リンク:稗だんごの話
周辺地域への曲谷臼の広がり
曲谷臼の行き先を訪ねて徳山村に入った。まもなくこの村は湖底に消えた。有名な徳山ダムである。
そのご何度もこの村を訪ねることになった。篠田通弘さん(現在は隣村の藤橋村へ移住)が中心になったダム反対運動の人々だった。だが無残にもすべてを押し潰していった。泊めてもらった宿のおばちゃんにもらった稗の種には長い後日談があった。
曲谷臼が発見されるとすればまず湖北(琵琶湖北部)に違いない。そこで8月9非(昭和52)滋賀民俗学会の菅沼さんほか現地の方々の協力をえて、曲谷の西側にあたる地域を調査した。炎天つづきのこの夏も前日の雨で峠をこし、湖北には、出穂直前の稲田の上に緑の風がそよいでいた。
まず長浜市東部の勝町で中嶋嘉平さん(勝町)および福永外夫さん方を訪ねた。石質は花こう岩だが曲谷に較べて粗目であり、形態もちがっている。外形は似ているが上縁の幅が著しく広く、くぽみの掘りも、丸みのつけ方もちがうのである。いずれも側面仕上げは荒く、たてノミ跡もほとんど認められなかった。福永さんの臼はたが、挽手も残っており、昭和22年頃までつかっていたもので保存状態がよい。糊臼もあった。福永さんの話では、衣類の洗い張り用の米のりをつくるのに使用したと。
徳明寺の臼
次に訪ねたのは、曲谷の西隣の谷間である。曲谷からはあまり高くない山越えで来ることができたから、石臼もきっと運ばれたにちがいない。真宗大谷派徳明寺(長浜市石田町663東野文恵さん)を訪ねると、奥さんが「さあ臼はあったかしら」と物置にゆかれた。その間、屋敷内をきょろきょろ見回していると「あった」植木の根元に下臼1個、まぎれもなく曲谷臼である。私たちは小躍りして喜んだ。まもなく上臼片1個も見つかった。この様子を見ていた子供たちがやってきて「そんな石を見 て、何してるの?」「これ昔の大切な道具なの」「ふーん」。目は著しく磨滅していたが辛うじて溝が確認できた。下臼片はピカピカに光るまで磨滅していた。上臼の厚み9.0cmといっても、それは片べりして、残った周縁部であって、中央部のうすいところは、3cmを割るほどに、すり減っていた。ここまで使いふるすのに何年かかるのであろうか。うすくなって、ついに割れたものであろう。
こんなことをしている間に、奥さんが臼を見つけてこられた。これも確実に曲谷臼で上臼は厚み10cmに達し、側面は荒仕上で、古い時代の形態をもっていた。
お寺の隣の松田健吉さん方にも曲谷臼があった。これは側面などの作りがよく、タテノミ跡もあり、比較的新しい。この家ではさいきんまで使用していたという。
曲谷に沿った谷をさらに入ると、かつて野鍛冶の村だった浅井町鍛冶屋があっる。ここで鍛冶屋道具を中心にした民俗館「七りん館」(浅井町鍛冶屋草野文男氏)の石臼若干を見た。数組あったリンズ式の豆腐臼や糊臼もある。
疋田臼(ひきた)
以上から、曲谷の西隣の谷は曲谷臼が主流をなしていることがわかったので、この谷を出て、西方の伊香郡高月町に出た。町助役、今井清右衛門さんを訪問し、次のお話を聞くことができた。この地方には曲谷臼のほかに、疋田臼(敦賀方面)というのがあった。曲谷石は青味がかった石だが、疋田石は赤味がかっていた。しかし曲谷臼よりも疋田臼はすり減りやすかったという。
未知の石臼産地越前の「疋田」が登場した。是非その実物を確認したかったが、突然の訪問なので、次の機会にゆずることにした。なお、この地方では、石臼の「挽手」のことを「つく」、「やり木」のことを「さしぎ」ということも知った。さきに訪ねた徳明寺でも「つく」という名を聞いたが、「つっこんでまわす木」の意だろうか。
この日最後の訪問地、木の本町石道では、元校長先生で、現在は石道区長の中村国男さんを訪ねた。この地はヤンマーの農機工場が各戸に分散して設けられていることで有名。合掌造りの家も多く残り、特有の破風が印象的である。中村さんの案内で五個所七点の石臼を計測することができた。そのうち5点は曲谷臼、あと2点は曲谷以外の臼であった。それがさきに出た「疋田臼」かどうかは全くわからない。そのほか数点、屋外に放り出された石臼を見たが、それらはいずれも曲谷臼であった。福井県境に近いので、横打込式の越前臼が出てこないかと期待していたが、みつからなかった。さきに越前・小和清水臼調査(昭52・7・20)の帰途、国道365号線、旧北陸街道を通ったさい、県境付近の木の本町地内で横打込式を見つけた。湖北にはかなり入りこんでいるはずで、将来の楽しみである。
