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戦国武将と茶の湯

(挿絵は浮世絵「道外つくし」鳥居清忠より)

茶磨の歴史年表は日本に伝来してからおよそ300年間、茶の湯は、禅僧や貴族など専ら上流階級の間で行われてきたが、戦国時代になると急速に全国の武士と高級商人の間に普及したことがわかる。
 オランダの旅行家リンス・ホーテンの『東方案内記』(1596) には外国人の目にうつった当時の様子が記されている。
「チャーと称する薬草の、ある種の粉で調味した熱湯、これはひじょうに尊ばれ、財力があり、地位のある者はみな、この水をある秘密の場所にしまっておいて、主人みずからこれを調製し、友人や客人を、おおいに手厚くもてなそうとするときは、まずこの熱湯を喫することをすすめるほど珍重されている。かれらはまた、その熱湯を煮たてたり、その薬草を貯えるのに用いるポットを、それを飲むための土製の椀とともに、われわれが、ダイヤモンドやルビーなどの宝石を尊ぶように、たいそう珍重する。」
 茶の湯に限らず、貴族の文化をわがものにすることは、地位の高さを誇らしげに示す手段すなわち、ステータスシンボルであった。信長や秀吉の茶の湯好みはよく知られているが、これをまねて、われもわれもと、名器集めがおこなわれた。ところで茶の湯にはお抹茶が欠かせない。現在のように工業製品化された茶道用お抹茶などなかったから、お抹茶をつくる茶磨(ちゃうす、茶臼)が必要だ。しかし名器を手にすることができるのは、特別な地位にある人物に限られている。そこで石屋につくらせ、模倣に模倣を重ねていった。私が調査した限りでは天竜川以東の東国へゆくにつれ、形態が粗野になり目の刻みまで変わってゆく傾向がみられた。富士山麓では作りかけて断念したものが発見されている。誰が命じたのだろうか、などと想像するのも愉快である。茶の湯が日本の石ウスの先達になるという、外国とは全く違う日本独自の発展過程をたどった。
 信長の茶磨は本能寺で失われたらしいので見付からないが、秀吉や武田、朝倉などの大将級の武士たちの遺物が発見されていて、さすがに名器だと感心させられる。毛利の配下の中国地方には中国直輸入らしい名器も多く、現在でも茶が盛んなことは、その名残りである。

 戦国武将の茶臼を訪ねて(表千家 同門 誌記事より-入手不可なため復刻しました)

 伝秀吉の松風の茶磨(在岡山市内民家)

武田信玄愛用の茶磨いぼ丸(甲府市館 曹洞宗大泉寺蔵,石臼探訪p.137参照)

