(今はダム建設で離村の岐阜県徳山村出身者で復活か?)
稗売りの図(『吾妻の花』(明和5年刊)
すぐに笑いだせないのが古川柳。「どこかおかしいのかな?」と悩むうち、半年も一年もあとになって、「なあ−るほど」とゲラゲラ笑う。それがまた何ともいえない楽しみ。
稗蒔になるとかかしを母はつけ
こんな古川柳に出会ったが、あたりまえのことのようで、いっこうにおかしくない。のちに菊貴一郎著『絵本江戸風俗往来』(明治38年刊)で「稗蒔売」なる商売があったことを知った。「土焼鉢大中小、小は五寸位、中は六寸ばかり、大は尺程とす。その水鉢の内に稗を蒔きつけ、水をたくわえ、橋を渡し、稗の中には草屋、鶴、農夫の人形、制札、垣根、案山子などを飾りつけて、あたかも田舎の田園風景をつくり、ひえまアきア、ひえまアきと呼びて売りあるくなり」。
鉢を便うのは後世のことらしく、天保元年刊の『嬉遊笑覧』によると、小板の上に土を盛って蒔いたとある。さきの古川柳は、楕円形の植木鉢に三センチほどに芽が出そろったさまからの連想。「かかし」は見張りをきびしくの意。おわかりかな。
次の川柳はもっとわかりやすい。
十六の春から稗を蒔いたよう
悪童たちもまけてはいない。大きな松笠(マツボックリ)を日に干して、ひらかせたものに稗の種を蒔き、これを水にひたして、もとのようにすぼませる。暖かいところに釣しておくと、程なく芽生えて「いとおかしき釣物」となり「松笠の稗の実ばえの森深く」(柳亨種彦著『柳亭記』)と戯れる。ここまで読んでも最近の学生は笑わない。バカモン、貴様日本人か。
本物の稗みたらし団子を焼く実験
話はかわるが昭和52年夏のこと。岐阜県徳山村で石臼調査の折、稗を栽培しているおばあさんに出会った。徳山村の美濃路旅館のおばさんと話すうち「稗団子はうまいよ」という話を聞いた。翌朝になって「これは息子にはないしょだが、わしは山奥の畑で稗をつくっている。息子はそんなトロクサイもんと笑うのでないしょにしとる」私も戯れではなく、収穫を目的とした稗蒔をやりたくなった。秋に地元の開田中学の大牧富士夫先生にその稗の穂をとりよせてもらい、京大農学部の植物生殖質研究所(木原研)の阪本先生に鑑定を依頼した。先生は「こんなもんどこにあった?これはシコクビエといって雑草のヒエではなく、先祖代々人間の手によって栽培されてきたものだ。苗床をつくって育て、苗を移植せねばならぬ。雑草化しないから、休耕田でも栽培できる。」と。うれしくなって当時田舎に住んでいた筆者の母に栽培してもらい、二升程収穫できた。日照りつづきの夏だったが成育はきわめてよく、稗刈のさいには稲刈鎌をうけつけずノコギリでようやくという程に強靱な藁になった。昔、徴兵検査のあった頃「稗食の村の壮丁の体格は抜群」といわれたというが、これほど強い稗を食ぺておれば、なるほどとうなずいた。
稗の精白は米よりも難しい。『稗叢書第十一韓』(農村更正協会、昭和14)によると、米と同しように乾燥した稗を搗臼で握く白乾法と、2日間水に浸けてから蒸して乾燥し、これを杵で搗く黒蒸法とがある。白乾法は搗くのに手間がかかり、搗きべりが多く、しかも精白した稗に虫がつきやすい。そのかわり、うまくて美しいから、ぜいたくな方法。黒蒸法は精自しやすく貯蔵性がよいが、味はおちる。前者はお大甚、後著は貧乏人向き。
筆者は搗臼で精白し、ふるいを併用して白乾法にする精白を行なった。製粉は筆者の電動式石臼の最新鋭機による閉回路粉砕。つまり現代的精白技術に伝統的方法をコンバインして昔のお大甚の稗食法を実現してみた。
ところでいよいよ試食の段階に入る。稗飯にしようか、稗団子か、たのしい思案の末、三重県員弁郡東員町の御手洗団子「おおまさ」へもちこむことにした。へたな団子づくりでは、せっかくの味が出ないからという配慮。稗そのものの味を試したくて、つなぎも砂糖などの調味料も一切つかわず正真正銘の稗団子を、御手洗団子風につくってみた。稗食の村の壮丁を思わせる赤銅色で艶々した素朴な感じの稗御手洗団子が完成。数人で試食した感想は、異目同音に「とにかく、なんか知らんなつかしい味やな」だった。記憶をたどるが思いだせない「なつかしさ」がそこにあった。昔「稗は土民第一の食物なり」といわれた。そんな時代の祖先たちの味かも知れない。稗は貧乏人、まずいもの、飢饉などを連想させるが、現代人にとってそれは観念的なもの。単調で画一化された現代食のもの足りなさを補うものかも知れぬ。現代のグルメ自然食ブームにのってスーパーでも稗を売っているが、素性不明の偽物が横行しているようだ。稗なら体耕田も活用できそうだ。最近徳山村はダム建設で消えたが、やむなく離村したひとたちによって、この縄文以来の稗団子の本格的復活を考えているグループがあるという。