リンク:水車小屋の娘とは


西洋の製粉業は支配者の独占だった

 西洋では、小麦製粉が社会的に重要な意義をもっていたから、中世には製粉工場を領主や教会が占有し、利益を独占した。庶民がロータリーカーンを所有することを禁じて争いを起こすこともあった。中世における「水車使用強制権」はその現われであろう。阿部謹也は詳しく紹介している。「水車の建設・維持にはかなりの費用がかかった。それにヨ-ロッパのほとんどの河川は流れがゆるやかであったから、下射(掛)式水車ではなく、上射(掛)式水車が採用され、そのために堰堤が必要となったから、水車設置の土地だけでなく、水利権をもつ者でなければ水車を設置できなかった。そして何よりも大量の穀物消費が前提であったことは、いうまでもない。だから多くの家臣をかかえた大荘園領主や修道院でまず水車が設置されたことは当然であった。(『月刊百科』159号1975年)  古い時代の西洋では水車製粉は荘園や修道院の自家消費であり、一般農民たちは手挽き石臼をつかっていた。しかし9世紀後半にいたって、大荘園が分解し、代わって農村領主層が、水車小屋の独占と使用強制権を確立した。「それは一定地域に競合する水車の設置を認めず、農民に指定された領主の水車で穀物を挽かせることを義務づけた」(前掲書)。  水車小屋の領主独占は、当時の農民たちを苦しめ、農民はそれに対して抵抗した歴史がある。1331年、イギリスのセントオーハンズ修道院領事件では、町中の民家から臼を没収して修道院の床に敷きつめた。その50年後の一揆のときには、住民が修道院を襲撃し、かつての屈辱の記念物たる床石をこわし、石臼のかけらを勝利の記念品としてもちかえったという。領主側は手回しの石臼の徴発と監視、庶民は石臼の闇の使用というのが西洋の石臼の歴史であった。

戻る