リンク:03石臼シンポジウムIN飛騨2004年の京都府網野町終了報告|


荘川石臼シンポジウム終了レポート
          同志社大学名誉教授  三輪茂雄
 飛騨の荘川村は御母衣ダムの建設で強制退去をさせられ村の1200人、(240戸)が7年にも及ぶ建設反対運動の後、、昭和34年11月に強制退去を受け入れて湖底に沈んだ村として有名だ。
 この村の涙の象徴になっている荘川桜についてはNHKのプロジェクトXで放送された。湖底に沈んだ光輪寺の桜が約35トン。照蓮寺の桜が約38トン。その2本を、50メートル上の方に引き上げ、距離にして約600メートルも運搬したという。桜は植え替え不可というのが常識だが、村人の熱意と当時の電源開発総裁・高碕達之助の異例の情熱で実行され驚きの目で見られた快挙だった。『桜博士』こと笹部新太郎氏は独自に移植の研究を重ね、庭正造園の丹羽政光氏の助けを得て、不可能といわれた大移植に挑戦した。昭和35年12月に大移植が完了して現在も生き続けている。
 その奇跡を確かめるのを兼ねて、石臼シンポジウムが岐阜県・飛騨の荘川村で開催された。定員50名を2月末にオーバーした。新幹線岐阜羽島駅9時時40分発のバスに集合。残りの参加者は車だ。車参加者に構わず直ちにシンポジウム開始宣言するのは異様だが、この学会の常識。これは湯布院でもそうだった。 12時に現地に到着しバスは蕎麦正さんへ。ここの親爺は蕎麦打ち名人。その風貌もご馳走の内。蕎麦代は田中住建社長もち。食事あとまず巨大石臼と水車を見学後講演会場へ。
 開始予定は3時だったが、40分もまつことはないと、町長挨拶までに、三輪が基調講演開始。なにごとも異例ずくし。
 そこでスライドで説明しようとしたら、役場との連絡の手違いで方付けてしまったという。これ幸いと現物を見せる方法に変更。大きいことはいいことばかりじゃないと、カバンのなかからやおら取り出した直径10cmの世界最小の石臼で胡麻挽きを実演する三輪流講義からはじまる。蛙砂セットを見せたり、螺鈿の石臼の写真を見せて、これは宮中八白散と言う貴人向け洗顔料製造用であるなど、いずれも誰も知らない事実を連発後、「さてぼつぼつ村長ご登場でしょうか」と言って会場を見るとすでに目の前に。「では村長に変わりましよう」。
 荘川村村長益戸美次氏挨拶。この町長はただの町長ではない。ダムの建設反対運動と強制退去で湖底に消えた村を率いて村おこしの先頭にたつ闘士だけに挨拶も迫力満点。
 次いで建設した田中信一・田中住建社長が「巨大水車と巨大石臼の技術的基礎」と題して詳しい資料で説明。中国からの石材の輸入、高精度(50分の1ミリ)石材加工技術を自家開発したところがすごい。それも技術者の引き抜きで対応したと。
 次いで広島市立大学教授植草永生先生の登場。先生は1989年に神奈川県藤野町で 巨大石臼の製作に挑戦した石造芸術家である。実物は現在も藤野町郷土館に保管されており、黄な粉を挽いている。日本最古の石臼として知られている九州太宰府の観世音寺に現存するいわゆる天平の碾磑を再生する目的で先生が挑戦された。約1年を要したが、先生も軸受けには特別に配慮したという。
 第一日のプログラムは時間通り終了し、宿泊の三つの民宿へバスで分宿した。事務局は蕎麦正さんが経営する民宿みしまだった。
第二日
 九時から信州大学名誉教授の俣野敏子先生。「ソバ博士が語る世界のソバ談義」。先生は伊那にあるご自分の大学で世界ソバ学会を開催した国際的大教授だ。先生演壇に立つや「私は酒をぶら下げてやってきたから、これでおしまい。」とダダを一席捏ねてから、あとはとうとうと育種学の立場からのソバ談義。日本は世界一のソバ輸入大国だが、農水省の失政が、同じ田圃にソバを作れと言ったり、米を作れと言ったりする。ソバは本来焼き畑もので、一度水田にすれば、下から水が来て根を腐らせるなど。話始めると止まらない。「ソバがおいしいかどうかを議論すること自体おかしい」、これは私に対する怖いおばちゃん教授の手厳しい批判でもあった。多分先生は昔の百姓にとって蕎麦は食うか食わずの境目の食べ物だったことを念頭におけという意味を込めていると反省した。「夜なべで石臼で挽いたそば粉の団子を子供にペロリと食べられてしまった」と言う切ない話は飽食の現代日本で単なる昔話になってしまった。流石司会の私も激しい迫力に終了のベルを叩き兼ねて十分間のオーバー。あとは先生が全員に無料で配布された近著『そば学大全』(平凡社新書)を読めと。
 次は熊本製粉 研究開発部課長 農学博士 松本幸太郎氏の「石臼挽き蕎麦粉の特性」についてスライドを使っての大真面目な工学的データ説明あり。ただし石臼は田中三次郎商店が販売している西洋の石臼だ。
 続いて佐藤工房の佐藤勝次郎氏が同社で製作している石臼から見た田中住建の巨大石臼との相違を忌憚なく論じた。完全な円運動で、摺動がないから、「ありゃロール製粉と同じだ」と酷評。口に戸を立てぬ彼らしい。私もそうだと思った。粉に練りがなければ石臼ではない。こういう話ができるのもこのシンポならではだ。聴衆にどこまで分かったか興味深いところだ。
 最後に網野町の三浦 到課長と松尾庸介鳴き砂を守る会会長から、石臼挽き黄な粉の試作資料配付と説明があった。これは同町の民俗として伝えられたものであった。しかしまだ試行錯誤を要しそうだ。スーパーで売っているものと香りの他はさほど変わらない。この黄な粉をまぶした牡丹餅(ぼたもち)を作ることを考えて見ると、黄な粉が細かすぎる。ベタついて、箱に入れると下にくっついてしまう。
 ところでその箱はどういう名前か?「ロージ」と私が言ったが通じなかった。どうも私の故郷の方言らしい。そこで私の田舎(岐阜県)の従兄弟どもに電話して聞いてみた。「ロージ?あー餅を並べる箱やな。相変わらずおかしな事を聞くやつやな。でも久しぶりに聞いた事や」と誰も言う(文献1)。ところが東北の宮城や福島県の人に話すと通じない。理化学器械に詳しい筒井理化学器械の井上良雄君に話して見たら、即座に番重という器具があると。「さすが生き字引」。そこで荘川シンポに来ていた京都のパン屋さんに聞いてみたら「ばんじゅうは練った生地入れるのにいつも使っています。深いのと浅いのがあって生地のキロ数によって使い分けています。」と返事があった。
シンポ終了後全員で記念撮影