ところで高月町助役、今井清右衛門さんから聞いた疋田臼が気になって、学生の加藤達夫君が9月24日(昭52)単独で調査に出かけた。疋田は国道8号線沿いに高月町から木の本を経て余呉湖の西を通り北上、滋賀県と福井県境をこえたところにある。ここまで来ると敦賀は目と鼻の先である。ここで数件の調査を行ない、この地で産出する赤味がかった花こう岩(長石が赤味を帯びている)製の臼を見つけた。たが締めである点は曲谷臼に似ているが、簡単な一本たがであり、天場のくぽみが浅くて、上縁が角ばっていて明らかに見分けがつく。これが滋賀県にも入りこんでいるわけだ。敦賀から福井へ向っても、三方五湖へ向ってもたが締めはなくなる。このあたりが曲谷臼の北限であろうか。
岐阜県の曲谷臼(岐阜県久瀬村)
木の本から八草峠越えで岐阜県揖斐郡久瀬村に通ずる街道があった。曲谷臼はこの道を通って江州から美濃に入った可能性は十分ある。これを確かめるため、8月11日(昭52)に久瀬村を訪問した。大垣から赤坂を経て揖斐川沿いの谷間に入ると、急に道路が狭くなる。「落石注意」の標識が目立つが、ここで昨年、バス転落事故があった難所である。
当日の目的は上田石灰製造(株)久瀬工場の鉱山廃水処理についての打合せであったが、鉱道入口付近の花こう岩の石垣が気になった。曲谷石に非常によく似た石で、臼をつくるのには適した石に見える。聞いてみると、花こう岩の石材も石垣用に出したことがあるという。話題は自然に石臼へと移り、うちにあるから見せてあげようということになった。訪ねた家は・同社従業員の竹中秋好さん(久瀬村西津汲1155)。たがも挽手もついた完全なものであった。形態は確かに曲谷臼であり、石質も曲谷石に非常に似ているが、黒雲母が多い。この村の石垣につかわれている石で、これはこの村に出る久瀬石と思われた。念のためもう一軒、近くの竹中秀一さんの臼を見せてもらった。これも形態は曲谷臼であるが、石質は久瀬石で、比較的新しく、昭和に入ってからの作と考えられた。もうひとつ、村内にところどころ、曲谷でみたつくりかけの石臼に似た、石臼用の石材らしいものが転がっているのに気づいた。ここも曲谷と同じ石臼産地遺跡なのだろうか。それとも漬物石なのだろうか。そう思って見ていると、通りかかった年輩のおじさんが、これは「紙うすだ」という。「こうぞ」を川に入れてさらすときの重し(おもし)なのだ。そういえば、漬物石にあるような、「手かけ穴」がある。この村では和紙をつくっていたのである。よかった、もう少しで私は、つくりかけの石臼と誤認するところだった。そのほかに直径50-60cmの平ぺったい石も、あちこちにみられた。これは「こうぞ」をたたく「紙たたき石」であった。竹中秋好さんの案内で村内石工の最長老で代々石屋をやっておられた高橋長内さん(明治31年生まれ)当年80才を訪ねた。
石工高橋長内さん曲谷そっくりの風景は紙臼だった(こうぞタタキ石)
ここで次のような耳寄りなお話を聞くことができた。「わしは誰から習ったのでもない・おやじ(利右衛門)も、おじいさん(おこんさんの父)も石工だったから、自然に石工になった。おじいさんは偉い石工で江州から来たと聞いている。鳥居や燈ろうなどをつくった。聞き伝えているところによると、江州でなにか大きな事故があって、面白うないようになって、13人の弟子をつれて伊勢へ越した。しかし伊勢も面白うなくて、八草峠ごえで江州への帰り路に、この村に立寄ったところ、この辺によい石があったのでここで石屋を開いた。三田倉の石はよいが日坂のはよくない。この辺の石臼はたいがいわしがつくったものだ。石地蔵、石碑などもつくった。茶松(お茶屋の松さんのあだな)の石地蔵は近くにある。紙たたき石はおやじがつくったものだ。たがを入れるのは定吉っあんや、桶松っあんなどがいたが、石臼にたがを入れるのは、いやがったもので、わしが自分で入れることが多かった」。
江州は曲谷でしょうかと聞いたが、それは知らないとのことであった。江州はおそらく曲谷であろう。その証拠はこの村の石臼が、完全に曲谷臼の形態をもっていることだ。曲谷から移住した長内さんのおじいさん以下13 人の石工達が、その手法をそっくり伝えて、久瀬の花こう岩でつくったにちがいない、と私は考えた。この村の石臼の全体を詳しく調べることができたら、曲谷から運ばれた石臼が見つかるかも知れない。南方から入った他の系統の臼もみつかるかも知れない。
岐阜県徳山村
