった筆者ら臼のお遍路さんは、駅前で立往生してしまった。雨ふりというのにどちらにゆけばよいのかも聞いていなかった。通りかかった地元の中学生に聞いたが、お稲荷さんがあるかどうかもわからない。今の教育はなっとらんと憤慨したくなる。腹がへったが駅前なのにうどん屋もみつからない。とぼとぼと国道の方に出ると「めしや」らしきものがあったので、いさみ立って店の前までくると「本日休業」とある。頭へきたところへ、中年のおばさんが来たから「お稲荷さんは?」ときく。…-「さあ:・…」こんどは中年のおっちゃんがきた。「お稲荷さんならあるよ。でも石臼はあったかなあ、知らんよ」。どうも他所者ばかりに道を聞いているらしい。とにかくゆけぱお稲荷さんが教えてくれるだろう。あてずっぽうに歩いた。埼玉臼あった、あった、道から一歩はいれば石臼をしきつめた参道。これほどの石臼がある名所が地元の人にも印象に残らないのはなぜだろう。石臼を石ころのように忘れ去ったのだという実感が身に沁みる。神社の西隣の理髪屋さんから出てきたおじいさんに聞いてみると「もう今の人はほとんど知りませんよ。このお宮もこんなに荒れてしまいました」という。境内は草が生えるのにまかされていた。この神社は享保16年(1731)に建立されたと伝えられている。参道の石臼は320個、大部分が直径約36B(一尺二寸)で、やや大形である。石質は大部分が黒い安山岩で、花こう岩は数個にすぎない。上下臼とも使っており、上臼は下伊那や山梨とはちがって、臼の目の方を上にしている。上下臼ともふくみが大きいから、上臼の凹みに水がたまっていた。上臼は挽き手をとりつける大きな突起をつくりつけにしたものが大部分で、これはこの地方独特の形態(埼玉臼)である。上臼が重いのはこの地方が小麦地帯であるためであろう。

埼玉で唯一8分画が混入していた。

凸凹寺(四国・宇和島)

 現宮司久保凸凹丸氏は二代目。名刺に「凸凹丸とはこれ本名なり」と書いてある。宮司2代にわたって集めた性風俗のコレクション数万点が展示されている。しかもそのほとんどすべてが臼類である。別名「千五百守社(ちいほもりのやしろ)」四国だからすべて正確な8分画。不整分画は皆無。

倉敷の大原美術館には石臼を敷石にした庭があるが、供養の気持ちも文化の保存の気配もない貧しい見識が問われるところである。

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