リンク:竹中半兵衞の曲谷臼(日本最古級)周辺地域へのひろがりが石臼調査のひろがりだった現地のHP|http://www1.kcn.ne.jp/~m-kin/ibuki.us.html|


調査の実施(3回の調査)

 IT時代の現在は曲谷で検索すればhttp://www.biwa.ne.jp/~kozuhara/m-d12.jpgがあって、石臼の里として案内板が出て来る。バスの時間表までついている。曲谷の奥にある甲津原には仙人の里と称する山小屋も完備。世の中は変わってしまった。この報告は30年以上前ののどかな時代のことだが、この地の失われた景観を紹介する。現在は郷土資料館に石臼群も入ってしまった。

 曲谷の石臼産地について知ったのは、滋賀民俗学会(大津市石山寺辺町九)の菅沼晃次郎氏に同会発行の図書購入にっいて電話したときのことであった。石臼研究に触れると、菅沼氏は「伊吹町の曲谷へゆけば、つくりかけの石臼が村中にゴロゴロしています。曲谷を見ないで石臼を論ずることはできませんよ」といわれる。氏に面識はなかったが、さっそく同行ねがうことに話がまとまり、1975年9月19日(昭50)に伊吹町伊吹の伊夫気俊太郎氏を誘い、曲谷の世一泰治郎氏を訪問した。石臼ゆかりの円楽寺をはじめ、村じゅう,のいたるところに石臼のつくりかけや破片が散在するのを実見して、ゴロゴロしているという表現がまさにぴったりなのに驚いた。このような遺跡はわが国ではほかに発見されていないので詳しく調査記録するとともに、できれば何らかの保存方法を考える必要を感じた。とくに山に9残っている石切り場は詳しい調査をする価値がある。昭和52年春を目途に伊夫気氏と予定を立てていたが、同氏が急病のため実施がおくれ、伊吹町教育委員会の黒田義祥氏およが曲谷の世一泰治郎氏ならびに滋賀民俗学会のご協力で、夏に第二次調査を実施することになった。7月17日(昭52)に、滋賀民俗学会の例会を兼ねて、曲谷の円楽寺に集合した。山へ入ることができないかどうかも再検討したが、夏草が盛りの時期なので無理と判断し、これについては山の情況を見て、1979年3月27非に実施した。
遺跡の現状

曲谷はJR東海道線柏原駅から北へ約18km、姉川にそった村落で、現在、36戸の民家がある。かつては村中が石屋であって、大正末期まで臼づくりがつづいていたが、現在、石工は世一敏正氏一軒だけである。ここではかつて、石臼づくりが生業であった。曲谷から姉川の上流をさかのぼった山に、花こう岩床があり、ここから石を切り出した。姉川にも同質の花崗岩が転石になっているが、かなり風化していて、割れやすく、臼にならなかったらしい。筆者も川め石を実際にノミで叩いてみたが、表面はかなりの風化し、水中にあるものは、厚さ1cmぐらいまで藻が入りこんでいるものもみられた。往時は山で荒どりをし、これをもちかえって冬仕事に仕上げた。

 現在村内に残っているのは、次の2つに分類できる。(1)荒どりした石臼用石材(2)上臼の供給口(ものいれ)をあけるさいに割れた失敗品

 完成品は一部の家に保存されているのみで、戸外にはない。また目たてした臼の破片もただ一個あっただけである。使い古した石臼やその破片ぐらいは見つかってもよさそうだが、見つからないのは何故であろうか。産地なので、古くなるまえに売れてしまい、ちびるまで使わなかったのかも知れない。他の地方にくらべ、現存する石臼の遺物は曲谷の村内いたるところにあるが、それらのうち、とぐに注目すぺきものを写真に示した。これらは、できれば、現状のまま保存したいものである。しかし、工事などのため、次第に失われてゆくことは避けられないので、典型的な工程を示す臼片数点を教育委員会の責任において保存していただくのも一つの方法であろう。(その後役場の手で一部保存された)

