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すりばち (擂鉢)

 すりばちは次第に小さくなって遂に消えた

 「水をくむ女郎もあれば、鍋蓋の下をたきつける者もあり、膳ごしらえしている所もある。わたしは燈をともす役、おれは擂り粉木を受け持った」これは西鶴『好色二代男』の一節で、女郎をつれて東山で遊び、夜おそく廓にもどって食事しようと大騒ぎするくだり。これを現代版にしてみたらどういうことになるだろう。さしずめ冷蔵庫をあけて冷凍食品をとり出し、オーブンでチン……これでは大騒ぎして楽しむ時間もない。食事をつくる楽しみは食品工業がとり上げてしまっているから、好色現代男はなすすべもなくテレビを見ている。色事とはプロセスを楽しむものなのに。これじや擂り粉木の出番もないってもんだ。仕方なし、教養番組といこう。 

 「すりばち」と「すりこぎ」がわが国で使われはじめたのは鎌倉時代頃と考えられている。中国から伝来したもので、わが国では長いあいだ上流階級しか使えなかった。庶民たちは木製の食器、木のこねばちであり、硬質のやきものなどは高嶺の花であった。12世紀の中国・宋代の遺跡から発掘された中世型すりばちの報告(『考古-第5期』1965年)によると、4本の先端をもつ櫛目工具で底から縁へむかい24群の條溝がつけてある。形状は現在と変らないが、條溝がきわめて少ない。わが国では信長の天下平定のとき焼き打ちにあった遺跡から、すりばちが出土する。い.ずれも中世武士達の城や居館の跡である。小さなかけらになって出るときが多いが、1977年,福井市外・一乗谷の朝倉氏遺跡から出たものは完形に復元されている。これも前記、宋代の中世型すりぱちと同じように條溝が少ない。こんなに條溝が少なくてはさぞ能率もわるかったに違いないが、単純に現在の考えで結論は出せない。焼き方もちがうので條溝が少なくてもよかったのかも知れない。 すりばちの産地は何といっても備前である。備前焼窯跡調査報告(『倉敷考古館集報』1965年)によると、鎌倉期には中世型すりばちがかなり生産されていたらしい。現在のように條溝が多いものが作られるようになったのは江戸も末期になってからではなかろうか。沖縄には日本の古い時代の道具がさいきんまで保存されていた例が多く、沖縄の読谷村では現用すりばちが中世型であるのに驚いた。

 ところで一つの道具はつくり出すものの性質を決定し、調理用具の特性は料理のパターンを決定する。すりばちは味噌汁、すり胡麻、いも汁、しらあえ、とうがらしなどのように、比較的やわらかいものをすりつぶし、練り合せるのにつかい、米、麦、そば、炒り大豆などかたいものの製粉や、浸し大豆をひいて豆腐をつくるのには石臼がつかわれた。しかし最近ではすりばちのない家庭が多くなり、あっても、とてもちっぽけなミニチュアだし,すりこぎも小さくて朴の木製のチャチなやつしかない。すりこぎは山淑、桐、桑の木などがよいと.されたが、そんな立派なものは'スーパーでは買えない。

 すりこ木も紅葉しにけり唐からし(西翁)この粋な句もミニチュアでは台なしだ。さいきんは味噌もつぶしたものが売られており、すりばちを必要としない。お湯でとくだけの便利さと引きかえに、風味も味も格段と落ちて.いるのに多くの人はなぜか不感症である。実はつぶしてあることに含まれたカラクリを知らないからである。味噌原料をあらかじめつぶして醸造すると、醸造期間が短縮できて生産性が向上する。たとえば本物の豆味噌は三年かかるのに、25日速醸味噌なんてのが可能になる。この代物、味噌にはちがいないが、手抜き醸造だからある種の成分は未分解のままで、これは人体にとって好ましくない物質なのだ。粉っぽい味噌汁、胸やけする味噌汁に出あったら、これだと思えばよい。

 スーパーの安売り競争がこうして食品をぶちこわしてゆく。安物買いと,ものぐさは,その代替として薬代と医者代のつけがまわってくる。昔は風が吹くと桶屋がもうかるといい,現代はするばちが消えて薬屋と医者がもうかる時代である。(アサヒグラフ1978,12月22日)

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