日本経済新聞 2004.5月7日(文化欄)
平城京 水銀が命絶つ
ーーー「遷都の原因は大仏建立による公害」仮説唱える
奈の都、平城京は大仏様の「公害」めために遷都を余儀なくされた。化学を専門とする私はそう確信し、大学でも教えてきた。八年前に長崎大学教授を停年退官したが、今もあちらこちらで「大仏公害論?」と題する講演をし、文章をつづつている。
若草山に木が生えない
杉山二郎・元国際仏教学大学院大学教授の『大仏以後』という本が1999年に新装本として出版されたのがきっかけだった。.『大仏以後』によれば、.今も若草山に木が生えないのは、大仏建立のためにここで銅が精錬され廃液が流されたためという。私も五十年ほど前、京都工芸繊維大学の学生だったころはそう思っていた。が、それは誤解だった。
実は奈良には大仏様に起因するもっと深刻な公害問題があった。それは水銀公害である。
好きでもなかった化学を学び、大学教官の道に進んだ私はある時、衝撃葡な事実を知った。今から三十年ほど前のことである。勤務していた東京大学で工学部の応用鉱物化学研究室から新設の環境安全センターに異動になった。セラミックスが専門だったため、その方面の知識に乏しかった私は環境関連分野の書物を読みまくった。その中の一冊に喜田村正次ほか著『水銀』があった。そこには、奈良の大仏が完成したのは西暦749年で、金メッキするために大量の水銀が使われたことが記してあった。「東大寺大仏記」によれば、水銀五万八千六百二十両,(約五十トン)、金一万四百四十六両(約九トン)を用いたとある。アマルガム法という方法である。水銀に金を投入すると金と水銀の合金ができる。この合金を大仏様の表面に塗りつけその後に炭火で加熱して水銀をとばす。古くからある方法だが、問題はその量であった。私は目を疑っ.た。蛍光灯には水銀が封入されている。電極から放出された電子が水銀原子に衝突して紫外線を発生、紫外線がガラス管内壁に塗布された蛍光物質に当たって可視光線を発一生させる仕組みだからだ。
年間使用量の十倍
その量は四十ワットの直管型で約三十ニリグラム。最近は、三分の一以下で済むようになったようだが、それでも日本全国で生産する蛍光灯に使われる水銀は年間五-六トン前後に達する。五十トンといえば実にその十倍。私はあまりの多さにぴっくりしてしまった。これほどの量を、盆地に立地する平城京で蒸発させれば水銀中毒が起きておかしくない。私はさっそく大学の講義でこの問題を取り上げた。後に長崎大学に転じてからもこの講義は続けた。
大仏の断面図を大きく黒板に描き、黄色いチョークでその表面に金,水銀アマルガムの塗布層を描く。そして大仏の内部を熱して水銀が蒸気となって散逸していく様を説.明する。化学式だけの講義と違っ.て学生諸君も面白がってくれた。奈良盆地は紀伊半島の中央部にある。夏暑く、冬寒い典型的な内陸性気候が特徴だ。このような場所で水銀を蒸発させる作業を行うとすれば冬しかない。まんべんなく水銀を蒸発させるには大仏を外から熱してもだめで、内部から熱さなければならないからだ。.
冬になると、奈良盆地には冷たい北風が琵琶湖を渡って吹きつける。北風は若草山に当たって東風に変わり、蒸発した氷銀を伴って平城京に流れ込む。いや平城京だけでなく、広く奈良盆地の北部全体が水銀蒸気で汚染されただろう。
「大仏が完成したのは749年。大仏の開眼供養は752年である。大仏の光背が完成するのは771年だから金メッキを施すの十九年を要したことになる。
水銀中毒といえば九州の水俣が思い浮ぶ。水俣の場合は、魚を媒介にした有機水銀の経口摂取が引き起こした中毒だ。これに対し、平城京の水銀中毒は無機水銀を蒸気の形で大量吸入したことによって起きる障害である。
中毒症状は「たたり」
日本化学会編「化学防災指針」によると蒸気水銀は気管支炎や肺炎を引き起こし、腎細尿管障害、むくみ、場合によって尿毒症も発生し、全身のだるさ、手のふるえ、運動失調などをひき起す。こうした症状を医学的知識のない当時の人々は「たたり」と信じ、行政府は風土病と判断したのではないか。このことが中国長安をモデルに壮大な構想でつくられた平城京がわずか74年間で歴史を閉じ、長岡京へ遷都(784年)せざるを得なかった理由ではないか。底流には天智系と天武系の葛藤があり水銀中毒が遷都の引き金になった。
もっ.とも、水銀中毒は私の仮説に過ぎない.。しかし現代の環境科学の力をもってすれば、土中の水銀濃度を測定することで検証できると思う。実証してみようという方はいないものだろうか。
(大学等環境安全協議会名誉会員 白須賀公平)