曲谷臼の製作工程と特徴
大量生産方式

 曲谷石は割れ易かった。遺物の中には、孔をあける途中で割れたことを示す例が多い(伝承によるど、七つに一つしか成功しなかったというが、これは誇張であろうか)。孔あけに成功したものについて仕上げに進んだらしい。

 次の工程は臼の合せ面を平面にする作業である。下臼はやや凸面、上臼はやや凹面にして、合せる。心木をとりつけてすり合せながら臼面をつくった。ここまでできあがれば、あとは外形を整えることと、目立てである。古い時代には側面などの加工にはあまり気をつかわず実用本位、機能第一であったと思われる。上臼の天場だけは、穀物が入れやすいようにやや丁寧に仕上げた。すべての工程で、サシガネを使ったかどうかであるが、以上のような工程なら、サシガネなしでもできる。後世になって、多分江戸末期頃から、きれいな仕上げを、とくに側面などに施すようになったのであろう。村に現存する完成品はそれである。古い臼はむしろ遠く隔たった地方にみられる。

曲谷臼の特徴

 曲谷臼は特徴がわかりやすいので他の臼と、はっきり区別できる。周辺地方でみた曲谷臼の知識を総合してみると次の通りである。

(1) 石質は曲谷産の花こう岩で、黒雲母が比較的細かく、かつその粒子の排列に特色があり、石サンプルによる肉眼同定が容易。(後記、岐阜県久瀬村の石がただひとつ似ているが区別できた)

(2)上臼天場の「くぼみ」は皿状をなし、比較的浅い。このようなくぼみの形は他地方にはほとんど例がない。

(3)上臼天場の供給口は長方形で、入口に向ってやや傾斜したホッパー状をなす。(長方形につくるのは、ノミをつかって掘る場合に作業しやすいためで他の地方にも例が多い。しかしホッf状の形は曲谷特有である)

(4)直径は一尺二寸(三六cm)前後。

(5) 上下臼の高さは2.5寸-3.5五寸(7.5一10.5cm)で、直径に比べて背がひくい。

(6) 上臼側面に、たが締め挽手をとりつけるための浅い縦方向の溝がある。

(7)目は八分画で上臼の回転方向は反時計方向

上記の特徴のうち(1)-(3)は曲谷臼の決定的な特色である。(4)-(6)は筆者の調査では、鈴鹿山系をめぐって、滋賀、岐阜、三重にわたる地域に見られる特色であり、(7)は近畿圏全体にわたる一般的な特色である。

 曲谷に残っているものは比較的新しく大正以後のものが多い。筆者が、岐阜県養老郡上石津町下山で発見した曲谷臼二点などは側面のっくりが荒仕上げであり、長い期間の使用によって、上下臼とも背が低くなっている。後記竹中半兵衛の臼などもその例である。曲谷臼が地域的にどこまで分布しているかについては、後にのべるように筆者が今までに実見した限りでは次の通りである。

 滋賀県-湖北地方にかなりある。湖東では野洲、五箇荘町、近江八幡市はいずれも曲谷臼ではない。岐阜県ー南限は前記上石津町下山で、三重県には入っていないらしい。東、北は郡上郡美並村あたり。なお、曲谷臼はたが締めであるから、桶屋もいる。木の桶にはめるのは勾配がついており、道具で打込むが、石臼には手の爪で入れるのでむつかしい仕事であったという。

西仏房の伝承と石工の由来

 西仏房とは

天神の森の二体の石仏をまつった祠西仏坊の像

http://www5.ocn.ne.jp/~sh00/kiso/kiso.htm(西仏坊の木曾の寺のサイト)

 円楽寺には「西仏房」と伝えられる石像が、正面の阿弥陀仏像の向って右側の間に安置されている。高さ約四〇cmの旅の僧を形どったと思われる像である。頭、胴、脚部の三っに割一れたものをつぎ合せた形跡がある。接着は硫黄に砂を混ぜたものらしい。石臼の心金を固定するのに硫黄を使うことが多かったこととあわせ考えることができる。石質については表面のよごれのためこのままでは判定しにくい。当寺火災の折、池に投げこんで守ったと伝えられている。

