リンク:擂鉢擂鉢資料室のある西念陶器研究所(岸和田)


おせっかい

(1999.8.22.NHK日本人の疑問でクイズに出た失われた道具はこれだ。見せられた実物は不正確だった)

 柳亭種彦『足薪翁記』(天明-寛政年間)によると,昔せっかいは味噌屋の看板だった。下は酢の看板で底のぬけた篩(ふるい)

よけいな世話をやくことをおおきなお世話または「お節介」という。節介はあて字で,もともと「せっかい」という道具に由来する。昔の本には「狭匙」,「切匙」などと書かれ,匙は「さじ」だ。擂鉢の内側や、摺小木(すりこぎ)に粘りついたものを、掻き落す道具のことで明治中期頃まではひろく使われたらしいが絶滅した道具の一つだ。飯の杓文字(しゃもじ)を縦に二つ割りにした形で、先端が尖んがっている。『和漢三才圖會』(寺島良安著,正徳2,1712年刊)に出ている図を参考に,竹製の杓文字を削って自作してみた。人間は道具を作る動物であるというから,自作が当然だ。実用しながら少しずつ改善し,やっと一人前のせっかいが完成した。さてこれを、使い馴れてみると実に便利で、播鉢と摺小木がある限り,せっかいは欠かせない道具だ。摺小木の頭には鉢巻状に粘りがついて能率が低下するが、これはせっかいの直線部で掻き落せる。播鉢の上縁辺くにこびりついたのは曲線部で落す。鉢からとり出すときも同様。溝に入りこんだのは、尖端部で掻く。実にゆきとどいた播鉢と摺小木の世話役である。よけいなお世話たどとはもってのほかだ。  『嬉遊笑覧』(喜多村信節撰、天保元,1830)に「せっかいは褻匙なるべし,うぐいすというは鶯の香を尋るということをとりて異名としたるなり。香は味噌をいふなり」とある。女房詞でせっかいのことを「うぐいす」といったことの説明だが、これはちと理窟っぽい。そういえば鶯の形に見えないこともないし、実際、鶯の姿をしたせっかいもあったらしい。ところで、鶯には美しくて色盛りの意もある。  以上の予備知識を前提として,次に人の世の哀歓と変転を,すりばちに托して俳人芭蕉の門人が綴った名文「摺鉢伝」(『鶉衣』横井也有著、天明6)を紹介する。「備前の國にひとりの少女あり。あまざかる田舎の生れながら,姿は名高き富士の悌(おもかげ)にかよひて,片山里に朽はてん身をうき物にや思ひそみけん。馬舟の便につけて遠く都の市中に出て、しるよしある店先に,しばしたつきをもとめけるに(中略),ある台所によき口ありて,宮仕の極がてら、摺木と聞えしもとに,かりそめの夫婦とはなりける。かれは柏木の右衛門にも似ず,松木の荒くまじき男ぶりながら,少しもかざりなき気だてのまめやかなれば,女も心に蓋もなく、明くれ忙しきっとめも、おなじ心にはたらきて、とろろ白あへの雪いただくまで、糊米のはなれぬ中をねがひ、水もらさじとは契りけるに、その頃、せっかひといいし男(おのこ)は御所にうぐひすの名にも呼ばれしが、おなじっとめの夜ふくる時は,走水の下にころび寝がちなるを,さらでも住うき傍輩(なかま)の中に,はしたなき間鍋の口さし出で,杓子の曲り心よりうき名は立ちそめ(中略)。ある夜,鼠のあるる紛れに,棚の端より身投げけるにぞ、顔かたちかけ損じ、見にくきまでの姿にはなりける。……石漆の妙薬(補修用接着剤)にも及ばず・・:・・内庭まで下げられたれども、猶さみだれ五月雨の折々は、雨もりの役(漏水受け)長門(中国の故事、思慕の情を述べる詩)の涙かわく隙なく、ここにもすわりあしくなりて、井戸端にころがり出て,蓼葎(たでむぐら)に埋れて後は誰哀とう人もなかりしに(中略)間じかき寺の門番にひろわれ,ふたたび部屋にかくまはれたがら,ならはぬ火鉢に様をかへ,酒をあたため茶をあたため,茶を煎じて,今年はここにうさを忍びしに、やや春雨に梅もちりて,きさらぎの灸もすめば,また灰をさへ打ちあけられ,唐辛子といへるものを植えられしが(中略)それさえ秋のいろ見過ぎつつ、つひに橋づめの塵塚によごれふし、果はさかなき童べのままごとに砕かれ、行衛もしらぬ闇の夜の礫とはなりけるとぞ]。 備前の少女、つまり備前すりばちの物語は「すりばち」の項で述べた現代のすりばち滅亡記にも通じて哀れ。  粒味噌から作った味噌汁の味、味噌和え、胡麻味噌、白和え、芋汁、緑豆をつぶして作る甚大餅などなど、かつてすりばちがつくり出した多彩た食物群は、すべて白けた既成食品におき代わった。簡便さと引きかえに、不毛の食品文化が支配する。食品の過剰加工はまさに人の食生活への「お節介」だし、本文は食品工業へのおせっかいである。 (アサヒグラフ1979.10.26号掲載)

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