 戦国武将の茶臼 お伊勢さんまいりの童謡に「福島どのの茶臼をみれば、茶臼は白銀、挽木は黄金、お茶とる羽は雁の羽」とあるように戦国の代になると、新時代をになおうとする武士たちが競って貴人たちの生活文化を手にいれようとしました。信長の茶の湯好みはよく知られているところです。しかし茶磨を手に入れるのはなかなか難しかったようです。利休はどうしていたのか、よく分かりませんが、ただ一つ、茶磨を頼むと書いた書簡があります。利休書簡に「返すがえす、茶臼のこと頼み申し候。:…−−茶臼のこと、茶を入れ侯わずとも、挽かれ候て給うべく候。そのほうに茶なく候わば、参るべく候。かしく」『定本千利休の書簡』(東京堂版昭五二、山形県河北町谷地、細谷理右衛門氏蔵、天正十二年以降のものと推測。)堺の発掘調査では、茶磨が沢山発見されていますが、堺の商人たちも茶磨を手にいれていたことがわかります。 茶臼山 戦国の武将たちにとって茶磨がある特別な意味をもっていたことは、茶磨山(茶臼山)と呼ばれる山が全国に二〇〇以上もあることからもうかがえます。その大部分が当時の城跡や戦陣跡であったことが知られています。最近、国土地理院の調査で日本中の山の名で一番数が多いのは円山で約百個と発表しました一NHKテレビ平成三年三月三一日朝のニュース一が、それは地図にのっているものだけからの話で、茶磨山はその倍もあります。実際には付近の住人に聞いてはじめてわかるのが、茶磨山です。『地名辞典』にはアイヌ語のトリデの意とあって、そう思い込んでいる方が多いのですが、それに疑間をもって調査された研究があります。一高清水菊太郎『郷土研究』大正三年刊一それを参考に現地名に直し、さらに各種の地図や古文書および聞き込みなどで私が調べた結果では、全国で二百を越えています。古墳が茶磨山とよばれているところもあります。よく知られているのは、上杉謙信と武田信玄の約十二年間にわたる川中島周辺の争奪戦で信玄が茶臼山に布陣したことです。現在のJR篠の井駅から北西に見える山は近年の山崩れで山容が変わったが、かつては頂上が平で、ここに風林火山の軍旗がひるがえったわけです。また天正三年五月、織田、徳川の連合軍が戦国最強とうたわれた武田の騎馬隊を設楽原一したらばら一に大破した長篠の戦で家康が本陣をおいたのも茶臼山だし、慶長十九年十一月の大坂冬の陣でも、家康は現在の天王寺区茶臼山町にある茶磨山に陣をかまえました。全国的にみると、毛利の勢力下にあった地方にはきわだって茶臼山が多いのも注目されます。ところでなぜ茶臼山なのか。布陣すればまず一服、来るべき戦いのために心構えを整えねばならぬ。茶臼がデンと山頂に据えられ、茶会がはじまる。「茶臼は引かでは落ち申さず。一先引き候えば、敵は粉になし可申候えば、実(げ)にも実にもとて……」陣を引くが茶を挽くにかかっているのです。どの茶臼山も富士山の形をしています。頂上が平で、円錐形に裾がひろがっていて、陣を布くには好都合なのでしょう。ところが『地名辞典』にはチャウスはアイヌ語の砦を意味する。だから東国に多いとありますが、これはたいへんな間違いで、東国にはほとんどありません。 芭蕉の俳句  ところで芭蕉の旬に山のすがた蚕が茶臼の覆いかな「延宝四年夏、富士山をみて……・−」とあります。ところが岩波文庫の『芭蕉俳旬集』には蚕のところが蚤になっています。わたしはこれが気になって芭蕉の本をあさりました結果、これは後世のひとが、蚤と朱をいれたものであることがわかりました。古い諺に、ありえないことが現実になったことのたとえに「蚤が茶うす」とあり、蚤が茶磨を背負って富士山をチョイと越えた、つまり足軽からの成りあがり者が天下をとった故事ですが、蚤が茶磨を背負ったのでは、とうてい山の姿にはなりません。麓の雲を蚕にみたて、その上に茶磨に覆いをかけたすがたを想像してください。芭蕉は若い頃、江戸で土木をしていましたが、その仕事から帰る途中で見た句ですから、山のすがたを茶磨に風呂敷をかぶせてシミュレーションしてみました。五月頃にはこんな風景を新幹線の車窓からまれに見ることができます。 戦国の秘密工場  茶磨は茶の湯にともなって普及したのですが、それは粉挽きの石ウスとならんで普及しました。実は意外な、これも日本独白の普及過程をたどったのでした。軍事用だったのです。種子島に鉄砲が伝来したのは、天文12年(1543)とされてますが、それ以降日本では鉄砲製造技術が急速に進歩した。ノエル・ペリンというアメリカ人が書いた『鉄砲をすてた日本人』(紀伊国屋書店、1984)によると、戦国時代の日本は、鉄砲の技術水準もその所有数も世界一だったとあります。新技術開発には必ず何かべースになる技術があるが、鉄砲は刀鍛冶の技術がべースになった。伝来から約30年後の長篠の合戦には織田・徳川の連合軍が鉄砲隊を組織して、戦国最強を誇る武田の騎馬軍団を撃破した。戦国の武将たちは、この新兵器を手にいれるのに血まなこだった。しかし「鉄砲も火薬なければタダの筒」です。これは「コンピューター、ソフトなければタダの箱」というのに似ています。だが歴史書には鉄砲の話はあっても、なぜか肝心の火薬の調達、とくに製法については曖昧です。