 また世一泰治郎氏によると、氏が若い頃(大正初期)この像が頭と胴と脚部の三つに分れて、一つは寺の縁の下、一つはある家の物置というように寺および付近の民家から発見された。それをつぎ合せたのが現存の像という(第一次調査時の聞き込み)。

 伝承にょると、この西仏房(西仏坊ともかく)というお坊さんがこの地に石工の技術を興すに功績ボあったことになっている。このことについて文書が残っているようであるが、今回の調査では確認するに至らなかった。表地武一氏によると、文書は当地の古文書研究家某氏のところにあり、その写しを表地氏から借用し要点を転写した。その要旨は次の通りである。「西仏房は清和源氏の血統をひく信濃守幸親の一子で、俗姓は進士蔵人道広であった。出家して信救得業と称した。平家追討の軍を興した頼政は、信救得業に高倉天皇(原文通り)の令書を書かせた。この令書の中で「清盛は平家の糟糠武家の塵芥」と書いたが、頼政が敗れてこの書が清盛の手に渡った。清盛は大いに怒って、信救を探し出そうとしたので信救は故国信州に逃げ木曽義仲に仕え、大夫房覚明と改めた。のちに義仲は平家追討の大業を果すが、勝ち誇って乱行を極め、義経に亡されるにいたる。そこで信救は木曽の残党を率いて曲谷まで逃げた。

鬼気迫る石垣積みの古臼

 

 もともと天台宗徒であることを幸に、洞久房の天台宗の寺に寄寓した。ここで硬質の花崗岩を発見し、故国信州から石工を招き、転石つまり石臼の製造をはじめた。頼朝が天下をとって、平家の残党とともに木曽一族を追求するようになると、信救はここにも安住できなくなった。そこで名を浄観と改めて比叡山延暦寺の学徒の中にまぎれこんで難を免れた。後に、法然上人の教えにしたがい、他力念仏の法に帰依し、上人から西仏房という法名を賜わった。そして、笈を負い杖を曳て江州に下り、前にいた曲谷に来て他力本願の宗旨を説いた。曲谷の天台宗洞ケ房の主僧宗海は、この西仏房の教に帰依し、自室を西仏房に提供して、別れを惜んだ"そこで西仏房は自ら石像を刻んで心仏道場の主とした。これが現存の西仏房だという。

 頼政が敗れて宇治で敗死し、また義仲が挙兵したのはいずれも治承四年(1180)のことであり、義仲は1184年に敗死している。法然上人(1133-1212)が浄土宗開立を決意したのは安元元年(1175)である。いっぽう花崗岩のように硬い石材の加工技術は、石造物の研究者によると、鎌倉時代(1185-1333)になって大きな進歩をとげたとされている。宋人石工集団、伊行末らが日本に来て、東大寺大仏殿復興に参加し、建久七年(1196)には、日本産の花崗岩は硬すぎるので母国から石材をとりよせたという記録はよく知られている。石臼のつくり方もこれら宋の石工達が、伝えた可能性は十分ある。いっぽう西仏房が逃げて、曲谷に来たのは義仲敗死の1184年と考えて、頼朝が征夷大将軍になった1192年頃までの間に曲谷で石臼製造をはじめたことになる。曲谷の花崗岩は、あまり硬くないから、必ずしも宋人石工の技術が前提にならないかも知れない。それ以上に12世紀末にわが国で石臼製造がありえたかどうか、これも問題である。いちおう、伝承としてうけとめることにしょう。

 天神の森

 曲谷の天神の森と呼ばれている場所に石の祠(ほこら)がある。ここには二体の石仏が安置されている。これは明治時代に再建したもので、近くに古い桐があり、その中にも石仏がある。ここの由来についての伝承は次の通り。

