篠田 統著『中国食物史』(柴田書店,昭49)p.110 の記述
「唐代は北方民族との交流が大きかったため、乳製品が大いに延びた。ヨーグルト・チーズ・パターなど一般に馴染になっていたので、穆寧の伝を見ると、彼の四子につき、時の人は、長男の貞は申し分がないから醐醐、次男質は酥(パター)、三男賛を酪(ヨーグルトとチーズの中間)、末っ子の賀は一番おちるので乳腐(不純なヨーグルト)とよんだ由。因みに、寧は貞元10年(974)に死んだ人である。 乳腐といえば豆腐をおとすわけには参らない。豆腐は前漢の潅南王の発明だ、ということに後世はなっているが、漢・魏・六朝はもとより隋・唐にいたるまで、豆腐という字にはぷつからない。唐末五代の百科字書なる『四時纂要』(後述)にも出ていない。私がはじめて気がついたのは五代末〜宋初の陶穀の『清異録』である。彼によれば、安徽省池州府に属ナる青陽県丞の時*(ジシユウ)が倹約で、毎日何丁かの豆腐を以て肉類にかえていたので、県民は豆腐を「副知事羊」とよんだという。要するに、豆腐は、大豆を材料とした代用乳製品だったのだ。」
要するに書いたものがないということ。あたりまえのことは文書にないこともしばしばだ。私は多分先生は淮南行っていず、文献に書いてあるかどうかだけで判断したものであろう。