リンク:豆腐起源は淮南だった動かぬ証拠発見:篠田 統著の記述
日本豆腐起源問題考察訪問団報告(9kB文書)
淮南市発行誌より
「豆腐之法、始於漢淮南王劉安・・・」(本草綱目)「漢代に淮南王劉安(前178-122)が豆腐のつくり方や道具を朝廷や諸公に献上したために豆腐が広く伝えられることになり、後世その発見者として淮南王の名が伝わることになったのかも知れない。」(『やさしい豆腐の科学』)
しかし古文書には豆腐の文字がなく上記は俗説かも知れないという。そこで毎年豆腐まつりがあるという淮南の現地を訪ねることになった。その名は日本豆腐起源問題考察訪問団。なお上記日本の書物では准南となっているがこれはミスで淮南である。
淮南の豆腐村入口
調査団構成:団長 同志社大学名誉教授 三輪茂雄
国立民族学博物館 吉田集而,映画監督 岡田ドージン, 榎本薬品社長 榎本時一、通 訳 王 勇
1998年10月31日(土) 関空13:40−−−上海 16:00 合肥までの待ち時間に王さんのお嬢さんも参加して上海市内で上海蟹を食べた。上海 20:20−−−合肥 23:20 (飛行機) 合肥(Hefei)安徽飯店 泊
11月1日(日) 合肥 08:30−−−淮南 10:45 (車)
途中、自由市場を見学。日本には見られない豆腐製品を発見した。 淮南 (Huainan) 洞山賓館 泊
淮南市人民政府表敬訪問 (テレビおよび地元新聞取材)
昼、孔 令航副市長が主催する歓迎宴会 出席者: 日本訪問団全体のほか市政府副官房長官、外事辧公室主任、新聞辧公室主任など。
午後、淮南テレビのインタビューを受けた。 インタビューで私は「2000年に日本で農水産省主催の第3回国際大豆加工利用 会議のシンポジウムがあるが,豆腐が未来の人類の蛋白源になることであろうこと が背景にある。これには是非淮南から参加願いたい」と述べた。淮南のホームペー ジは目下製作中である。リンクしたいと。
ホテル310室で 交流会 淮南側参加メンバー 淮南市政府外事辧公室主任 李素華女史 淮南博物館元館長、安徽省考古学会常務理事 周墨兵氏 中国豆腐まつり組織委員会 蔡顕登氏 淮南市新聞辧公室主任 孫献光氏 淮南第二中学校講師 黄家忠氏 淮南市文化連合会副主席 李恩法氏
周墨兵氏より「豆腐の起源と東伝」(淮南社会科学1991年4期)を紹介
黄家忠氏より「安徽省寿具茶庵馬家古堆東漢墓」「考古」第3期(1966)138-146ペ ージを紹介
李恩法氏より古文献中の豆腐に関する記録と詩文を読まれた。其の中に南宋の大理 学家朱熹(1130〜1200)が詩を書いた「種豆豆苗稀、力竭心巳腐。早知 淮南術、安坐獲泉布。自註:「世伝豆腐本為淮南王術」。
そのほか、元、明時代か ら豆腐に関する詩文が多くなった。ここでは省略。
蔡顕登氏から中国豆腐まつりの写真集、豆腐に関するの本、論文などを受け取った 。これから、豆腐の起源、石臼、明器と呼ばれている陶製模型で副葬品の出土。大豆の原産地、大豆の種 類、原始状態の豆腐製造方法、豆腐の発明者劉安などについて討論、交流した。
これは寿春の報恩寺にある寿州博物館に展示されていた漢代の王墓から出土した明器(下の受け皿に大きな孔があいている。これは豆乳を出すためだろう)。目が刻まれているが逆目だった。
豆腐づくりに重要な道具「石臼」について詳しい討論をした。中国で漢時代の墓に石 臼の明器(陶製模型)がたくさん発見された。場所として安徽省、河南省、湖北省、山東省、江蘇 省、河北省など。その中、一番重要な発見は河北省満城の西漢(前漢)中山王劉勝の墓で発 掘した石臼の実物だ。この石臼は湿式石臼(水磨)で、豆腐を作れる可能性は極めて高い。
討論会を終えた後、淮南市政府の最高責任者共産党書記陳維席氏からの挨拶あり。
夜、王さんの同窓で現在淮南工程学院 院長張文祥(学長)をまじえて食事。陳維 席氏も出席。孫献光 淮南市新聞辧公室主任 (私にインタビュー、名刺なし) 李延飛 「淮南日報」総編集 (表敬訪問に出席した、名刺なし) 王建国 寿県地方誌研究員 (参加しなかった) 陳広忠 安徽大学教授 (参加しなかった) 黄家忠 淮南第二中学校講師 (名刺がなかった)
11月2日(月) 8時ホテル発,淮南の南西方約50キロの寿県(昔、寿州、寿春を 呼ぶ)へ八公山豆腐村見学 ここは現在建築中で未完成だが,見学はできる。予算不足らしい。豆腐製造の過 程を見学できる民家に案内された。この民家は過年沙漠調査で宿泊した民家と同じ感じ 。ここは日本で文春芸術誌1998.8.号に写真が紹介された。