美濃民俗文化の会・松久嘉枝氏に従って徳山村を訪ねたのは8月23日(昭52)であった。松久さんは「私、いくつに見えますか」とよく人に聞いておられる。「そうですねえ、70くらいですか」というと、「いやいやわしは80を越えていますよ」と胸を張って大きな声。「バカにしてはいかん、わしは70そこそこの小僧じゃないぞ」といわんばかり。補聴器こそ使われるが、大変達者で若いものの先頭に立って歩かれる。「民俗学は頭と手のほかに足でやるものですよ」と教えて下さったのも松久さんである。研究室の学生、加藤達夫君の運転で朝、京都を発ち、大垣市で松久さん宅を出たのは午前11時を過ぎていた。石灰工業の赤坂町を経て揖斐川沿いに北上し、さきに訪ねた久瀬村を左に見て久瀬ダムをすぎる頃から、道路の幅も狭く山道にさしかかる。徳山村は岐阜県でも秘境中の秘境。特急バスが縦貫している白川村などは今や都会の延長になってしまったが、ここは、今も完全な秘境。やがて徳山ダムにさしかかると、両側から草が生い茂った文字通りの山道になり、一車線しかなくなる。しかし対向車もほとんど来ないから安心である。この向うにほんとうに民家があるのか知らと心細くなるほどに、うねうねまわった自動車道がつづく。
徳山村開田の中学に大牧富士夫先生を訪ねたのは午後1時半であった。ここで2日間の調査計画を打合せ、いちお全域にわたって通覧することになった。徳山は揖斐川の上流に沿う村落と、その支流、西谷川に沿う戸入(とにゅー)、門入(かどにゅー)の二村落とがある。まず江州から八草峠、ホハレ峠を経て曲谷臼が入ったと予想される門入へ向った。上開田からふたたび全く人家のないうねうね道をただひたすらに走る。四国の東祖谷を想わせる深い谷間が果しなくつづいた。
大牧先生(左)と松久さん(徳山村にて)
門入ではここの分校の泉金重先生がお世話して下さった。徳山は全体として越前(福井)の影響がつよく、門入の奥にある入谷(にゅーたに)は江戸末期まで越前へつづく道があり、お寺も、鯖江の誠照寺や福井の長慶寺(いずれも真宗)の系統であったという。
田畑は離れ地にあり、春、「出小屋」へいって仕事をはじめ、秋、収獲して家へ帰る生活があった。その小屋でニつの石臼を計測したが、いずれも予想通り曲谷臼であった。とくにその一つは字甚酎(じんじゃく)の出小屋にあり純粋な曲谷臼で、見事な組たが二本があった。
越前臼の発見
戸入では九件の計測をしたが、ここでは曲谷臼のほかに越前臼が三件見つかった。次章および四章でのぺるが、はっきり越前臼の名称をきいたのは、これがはじめてであった。橋場金之亟さん宅には、久瀬から入ったと思われる準曲谷臼があったが、もちろん臼は台所におかれていた。縁側で金之亟さんとお話ししながら、「もしかしたら金之亟さんは日本一ぜいたくなお家に住んでいらっしゃるのかも知れませんね」と私はいった。門前(かど)にはこんこんと湧出る泉があり、その向うに吊り橋がある。それを渡ると土蔵があるが、それは火事があっても焼けないためである。谷川の清流がやさしくささやく。
現代文明が開発の名のもとに、大自然と人間をこわす前には、すべての人達がこうして大自然と対話しながら生活していた・・・。そんなことをふと私は考えた。金之亟さんの答は「うん、わしもそう思う」であった。ここで「民具」なんて都会の言葉は通用しそうもないのである。宮川頼太郎さん方には昭和18年に越前臼といわれて買った石臼一組が、これも台所の片隅にあった。まちがいなく小和清水の砂岩と思われた。なおこの家の井戸端に茶臼の下臼片があったが何につかったものかわからないとのことであった。戸入ではどの家にも臼があったので、少し欲ばりすぎて、へとへとになってしまった。夕方六時を過ぎたのを知って引揚げることにした。
宿の美濃路旅館でも越前臼がみつかり、おばさんと話すうち、「ひえ」だんごはうまいこと、今でも「ひえ」を栽培している人がいることを聞き出した。後で大牧先生にひえの穂をとりよせてもらい、京大農学部の植物生殖質研究所(木原研)の阪本先生に鑑定していただいて、それが「しこくびえ」であることを確認することができた。翌日は揖斐川沿いの村落を調査したが、越前臼の方が多かった。なお塚には縄文時代の石皿などが扇間儀雄さん方に保存されていた。また徳山にあった茶臼が、久瀬村の高橋克馬氏宅で保管されている。
徳山のまとめ
徳山村では美濃臼と越前臼という名前が残っている。しがし曲谷臼の名は知られていない。曲谷臼の売さばき店が関が原にあった(曲谷での聞込み)とすると、美濃路を上ってきたのであろうか。この村の石臼は確実に三つのタイプに分類できる。五個所の計測のうち曲谷臼六件、準曲谷臼三件、越前臼六件であった。
この村では石臼は大部分、現在でも屋内ですぐ使える状態のまま保存されている。新築した家でも雨ざらしになっているのが少ないのは、ごく最近まで大切な道具として使われたことを示している。とくに塚では今でも正月には必ず石臼をまわして豆腐をつくる。「豆腐をつくらないと正月が来たような気がし、ないよ」とは森下淳一さん方で聞いた話である。