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粉体工学から見た奈良大仏

工事中の大仏様

  奈良の大仏は盧遮那仏(るしゃなぶつ)。平凡社の百科事典をひいて見ると,「サンスクリット語で光明遍照などと訳され、煩悩の体が浄く、衆徳備わり、一切処にあまねきこと、あたか日光のごとく照さぬ ところがないとの義」と書いてあった。現代人がこの大仏の足下に立って仰ぐ像は千二百数十年前とほとんど変わるところないが, 受ける感動は、およそ異質のものである。いまでは、国の総力を挙げてこの像をつくった想像を絶する権力もないが、作りあげた人達の苦労話も伝えられていない。それに現代の巨大建造物を見慣れた感覚で見るから、クレーンでいとも軽々と吊りあげるさまを想像することもできる。  奈良時代を再現し、奈良時代の感覚で大仏を仰ぐことっは出来ないものかと考えてみた。食物史を調べて、大仏造営の工事に参加した人々の食糧について知りたいと思つたが、どうもよくわからない。麦のにぎりめしに味噌ぐらいの粗食であったに違いない。だがこれを「粗食」と評価するのも現代的感覚である。現代人のために「粗食」を「自然食」と言いかえてみるのも面 白い。  次には大仏鋳造について技術的検討を加えた『奈良と鎌倉の大仏』(荒木宏著,有隣堂昭和34年や、『鋳造』(石野享著、産業技術センター、昭和52刊)から、工事の推移をたどることもできる。それによると、まず木材を組み立てて骨組をつくり、その外側に壁を塗るようにして、鋳物砂と粘土の混合物で大仏の原型をつくった。  この原型に雲母粉のような離型材を振りかけておき、その上に、外型用の粘土砂を塗りつける。原型に接する肌砂は細かい砂、その上にやや粗い砂、さらにその上にもっと粗い砂というように、篩(ふるい)で粒を揃えた鋳物砂を用いて繰り返し塗り固め、外型の厚みを50センチぐらいにした。この外型は一個が畳一枚ぐらいに分割し、これを自然乾燥してから、薪や木炭の火で焼成した。  一方、外型を取り外して露出した大仏の原型は表面を一様に削り落してから、外型をもとの位 置にもどせば、削り取った分だけの隙間ができる。ここへ少しずつ鋳込んでゆく。全高を八段に分割し、下方から順次鋳込み、一段鋳込むごとに、まわりに土手を築いて、そこに手鞴(ふいご)の溶解炉をおいて作業した。最後には大仏の周辺に高さ約17メートルの小山.が築かれた。  三年の歳月を費して本体を鋳造したが、これではまだ無恰好な鋳放しの大仏である。表面 を砥石で磨き、塗金を施さねばならぬ。水銀に金をとかしたアマルガムを塗るのに5年の歳月をかけた。このときにはアマルガムを加熱ずるので、大仏り周辺には有毒な水銀ガスが充満するという、聞くも恐ろしい光景が展開したわけ。  大仏周辺の工事のほかに、諸国の鉱山をはじめとして、材料調達のための大規模な事業が行われた。「國銅を尽して象(像)を鎔し、大山を削って堂を構え」と天平15年に発せられた聖武天皇の詔(みことのり)は、国土の荒廃と引換えに行われた大工事を素直に表現している.  当時の燃料は木炭であった。『木炭の文化史』(樋口清之著、東出版、昭和37)には大仏鋳造に使われた木炭だけでも16656石、これは史上最大の木炭消費であると書かれている。大仏と大仏殿は度々の戦火で焼失するたびに再建され、そのつど、森林の大量 伐採が繰りかえされたから、たとえば中国地方の森林の現在に残る荒廃を生んだ一富山和子著、ポと緑と土L中公新書、昭和49)。「日本列島の砂漠化」は、すでに古代より着実に進み、とどめの一撃が加えられようとしている。  今も昔も、鋳物砂は、白砂青松の砂浜や、美しい山を削って採取され、華々しい文化の舞台裏で、人目に触れず、焼けただれて捨て去られる悲しい運命を担った粉体である。現代社会は、1トンの鋳物をつくるのに3-5トンの鋳物砂を産業廃棄物にしている。ガラス製造原料用の砂も含めると、わが国では一人当り年間数10キロの美しい砂を消費する勘定になる。奈良の大仏は、文明と国土とそして煩悩について考える巨大な記念物である。

(アサヒグラフ1979.11.16.号掲載)筆者  同志社大学名誉教授 三輪茂雄

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