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それに出ているかわいい豆腐娘2人が石 臼で豆腐づくりを実演してくれた。石臼は中国農家にある一般的な直径約500cm,上 臼高さ約10cmの珪岩製。韓国のような受け鉢作り付けではない。石臼は床置きの木 製の台の上に据え付けている。豆乳受は1000lほどの陶器製甕。(豆乳はここから柄 杓でかきあげる)。洗浄には不便であろう。8分画に近いが分画は明瞭でなく,中央 部は目がなく周縁部に目を彫っている。目の深さもきわめて浅い。大豆供給口は60φ く らいだが漏斗がないから,不潔そうな雑巾で囲っていた。 挽くのは両手もちのハンドルを吊るしている。普通はこの石臼は使わず,脇に置 いてある電動臼だという。「これじゃおいしくないのでは」と聞くと,「その通り,石臼がおいしいにきまっているよ」との返事。 つぎに挽いた呉をしぼるのは人力で力いっぱいしぼる。「もっと強く搾らないの か」と聞くと「それじゃ,オカラがまずくなって豚がたべないよ」。ここでは豚と の共生が前提なのだ。日本ではスクリュー搾り機で搾るので,できたオカラは家畜の 餌にならず廃棄物である。それで入口にいた豚の意味がわかった。帰りに豚の写真を 撮ろうと思ったがいなかった。しかし1匹しかいなかった。もし1匹だったら,それが 食べるくらいの石臼豆腐生産ということになり,見物客向けだけに造っているのであ ろうか。それにしても豆腐につきものの廃棄物オカラのもっとも合理的な処理がここ にあったのを実見できて収穫。さすが豆腐ミュージアムだ。しかし凝固剤は現在は硫 酸カルシュームかグルコンである。にがり→石膏→硫酸カルシューム,ここを胡麻化 した らミュージアムではなくなる。1992年から始まった淮南豆腐まつりは,日本からの観光客も多く,例年9月15-18日に開催されるが,ことしは中国内での洪水のため自粛した。
「淮王劉安が 豆腐を作ったというはなしは「辞源」に出ているのが初出のようだ。」
同行の民族学者吉田集而氏は豆腐淮南起源説についてこう評価した。「淮南説を 証明すべき「淮南子」が一部欠本になっていてそこにあるかもという憶測しかできな い。だから淮南起源論は不明のままだ。しかし淮河は麦文化と米文化の境界にあるの で豆腐がここで発明された必然性はある。」作物として大豆がある筈。東南アジアで は酢で凝固させる。この地方の米と小麦の比率は昔 1:3 今 2:3 麦収穫後大 豆を植える。
12時 ホテル帰着後会食 陳維席書記が淮南氏政府を代表して主催したお別れ宴会 出席者: 日本訪問団全員 淮南市政府孔副市長はじめ各部門の責任者 淮南工業学院の院長張文祥氏と書記長杜氏 まとめの挨拶で私は「ここの豆腐料理は実にスバラシイが豆腐自身は正直いってマズ イ。これは残念なことだ。これは日本のよくないところを取り入れた結果だ。全部 でなくていいから,この席では本物を出してほしかった。日本では1丁 1000円のこだわり豆腐がある。これは極端だが,そういう方向性は事実だ。」
帰国後の私の感想:榎本君が初日の会合の冒頭で日本製の最近の傑作チョコレー トを配布して,これが日本で最高をつくした味だから味わって感想を聞きたいと提 案したが反応がなかった。このことが象徴するように現在の中国ではまだ,ものは作 ればよいという思想が根強い。日本も最近まではそれで高度成長時代を進んできた。 ところが最近では,1000円豆腐が象徴する「こだわりの豆腐」が出るようになった。 これは過度期の現象だが,いずれほんとうにうまい豆腐をつくる技術が出てくるだろ う。蛋白源を主として家畜に依存する西洋文明と,仏教の殺生禁止の思想に基づく大 豆を利用する東洋の文明の融合の時代を拓くのは豆腐かも知れない。その場合オカラ のバイオによる利用法も注目される。 今回の調査は王 勇氏の人脈なくしては実現できなかった。とくに淮南工業学院 院長 張文祥(学長)が王さんの同窓生というのはなんとも不思議な縁である。大 学を経由して淮南とのアカデミックな交流が期待される。一方で石臼豆腐を現代化した機械を日本で完成して,現在の高速回転石臼に代る本物の石臼豆腐の完成が現代粉体技術の任務であろう。
淮南発15:00−−−合肥17:00 (車) 合肥市に着いた町に出て合肥の夜景と街の様子が見学。夜市場でじょざいを食べた。 合肥泊(安徽賓館)
11月3日 (火)合肥−−−上海 (飛行機) 07:55 発--着 08:55 午前上海博物館見学 閘工磐車図の写真阪入手 上海賓館泊
11月4日(水) 5:30起き 6:30ホテル出発 8:00-10:55 ゲートで待ち(出発便遅れ,ゲート変更) 上海発10:55−−−日本 3:00 (帰着 )