 石工の技術を教えた人が故郷へ帰ることになった。土地の人々はこんな立派な石工の師匠を、今曲谷から外に出しては、また外で同じ粉ひき臼の作り方を教える。それではわれわれのつくった粉ひき臼が売れなくなると困るから、どうにかして外へ出さぬようにしようと、あらゆる手をつくして帰らぬよう努力したが、どうしても一人は帰りたいといった。そこである日大きな石がうまく割れないからとだまして、今の「かまとりぶち」という所へ師匠をつれてゆき、「かなてこ」でちょっとこぜれば落ちるようにした大きな岩の下へ連れて来て殺そうとし、「師匠、そこはあぶないからここへ来て」と、岩の落ちて来そうな所へ連れて来ようとした。ところが師匠の見るところでは、そこへは岩は落ちて来そうもない。すべてをさとった師匠は、自ら岩の落ちて来る下へゆき、命を断った。今でも「かなてこぶち」がなまって「かまとりぶち」という。 村の人達は、死んだ師匠の心がはじめてわかって、その霊を、花垣の森といって非常に愛した天神の森へ、西仏房と共々まつって、その命日の11月8日は、今でも祭りを行なうという。

木曽の徳音寺

 長野県木曽郡日義村の徳恩寺は木曽川西畔の山麓にあり、中央線の車窓から見える。この寺は木曾義仲が母の菩提と平家追討祈願のために建立し、のちに大夫坊覚明すなわち西仏坊が義仲の注名をとって寺号としたと伝えられている。

 曲谷臼を追って西仏坊の話に出くわしたので、少々深追いの感があるが11月26日(昭52)この寺を訪問してみた。住職の話によると西仏坊の頃は浄土真宗だったが現在は臨済宗である。寺も往時はこの北約500mの位置にあったが、土砂崩れのため倒壊して現在のところに移った。もと寺があった場所を今でも徳音寺という地名で呼んでいる。寺があった頃は片端と呼んでいたが、今は家が建っていて、寺がどこにあったか、すぐにはわからない。念のため付近までいってみたが、二、三の人達に聞いてもはっきりしない。礎石などが出土したこともあるというが発掘調査は行なわれていない。現在の寺の山門は犬山城主成瀬家寄進のもので総樫造り。本堂裏には義仲、その母小枝御前、愛妾巴御前の苔むしせんこうた墓があり、そのほか義仲関係の遺品を集めた宣公郷土館と、義仲、西仏坊の両木像を安置した霊屋がある。木像は比較的新しいもの。、郷土館には西仏坊が弟子浄賀に与えたと伝えられる「大夫坊覚明行状」なる文書が残されており、西仏坊85歳の仁治二年正月とある。内容は後記文献とほぼ一致する。このほか、木製の一六弁菊花紋章があった。直径約20mで門につけたものであろうか。庫裡の屋根裏から発見されたという。ここで筆者はさきに円楽寺でみた西仏坊石像にあった笠とも紋章ともみえる持物を想起してみた。木地師の紋章といわれるものだが、特に意味はないのかも知れない。もうひとつ郷土館にあった茶臼にも西仏坊と関連はないにしても興味をひいた。上臼が極度に摩損している。明治期まで使っていたものらしい。

 文献で西仏坊を追ってみるのもおもしろい。『大谷本願寺通紀諸弟略伝』や『吾妻鏡」の記述から西仏の履歴を追うと次の通りである。

治承四年(1180) 義仲挙兵    (西仏の年齢)24歳

元暦元年(1184)義仲敗死          28才

建久元年(1190) 頼朝一条殿の追善供養を行ない、34才

建久5年1194)  相模勝寺院          38才    

建久6年(1195) 箱根に閉居…・::.(この間約40年間空白)………文暦元年(1234)北信州、康楽寺を創む

仁治2年(1241) 逝去

  いっぽう「康楽寺由来並法宝物目録」の記述によると、「義仲が京畿の政を執ったとき、江州大溝の領主!,となった」とあり、この点で曲谷との関連が考えられる。なお『大谷本願寺通紀諸弟略伝」では西仏坊は二人いたとある。

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