三輪が保管している臼類の行くヘ
 現在三輪は多くの臼類資料を三個所に分散して保管している。これをどこか大切に保管し、活用してもらいたいと望んでいる。同志社大学退職時、大学には約30数年の研究過程で自然に集まった各種資料が集積していた。大学で資料室を作ってくれないかと提案したら、学部長は臼塚でも作るかと言った。危険を感じて一時網野町と自宅および大垣の親戚に分散退避した。自宅の庭を潰して保管のための ?坪二階建ての臼類資料室を建設した。 鳴き砂関係資料などの大部分は網野町に引き取り願った。これが中心になって昨年「琴引浜鳴き砂文化館」が建設された。網野町ではこれから引き続き展示やイベントに利用される予定と聞く。
 今三輪茂雄宅と大垣および網野で分散保管されている臼類資料をどこかに移管したい。しかし鳴き砂もそのままではただの砂であるように、石臼はただの汚い石ころに過ぎない。それらに命を吹き込んでくれる条件が整う展示施設があれば、これらの資料は無償で移管するとこんどのシンポで公言した。これを利用し、イベントなどに利用して、何らかの命を吹き込む仕事ができる人物養成が私の使命であると考えている。その養成は私がやるしかないから、私もついて行く積もりである。となると、私は聖人ではなく俗人だから旅費とともに食わせなければならない。さあたいへんだーと。 臼は穀潰しといわれるからもっともだ。穀潰しだから嫌だといわれたらどうしよう。
文献1 辻下栄一著:『上石津の方言』(平成9刋)所収 

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