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竹中半兵衛の居城遺跡から出た石臼は曲谷臼だった
菩提山城
豊臣秀吉の名軍師として知られている竹中半兵衛は美濃国不破郡(岐阜県不破郡垂井町岩手)の菩提山頂に居城を置いていた。応永20年(1413)に岩手氏が居城を構え、永禄2年(1559)竹中半兵衛の父、重元がこれを滅して築城したと伝えられている。この城趾について愛知県の古城研究家、井上博史氏ら(自衛隊員)が数年来研究をつづけておられて、昭和53年、城趾で落葉の下にのぞいている石臼片を発見された。同年九月この情報を、美濃民俗文化の会・富田庄次郎氏を通じ、同町教育委員会、渡辺幹男氏から得たが、送られてきた写真を見て「これはまぎれもなく曲谷臼だ」と判断した。上臼片一件のみであ.るが、曲谷臼の特徴を完全にそなえていた。
新幹線東海で新岐阜と米原の中間くらい車窓から見える風景
矢印が出土した遺跡
曲谷臼であることの確認
西仏坊伝承の通り12世紀に曲谷臼の製造が始まったとすれば、竹中半兵衛の居城に曲谷臼があっても不思議ではない。一日も早く実物の確認をと思いながら、機を失していたが7月5日(昭53)同町教育委員会を訪ね公民館に保管されている臼片を見学した。その結果、形態、寸法のほか、次の点で曲谷臼と断定することができた。石質は花こう岩で、風化状態および、黒雲母の排列状態を、曲谷現地の石と比較対照して、曲谷石にまちがいない。わずかに供給口の1/4くらいが認められるが、上臼上縁と”くぼみ”の形態は正しく曲谷臼である。ところでこの臼片は井上氏が作図された菩提山城鳥轍図の台所曲輪から発見され、いくつかの石が並んだ状態にあったという。
海抜402mの高所であり、居城以外には人家の存在が考えられない場所から発見されている点で興味深い(このような高所で発見された例は、高知氷室跡の例がある。なおこの山城は天正16年(1588)に廃城となり、あとは山のまま放置されていた。正式の発掘調査は行なわれていないが、臼片のほかには備前焼と思われる摺鉢片が発見されている。これにはくし目がみられる点で、もう少し後の時代のものかも知れない。山城に属するものではないとすれば考えられる唯一の推定は炭焼小屋との関連である。しかし臼の使用とは結びつけ難い。将来、茶臼が発見される可能性が考えられ本格的発掘調査が期待される。なお岩手村落に近い大石の岩崎光一さん宅に典型的な曲谷臼があった。
出土した石臼(この時代にはまだ石臼は百姓に普及していなかった。