鉄砲伝来当初には、火薬のひとつの原料である硝石を、堺の商人を通じて外国から輸入したようですが、まもなく国産化しました。黒色火薬は、硝石75、木炭15、硫黄10の割合で混合したものです。いずれも細かい粉末です。硫黄や硝石は粉にしやすいが、木炭を粉にするのは難しいことです。その粉づくりの技術次第で鉄砲の性能が左右される。粉にする仕事は下級武士が下々に命ずる。下々はまたその手下に命じる。このパターンは現代のハイテクの大企業が下請に素材をつくらせるのに似ている。現代の下請工場の歴吏が残らないように、戦国時代のマル秘火薬調合工場にも一切の記録がない。私はこれを実証してテレビで見せました。火薬でも口火用の高性能火薬は茶磨なしではできないことがわかったのでした。  しかし、ここにひとつの事実があります。こ16の時代の激戦地から、おびただしい石ウスの破片が、まとまって出土するのです。しかも、おもしろいことに、抹茶用の茶磨と粉を挽く石ウスとが、同じ場所に集まっている。全く用途がちがい、挽く人の身分もちがうはずの二種類の石ウスが、混在するのはなぜか。よく調べると、石の質も形状もまちまちです。これはあちこちから集めてきたことを示しています。当時はまだ茶臼は一般庶民には普及していない道具だから、かなり遠方からとりよせた可能性があります。その石ウスは徹底的に破壊されています。敵の手にわたるのを恐れたのか、それとも侵入者が破壊したのか。  ところで、これが火薬工場だとはじめて言いだしたのは、福島県郡山地方史研究会長、田中正能氏です。氏は戦時中、藤沢の近くにあった火薬廠にいて、炭の粉づくりに苦心した人で、その体験がこの説を迫力あるものにしています。日本軍も石臼で弾薬を調達していたことなど知る人ぞ知るです。信長に扇動された一揆により、一乗谷で討死した朝倉義景の戦火にやけただれた茶磨なども逸品中の逸品です。甲府市の大泉寺には、戦国の武将武田信玄の遺品が残されていますが、そのなかに信玄愛用の茶磨が、「いぽ丸」という愛称で存在します。筒井順慶が織田信長の力を背景にして、奈良の社寺の力を押さえて大和郡山城を築いたのは天正八年(一五八○)でした。ところがこの地には石が少ない。そこで奈良中の石という石をかき集めることになった。墓でも仏像でも五輸塔でもかまわず集めた。そのなかに茶磨も沢山入っていました。みごとな茶磨の破片もありました。(図4一奈良・興福寺多門院の日記、『多門院日記』に興味深い記述があります。それから十年ほど後のことですが「天正十七年十一月九日マメヤニテ茶臼質二遣、二貫文借用、二文子也。内一貫ニテ古米七斗七升買之」「雨少ツツ下、茶臼上”八升二買了、祝著〃」などとあり、当時の茶磨の値段がわかるのは面白いことです。っぎに各地で貴人や武将たちの夢の跡が茶磨から断片的に見つかります。想像をかきたてる発掘物を紹介します。  鎌倉瑞泉寺を訪ねたときのこと。銘に「磨盤緑塵 住持比丘 東啓周奎 寛文五(1665))」とありました。さっそく和尚さんは円覚寺史を調べて「公帖召上追放 法系断絶」とあるのを見つけて、「いままで気がつかなかったが不思議な臼の縁ですね」とおどろきの態でした。  おなじようなことが中世の無縁墓地でもありました。茶磨再会物語です。岐阜県郡上郡美並村で天正年間の城跡(餌取城)付近の民家の軒先で植林鉢の台になっていた茶磨の下臼の片割れがあることを、同地の研究家永井克美氏から知らされました。そのあとしばらくして、裏山の砂防工事のさいに、もう一方の片割れが発見された。割れ目が完全に一致したと連絡がありました。上臼はどこにあるのだろうと思っていたら、なん と約2キロの距離にある無縁墓地にそれらしい上臼が見つかったといいます。慶長二年の刻銘のある村瀬文右衛門の墓の花立てに上臼の孔が利用されていたのです。あまりにもよくできた話なので、まさかと思ったのですが、同村村史編集委員池田勇次氏の立ち合いで、合わせてみると間違いなくそれは対であることが判明しました。ではなぜ石臼が1キロの旅をしたのか。さらに調べてゆくと、この墓地は明治時代に餌取城近くから移転されたことがわかりました。三箇所に別れていた茶磨の不思議な茶磨探訪再会物語でした。以来私は茶磨には霊がこもるという話がほんとうかもと思うようになりました。  長野県飯田市松尾・南の原遺跡からは戦火で焼けただれているが、形を完全にのこしている茶磨が見つかりました。天正元年に信長に攻められた城跡です。この茶磨は囲炉裏の灰の中に隠れていたため破壊されなかったようです。  葛飾区青戸・葛西城跡ではおびただしい数の茶磨片が石臼とともに発掘されました、八王子市八王子城跡ではやはり茶磨片が発見され、文書から弾薬庫あとを確かめて調査しているグループがあります。島根県能義郡伯太町には、尼子氏が戦った安田要害山の合戦のあった谷間から茶磨片が移しく出たという。一松本興著『安田要害山の合戦』)茶磨片を追う旅はまだはじまったばかりといえそうです。

松江藩主不昧公がこうもり印をつけたのはなぜか?幸せの象徴とするのは韓国だが。(松江郷土館蔵)

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