朝倉義景の茶臼--中世越前武士団の足音をきく

 昭和51年末にNHKテレビでこの遺跡が紹介された。昭和のはじめ頃から、この地では中世の遺物が畑などから出土することが知られていた。昭和40年代に一帯が耕地整理の対象となり、工事がはじまると、ブルドーザーの下から多数の遺物が出土するようになった。テレビでは、これらの遺物をたんねんに集め、遺跡保存に尽力された土地の人、西田保さんが、畑を指さしながら、出土の模様を話されていた。数々の遺物が紹介されていくうちに、突然、茶臼がテレビの画面一杯に出た。つまらない番組の多いテレビも,たまには役に立つこともある。さっそく、NHKに問合せて同遺跡調査団の一ツ橋大学氷原慶二先生に連絡し、同遺跡調査研究所長河原純之氏に紹介していただいた。「いつでも来て下さい、ただし目下大雪の下だから、雪溶けを待った方がいいでしょう」とお便りにあった。4月23日(昭52)はじめて研究所を訪ねた。遺跡は福井市の東南約10キロの山手を少し入ったところにある。、河原所長にお会いし、所員の方に遺跡を案内していただいた。発掘はなおつづけられていたが、すでに発掘ずみの遺跡だけでも広大な面積にわたり、よくぞこれだけの場所が保存されたものだと思った。田んばのなかのありふれた土手が土塁であったり、山の中の露岩群が往時の庭園跡だったりした発掘の経過を聞いていると、数百年前の生活がよみがえって、武士達がひづめの音をひびかせていまにも帰ってきそうな気配がする。 一乗谷・朝倉氏遺跡 遺跡は福井市の東南約10Hの山手に位している。これは九頭竜ダムを経て、美濃白鳥から郡上八幡にぬける美濃街道の入口を押える戦略的配慮からであろうか。ここには文明三年(一四七一)から天正元年(一五七三)までの約一〇〇年間、越前を支配した朝倉氏の本拠がおかたじまれた。朝倉氏は但馬の国(兵庫県)の出身であるが、南北し,士朝の乱のさい、朝倉広量は北朝方の斯波高経にしたがい、新田義貞などの南朝方を討ち敗った功により、越前に所領をえ、以後代々、越前守護斯波氏に仕えた。広景から七代目の孝景のとき、。応仁の乱が起り、朝倉氏はト」の混乱に乗じて、主家斯波氏を追放して、越前の支配者となった。典型的な下剋上の戦国大名である。この頃一乗谷に居城を構えたと考えられている。遺跡は一乗川に沿って帯状に広がる狭い平地と、その両側の広大な山地にわたっている。平地には居館、武家屋敷、寺院など、また山地には山城、砦、櫓などがある。天正元年,朝倉氏滅亡後,大きな変化がなかったので,わが国中世史上注目すべき遺跡とされている。

朝倉義景の金垂の茶磨計測図と写真(西田さん)

 天正元年以降ほとんど人家がなかったのでここに出土する石臼はそれ以前である。西田保さんはその後死亡され,その後継ぎの小倉 治さんから聞いたところによると,現在西田家に保存されている遺物は実はいずれも息子が「子供のころ見つけたものです。親父が有名になりましたが」と。そして上記の「金垂の茶磨」は井戸跡から出たことを知った。金垂とは石のなかに黄鉄鉱を含んでいるため金をちりばめた感じがあり,珍重されたという。火災で焼けただれているが,丹念に復元されている(小倉氏の仕事)。

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