リンク:ローマ時代前後に対応する東洋(中国漢代)


石臼を訪ねて西洋と東洋の文明史の謎にぶつかった

 私が石臼に興味をもちはじめた頃のことであった。イギリス・ローマ時代の石臼の写真で日本の今に残っている石臼と全く同じ八分画を見て驚いたとともに感激した思い出がある。これは偶然ではない。未知の壮大な文明史への入口だった。

Reynolds,J."Windmills & Watermills"(Hugh Evelyn London,1970)p13より

次は 横川文雄訳『ヘディン中央アジア探検紀行全集第2巻』(白水社、1964)に「シルクロードで直径一メートルを超える石臼があり、水力で回されていた斑岩でできた石臼があった。」とあった。その後シルクロードの起点、中国の敦煌博物館でやはり八分画の石臼(上石)を確認した。

ひっくり返して,見事な8分画を確認した瞬間,監視のウルサイねえちゃんに見つかりシャシンダメ。

さらに残念ながら博物館員は関心がなく、その出所について不明、そして普通の民家にあるものだという説明にがっかりした。

博物館近傍でも同様の遺物があったが、その後建設工事の下敷になったという。これは現在中国各地に残っている最近まで使用されていた石臼とは違う古代の形態であった。現在の敦煌からは想像もつかないが、往時はこの地の寺院に石臼があって、年末には臼の目立てをした晩唐五代初頃の記録がある(那波利貞「敦煌地方仏教寺院の碾磑経営に就きて」『東亜経済論叢』一巻,三号,1941)。

中国でしばしば見かける最近まで使った石臼(始皇帝陵への道端で発見)

 米文明と小麦文明の対比 :紀元前数世紀にオリエントで出現したロータリーカーンは,それ以前に支配的であった直線運動の挽き臼、サドルカーンを駆逐するに足る技術的な優越性を備えていた。それは回転運動を基本としていたからである。とりわけヨーロッバのように小麦に依存することの多い文明に.とって、ロータリーカーンはその後の小麦製粉の基本をなし、西洋の工業文明確立過程の主役であった。ここで、米と小麦との加工工程の差違について考えておくことが大切である。米は脱穀すれば玄米であ、さらに搗き臼で精米して白米になる。そのすべてを搗き臼で処理することが可能であり、粉砕する工程はない。ところが、小麦は硬い皮が深く胚乳部にくい込んでおり、これをとり出して分離するには、細かく粉砕したければならない。穀粒から人間の口までの加工工程が米食では著しくシンプルである。いいかえれば米食に比し小麦は、著しいエネルギー入力を要求するのである。古代人が小麦を食うための労力は、米食とは比べものにならたかった。古代オリエントの人たちはそれに必要な労働のなかから、挽き臼(石臼)を発明し、発達させたのである。そしてサドルカーンを極限まで大型化させたのはエジプト文明であった。その発達線上に現われたロータリーカーンは、それが回転運動を基本にしていたために、水車や風車の動力と結びついて、後に製粉プロセスの工業化への道を拓くことができた。

 水車製粉工場:マルクスはその著『資本論』において「すべての機械の基本形態はローマ帝国が水車において伝えた」と書いている。さらにその注には次のことがのべてある。「機械の全発達史は小麦製粉工場の歴史によって追求できる。イギリスでは工場は今なおミル(mill)と呼ばれている。十九世紀の初め数十年間にでたドイツの技術書では、なおミューレという表現が、自然力をもって駆動されるすべての機械のみでなく、機械的装置を用いるすべての工場にたいしても見いだされる。」(第四編第12章「分業とマニュファクチュア」より)  ここでマルクスがいう機械の基本形態としての水車というのは、わが国の水車小屋とは全く趣を異にしていた。木製の搗き臼があり、米を搗くのが主体であったわが国の水車にたいし、西洋の水車小屋は、挽臼を主とし、完備した伝導機構を発達させる必要性を含んでいた。

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